⇒前回の記事はこちら
律令時代の代表的な遺跡としては国分寺跡以外にも国府跡や郡家跡、官道跡などがあります。
今日は甲斐国の国分僧寺跡と国分尼寺跡を見たので、国府跡へも行ってみたいです。
国府はときの政治情勢によって移転することがあり、例えば陸奥国は最初は7世紀後半に仙台市太白区の郡山遺跡がそうだったのですが、のちに724年に築城された多賀城へ移転します。
※仙台市太白区の郡山遺跡
※宮城県多賀城市の多賀城跡
東北の場合は蝦夷との絡みもありちょっと特殊なのですが、相模国も2回引っ越したとの説もありますし、ここ甲斐国も2回引っ越したといわれています。
※神奈川県平塚市の相模国府跡
つまり3か所が想定されるのですが、そのうちの一つが笛吹市内にあります。
住所はズバリ「国衙(こくが)」。
いいねえ。
国府というのは律令時代の「国」の行政府で、今でいう県庁のようなものですが、そのなかで、幹部役人である国司らが政治を行う政庁とその周辺建物のことを「国庁」と呼び、国庁を含めその周辺の今でいう官庁街のことを「国衙」と呼びます。
つまり、国府のなかに国衙があり、国衙の中に国庁があったと理解しておけばよいです。
三重構造ですね。
それでは、甲斐の国衙跡を探しましょう。
昨日出発前に今日の準備はあらかたしてきたのですが、どうやら自作してきた地図にプロットした場所が間違っているようです。
見つけられません。
とりあえず、近くのローソンに車を停めさせてもらい、後で朝食を買うので、その前に周辺を歩いて調べてみます。
こういうときは普段使わないスマホが大変役に立ちます。
GoogleMapを見ながら住宅街を歩いて行くと、遠くに標柱のようなものが見えました。
もしかして、あれかな?
近接します。
やはりそうでした!
石碑の裏には説明が彫られています。
倭名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)には、国府の所在地は「八代郡」とあることから、該書が記された平安時代中期の承平年間(931~938)には、国府はここにあったことが想定できます。
ただし、石碑に記されている通り、ここに造られる前には先ほど歩いた国分寺の近くにあり、さらに遡ると笛吹市春日居町国府(こう)にあったという説があるわけです。
しかし、ここもそうですし、どの場所も文献や地名、それに条里制地割からの推定であって考古学的には「不明」ということになります。
なお、「甲府」という地名がありますが、現在の甲府の場所に甲斐の国府があったわけではなく、中世に時代が移り変わったあと、甲斐国の守護・武田信虎が躑躅ヶ崎館を領国支配の拠点にしたため、その地名が起こりました。
歩いてきた道はこんな感じ。
では、ローソンに戻り、朝食を買います。
寒い中行動していると、こういうものが食べたくなるんだな。
最近のお気に入りの一つで、掃除の仕事の時もたまに食べます。
自分の記録を見ると、麺屋武蔵は、2011年9月29日に千代田区周辺の神社めぐりをしていた際に秋葉原でつけ麺を食べたことが史実として実証できます。
身体が温まったので、探訪再開!
⇒この続きはこちら
律令時代の代表的な遺跡としては国分寺跡以外にも国府跡や郡家跡、官道跡などがあります。
今日は甲斐国の国分僧寺跡と国分尼寺跡を見たので、国府跡へも行ってみたいです。
国府はときの政治情勢によって移転することがあり、例えば陸奥国は最初は7世紀後半に仙台市太白区の郡山遺跡がそうだったのですが、のちに724年に築城された多賀城へ移転します。
※仙台市太白区の郡山遺跡
※宮城県多賀城市の多賀城跡
東北の場合は蝦夷との絡みもありちょっと特殊なのですが、相模国も2回引っ越したとの説もありますし、ここ甲斐国も2回引っ越したといわれています。
※神奈川県平塚市の相模国府跡
つまり3か所が想定されるのですが、そのうちの一つが笛吹市内にあります。
住所はズバリ「国衙(こくが)」。
いいねえ。
国府というのは律令時代の「国」の行政府で、今でいう県庁のようなものですが、そのなかで、幹部役人である国司らが政治を行う政庁とその周辺建物のことを「国庁」と呼び、国庁を含めその周辺の今でいう官庁街のことを「国衙」と呼びます。
つまり、国府のなかに国衙があり、国衙の中に国庁があったと理解しておけばよいです。
三重構造ですね。
それでは、甲斐の国衙跡を探しましょう。
昨日出発前に今日の準備はあらかたしてきたのですが、どうやら自作してきた地図にプロットした場所が間違っているようです。
見つけられません。
とりあえず、近くのローソンに車を停めさせてもらい、後で朝食を買うので、その前に周辺を歩いて調べてみます。
こういうときは普段使わないスマホが大変役に立ちます。
GoogleMapを見ながら住宅街を歩いて行くと、遠くに標柱のようなものが見えました。
もしかして、あれかな?
近接します。
やはりそうでした!
石碑の裏には説明が彫られています。
倭名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)には、国府の所在地は「八代郡」とあることから、該書が記された平安時代中期の承平年間(931~938)には、国府はここにあったことが想定できます。
ただし、石碑に記されている通り、ここに造られる前には先ほど歩いた国分寺の近くにあり、さらに遡ると笛吹市春日居町国府(こう)にあったという説があるわけです。
しかし、ここもそうですし、どの場所も文献や地名、それに条里制地割からの推定であって考古学的には「不明」ということになります。
なお、「甲府」という地名がありますが、現在の甲府の場所に甲斐の国府があったわけではなく、中世に時代が移り変わったあと、甲斐国の守護・武田信虎が躑躅ヶ崎館を領国支配の拠点にしたため、その地名が起こりました。
歩いてきた道はこんな感じ。
では、ローソンに戻り、朝食を買います。
寒い中行動していると、こういうものが食べたくなるんだな。
最近のお気に入りの一つで、掃除の仕事の時もたまに食べます。
自分の記録を見ると、麺屋武蔵は、2011年9月29日に千代田区周辺の神社めぐりをしていた際に秋葉原でつけ麺を食べたことが史実として実証できます。
身体が温まったので、探訪再開!
⇒この続きはこちら
この前木簡の講座でびっくりしたのが律令国家から派遣されてくる国司には任期があるらしいです。で一方郡司はその地域の長が終身みたいな事を説明の中に数度出てきてとても新鮮でした。とすると私が探しているその土地の有力者なり古墳の主体者は国司の流れではないはずです。
すると国衙の辺りで探るのが一番その地域の専門家を探すのにはいいはずです。
なので国府よりも国衙の方が魅力ありすぎです。ただそんなにも場所離れていたらよっぽど仲悪いって思ちゃいますし、業務もやりにくいので国衙の中に国府作ったりしてたら益々面白くなりますね。
いい国司が派遣されて来ることの方が少なかっただろうし、その地域の知識もやはり少なかったはずです。ただ墨書き土器が存在するならば国司も書けたのかな?役人でしょうから。
それとも国衙ですでに役人が墨書き等もしていたならそれはそれで日本はずいぶんと優れた文人が各地にいたんでしょうね。硯の石の産地は東北が有名だったようですから東北ともお付き合いしていたのか?単純にどこかで墨書きされた物がきていたにしても交流がその時期あったんですから凄い先端な場所だったんでしょうね。
甲斐今後楽しみですね。