日本史大戦略 ~日本各地の古代・中世史探訪~

列島各地の遺跡に突如出現する「現地講師」稲用章のブログです。

新鎌ヶ谷駅周辺の変遷

2021-05-17 00:22:07 | 歴史探訪
 プロフィールのページにも書いてある通り、私は1972年に松戸市で生まれましたが、もっと細かく言うと、新京成の常盤平駅の北口にあった佐々木産婦人科で生まれ、同じく新京成のみのり台駅の近くの賃貸マンションで幼少期を過ごし、小学校に上がる直前にこれまた新京成の元山駅の近くの賃貸マンションに引っ越しました。

 24歳で最初の結婚をして東京都杉並区久我山に引っ越すまで18年くらい元山、正確には五香六実にいたわけですが、五香六実という場所は面白い場所で、松戸市ではあるものの市川市や鎌ケ谷市や沼南町(現・柏市)や柏市にも徒歩で行けるという、松戸市内においては辺境の地、と言ったら怒られちゃうかもしれませんが、要するに境界の町であり、私がいまだに辺境や境界という言葉に惹かれるのは、そういった住環境で育ったことも重要なファクターとなっていると思料されます。

 その生まれ故郷の松戸には東京に引っ越してからは数えるほどしか行っていないのですが、2019年12月に雷電號を手放すことが決まったため、お別れのドライヴで千葉の古墳をめぐり、そのついでに40年ぶりくらいにみのり台を訪れてきました。

 ⇒2019年末に車で訪れた時の探訪レポートはこちら

 それにつづき、2020年5月30日には、江戸幕府の牧場であった小金牧の跡を歩いてみたくなって、電車と徒歩で訪れています。

 ⇒2020年に歩いて彷徨ったときの探訪レポートはこちら

 さて、何でいきなりこんな話をしたのかというと、先日仕事で千葉に行き、五香六実からほど近い新鎌ヶ谷のホテルに一泊したため、その時の様子をレポートしようと思いついたからです。

 いや、レポートというほどの内容では無いな。

 私のイメージの中では、新鎌ヶ谷駅の周辺は梨畑だらけだったのですが、超久しぶりに行ってみたらまったく当時の面影が無く、本当にビックリしました。

 私が泊まったのは東横インです。



 私は東横イン好きなので、宿泊地に東横インがある場合は最優先で選択するのですが、いや、そんなことはどうでもよく、新鎌にビジネスホテルがあるということ自体を現実として受け止めるまでに少しの時間を要してしまいました。

 ホテルをチェックアウトした後は、すぐに「成田スカイアクセス線」に乗って成田空港方面まで行かないとならないため、ほとんど写真を撮る暇はありません。

 駅まで向かって歩いていると、昨日の夜は暗くて分からなかった景色が明らかになっており、本当にここは新鎌なのかと、夢でも見ているのではないかと、私は覚束ない足取りで新鎌ヶ谷駅へ向かいました。



 ない、ない、どこにも無い!



 梨畑が無い!

 ・・・え、え!?

 鎌ケ谷市の観光案内図!



 鎌ケ谷大仏が大きくフィーチャーされてる!

 しかも等身大!

 全然関係ないですが、古代はこの辺は相馬郡の最南端で、「相馬の野馬追」に関連した祭りを鎌ケ谷でもやっているんですよ。

 平将門のテリトリーなのだよ。

 商業施設もありまする。



 おっかしいなあ・・・

 梨畑はいったいどこに・・・



 もう現実を直視して、梨畑への妄執を解き放つことにします。

 こちらは東武線の入口。



 新鎌ヶ谷駅は、北総開発鉄道、新京成、東武野田線の3線が乗り入れる巨大ターミナル駅へと変貌していました。

 あ、巨大は誇張です、ごめんなさい。

 ※あとで気づきましたが、上の写真に梨があった!

 北総線(成田スカイアクセス線)はこちらから。



 はい、電車来た。



 ということなのですが、ちょっとここで新鎌ヶ谷駅とその周辺の歴史を簡単に振り返ってみます。

 まず、現在の地図を見てみましょう。



 これを見ると駅の近くには果樹園のマークがわずかながら残っています。

 やはりまだ少しは梨畑があるんですね。

 電車は3つの線が乗り入れているのが分かると思います。

 南北の線が東武野田線で、東西の直線方向が北総線、グニャっと曲がっているのが新京成で、北初富駅と初富駅は新京成の駅です。

 ※ちなみに、新京成は松戸駅と京成津田沼駅の間をやたらと無駄にグニャグニャ走っているのですが、下総台地の上の分水嶺に線路を引いたためグニャグニャしてしまったという面白い経緯があり、戦時中までは民間の鉄道ではなく、日本陸軍の演習用の路線でした。

