今月は旧石器時代が私のテーマになっていますが、東京の旧石器時代の遺跡で聖地ともいえる板橋区の茂呂遺跡には、是非行ってみたいと思っていました。
それとともにその近くの志村城跡も見てみたいと思い、今日は板橋区を探訪することにしました。
高尾駅発8時53分の京王の準特急に乗って、まずは新宿を目指します。
中央線を使わないのは、京王の方が運賃が安いからです。
なんと高尾~新宿間は190円も違う!
これは大きい。
新宿では今度は埼京線に乗り換えます。
私はあまり埼京線を利用したことが無く、池袋に行くのにもいつも山手線を使っていました。
今日改めて埼京線に乗ると、新宿と池袋の間ってすごく短いんですね。
今日は板橋区探訪ということで、池袋の次の駅の板橋駅で降りました。
時刻は10時10分です。
我が家を出たのが8時40分なので、1時間半で着きました。板橋区は思っていたより近いです。
でも地図で見ると板橋駅って豊島区じゃないですか?北区とも境界ラインです。
それはそれとして、まずは氷川町の氷川神社を目指します。
板橋駅から北西方向に歩き、中山道に合流し、そのまま道なりに歩きます。
ゆっくり20分くらい歩くと、前方に鎮守の杜のような木々が見えました。
あれが氷川神社じゃないか?
やはりそうでした。さきほどの場所から4分ほどで、氷川神社に着きました。
氷川神社は埼玉県の大宮に本社があり、埼玉や東京北部の人びとにはなじみのある神社で、素盞男命(すさのおのみこと)と稲田姫命(いなだひめのみこと)の夫婦を祀っています。出雲(島根県)の神ですね。
境内には、先日の大雪で作った狛犬が置かれています。
もう融けかけていますが、面白いことをする人もいるもんですね。
境内の一角には境内神社がまとめて祀られています。
境内神社は、
・小御嶽神社
・天祖神社
・稲荷神社
・浅間神社
・諏訪神社
・淡島神社
・厳島神社
・三峯神社
・古峯神社
です。
密かに期待していたアラハバキはいない!
アラハバキという神は、天皇家の先祖が日本を支配する前に主に東北・関東で祀られていた神です。
高橋克彦さんの小説にも出てきますね。
氷川神社とアラハバキは関連が深いのです。
当氷川神社の由緒ですが、元久3年(1206)頃、領主豊島左衛門尉経泰によって勧請されたと伝わっています。
それ以来、中山道板橋宿の鎮守として崇拝されてきましたが、明治22年の火災と太平洋戦争の戦禍により、重要な文献や社宝のおおかたを焼失してしまったそうです。
神社の北側は旧石器時代の人たちも愛した石神井川(しゃくじいがわ)が流れています。
石神井川に架かる新板橋から上流を眺めます。
ここから3km上流地点には、今日の午後訪れる予定の茂呂遺跡があります。
今はまず、少し下流にある「板橋」を見に行きます。
川沿いを3分ほど歩くと、「板橋」がありました。
「板橋」というのは、ここの地名のもとになった、石神井川に架かる橋のことです。
現在の橋は昭和47年に架けられたものですが、『義経記』にも出てくることから、ここには鎌倉時代から橋があったと考えられています。
日本橋から10.6km余り。
ここでも石神井川の下流と、
上流を眺めてみます。
私は結構川が好きなんです。川マニア(カーマニアじゃない)。
近世(江戸時代)は、ここを中山道が通っており、現在は商店街になっています。
北に向かって歩いていくと、なかなか懐かしい感じの看板が目に入りました。
なんだか、三十数年前の幼少のころを思い出すようなデザインです。
そこのさらに北には「縁切榎」というものがありました。
江戸時代、ここの榎の下を通って嫁に行くと縁が短くなるといわれ、嫁入りの行列もわざわざここを迂回して行きました。
それが転じて現在では、悪縁を絶つ以外に、酒や病気を絶ったり、逆に良縁になるとも言われるようになりました。
あなたもアル中の友達に教えてあげてはいかがでしょうか。
板橋駅からずっと歩いてきた感じでは、このあたりは住むのにも良さそうな感じです。
お店も多いし、都心(この場合の都心は山手線の輪の中)にも近くて、しかも町の雰囲気が良いです。
さて、次は板橋本町駅から都営三田線に乗って、志村三丁目駅に移動しましょう。
三田線も私にとってはあまり縁がない電車です。
そもそも板橋区自体が今までほとんど縁がありませんでした。
でも板橋本町駅の隣の本蓮沼駅には何年か前に来たことがあります。
北区の西が丘サッカー場になでしこの試合を観に来たのです。
もっと細かく言うと、宮間あや選手がお目当てだった!