 五香六実に住んでいた頃は、この地図の範囲内は普段の行動範囲で、母は初富のイトーヨーカドー内のポッポでパートをしていた関係で、たこ焼きとかを焼くのが上手です。

 上の地図上の「鎌ケ谷市」と大きく書いてある横には「下総小金中野牧跡」という史跡マークがありますが、それは2020年に訪れていますのでレポートを参照してください。

 それでは、これより少し前の1998~99年です。



 一見、それほど変わりが無いように見えますが、新鎌ヶ谷駅前にはまだ商業施設はなく、道路の走り方も違いますね。

 東武線の新鎌ヶ谷駅はまだありませんし、新京成の北初富駅の場所も違います。

 北初富駅は、この時点では地上駅だったのですが、2019年に場所を移動して高架駅となりました。

 さらに遡って、1987~88年です。



 これは現在とかなり違いますよ。

 新鎌ヶ谷駅はまだ存在しません。

 この頃の北総線はまだ京成線方面に繋がっておらず、北初富駅~小室駅間だけ開通しており、北初富から先は新京成に乗り入れて松戸まで行っていたのです。

 そして、小室駅から成田方面の隣の千葉ニュータウン中央駅までの1区間は、「住宅都市整備公団鉄道」という別の鉄道が開業しており、千葉ニュータウン中央駅から先はまだできていませんでした。

 これから少し経って、1991年には新鎌ヶ谷駅が開業して、北総線は京成線に乗り入れて都心へ向かうようになります。

 私の頭の中にイメージとしてある新鎌ヶ谷駅はこの頃のもので(つまりは30年前!)、駅のホームも極端に言うとプラットホームしかないくらい簡素なもので、ホームから見渡す風景は、時には緑の風景、あるいは寒風吹きすさぶ季節には荒涼たる風景に映ったものです。

 ですから、上述したように現代の新鎌ヶ谷駅周辺の風景を見て我が目を疑ってしまったわけです。

 当時の写真が手元に1枚もないのが本当に残念。

 もしタイムマシンが製造されたら、それに乗って当時の自分に写真を撮っておくように伝えに行きます。

 最後にもう少し古い、1978~79年のものをお見せします。



 あー、ちょうどYMOが流行っていた頃ですね。

 第1次テクノブームでした。

 と、知ったかぶりをして言いますが、小学校に上がったころの私は当時のテクノブームはリアルタイムでは知りません。

 さて、この地図では北総線がまだ北初富につながっていませんが、画面の右側と左側で地図が造られた時期が1年違うため、こんなふうになってしまっています。

 北総線が北初富~小室間で開通したのは1979年でした。

 当時私は小学校に上がったばかりだったと思いますが、従兄弟たちとよく電車に乗って遊んでおり(1年生になってからしばらくは、未就学児と偽って無賃乗車をしていました<時効成立>)、開業したての北総線にもよく乗りましたよ。

 7000形、カッコよかったな。


※Wikipediaより転載(PekePONさん撮影)

 できたてホヤホヤの車内の匂いはいまだに鮮明に覚えています。

 今でもまれに新造車両に乗ることがありますが、すごくいい匂いなんですよねえ。

 当時画期的だったのは、駅に自動改札機を導入したことで、その頃はそれを見るたびに「今ここに未来がある」と感じたものです。

 というわけで、簡単に新鎌ヶ谷駅周辺の歴史を振り返ってみました。

 ちなみに、自治体名の鎌ケ谷市を表記する際の「ケ」は大きい方で、駅名の新鎌ヶ谷は小さい方ですよ。

 余談ですが、この日の前の晩は、東武野田線の鎌ヶ谷駅近くにある「博士ラーメン」に行きました。

 博士ラーメンは、ラーメンも美味しいですがタイ料理もとても美味しくて、以前食べた時の味が忘れられず訪問したのです。



 そして今回は、とても評判の良いトムヤムクン・ラーメンを注文してみました。



 噂にたがわず美味い!

 濃厚なエビ出汁のスープが中太麺によく絡んで絶妙な味です。

 時短営業でかつアルコール類も頼めませんでしたが来てよかった。

 コロナが収まったら、鎌ケ谷や船橋に住んでいる友人たちと食べに行きたいです。

 (了)

 ⇒2019年末に車で千葉を訪れた時の探訪レポートはこちら

 ⇒2020年に故郷を歩いて彷徨ったときの探訪レポートはこちら

 


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