三田線に乗ったのはそれ以来だなあ。
電車は志村坂上駅を出た後地下から地上に出ます。
車窓から南側(進行方向左側)を見ると、比高20mほどの台地になっているのが分かります。
電車が走っているのは、現在の荒川と新河岸川の沖積地で、台地の上は武蔵野台地です。
志村三丁目駅で降り南側に行くと、台地が間近に見えました。
この台地の上に中世の志村城跡があるはずです。行ってみましょう。
そのまま坂を登り台地に上がると、熊野神社がありました。
ここはすでに志村城の二の丸です。
いや、二の丸という表現は近世の城郭に対する表現なので、私たち中世城館マニアは「二の郭(にのくるわ)」あるいは「二郭(にかく)」と呼びます。
当熊野神社は、長久3年(1042)にこの地の豪族・志村将監が勧請したと伝わっており、境内神社の八幡神社は、源頼義・義家父子が前九年合戦(1052~63)の際に勧請したと伝わっています。
昔の本殿は奥の院といって、石造の小祠であり、その柱石に長久3年と刻してあったことと、出土した古鏡が藤原時代のものであることから、志村将監という人物名は別としても、歴史は古いようです。
さて、神社というか二郭を見てみます。
拝殿に向かって右手側(東側)から裏手に入っていき、ぐるっと回って、西側に来ました。
そうしたら、ありました!
空堀です!
東京都23区の板橋区で空堀だ!
写真だとあまり分からないと思いますが、見まごうことなき空堀です。
だいぶ浅くなっていますが、これだけの空堀が残っているのは奇跡じゃないですか。
奥の方(南側)に進んで行くと、鉤の手状(「与」の字の横棒を取ったような形)になっていて、こういうのを「横矢が効いている」と言います。
これも写真だととんでもなく分かりませんが、空堀は一直線にするより、鉤の手状にする方が防御効果が増すのです。
空堀に侵入した敵を横から弓矢(志村城の時代)で狙い撃ちできます。
その南側には土塁のような形状が見えますが、土塁かどうかは分かりません。
この空堀は、主郭(近世でいうところの本丸)と二郭を区切る空堀で、主郭は現在はマンションが建っています。
熊野神社の由緒によると、康正2年(1456)に千葉隠岐守信胤が志村城を築いたとあります。
『新編武蔵国風土記稿』では、篠田五郎あるいは千葉氏支族の居城という説を載せています。
15世紀中葉といえば、西方4kmに千葉氏惣領の弟である千葉自胤(よりたね)が拠った赤塚城があり、志村城は赤塚城の支城であったのではないでしょうか。
また、赤塚城よりも近くで、赤塚城との間には(志村城西方約2.5km)、徳丸石川遺跡があり、畝状の空堀が検出されています。これも赤塚城の支城かもしれませんが、畝状の空堀ということで、時代はもう少し下って後北条氏の時代(16世紀)かもしれません(以前は畝状の空堀は後北条氏関係者の築城だと考えられていましたが、近年では畝状の空堀がすべて後北条氏系統のものであるとは限らないことが分かっています)。
さらに、志村城の北2kmの、荒川と新河岸川に挟まれた低地に舟渡遺跡というものがあります。ただし、これは方形の館跡なので志村城より古いと思われますが、昔の説のように方形館跡は鎌倉時代のものだという説は現在では行われていないので、意外と志村城に近い年代の館跡かもしれません。
あと、志村といえば、あとで出てきますが、板橋区立郷土資料館に観応元年(1350)10月17日付の「志村親義着到状」というものが残っており(ただし展示されているのは複製)、南北朝時代に志村氏がこの地を治めていたことは確かであり、そうすると志村城を築城したのは千葉氏と伝わっているので、志村氏は没落してしまったか、もしくは志村城は千葉氏のものとなっても、上記の舟渡遺跡の居館のような場所に住んで、代官のような立場にいたのかもしれません。
志村城は武蔵野台地の辺縁にあり、北側の眺望が開けており、先ほども述べたとおり台地下との比高差は20mほどです。
一部分とはいえ、空堀が残っていることから、志村城跡は中世城館マニア必見の城跡ですね。
さて、次はもう一箇所、中世城跡を訪ねて、板橋区立郷土資料館、そして茂呂遺跡に行ってみましょう。
後編はこちらです。
それとともにその近くの志村城跡も見てみたいと思い、今日は板橋区を探訪することにしました。
高尾駅発8時53分の京王の準特急に乗って、まずは新宿を目指します。
中央線を使わないのは、京王の方が運賃が安いからです。
なんと高尾~新宿間は190円も違う!
これは大きい。
新宿では今度は埼京線に乗り換えます。
私はあまり埼京線を利用したことが無く、池袋に行くのにもいつも山手線を使っていました。
今日改めて埼京線に乗ると、新宿と池袋の間ってすごく短いんですね。
今日は板橋区探訪ということで、池袋の次の駅の板橋駅で降りました。
時刻は10時10分です。
我が家を出たのが8時40分なので、1時間半で着きました。板橋区は思っていたより近いです。
でも地図で見ると板橋駅って豊島区じゃないですか?北区とも境界ラインです。
それはそれとして、まずは氷川町の氷川神社を目指します。
板橋駅から北西方向に歩き、中山道に合流し、そのまま道なりに歩きます。
ゆっくり20分くらい歩くと、前方に鎮守の杜のような木々が見えました。
あれが氷川神社じゃないか?
やはりそうでした。さきほどの場所から4分ほどで、氷川神社に着きました。
氷川神社は埼玉県の大宮に本社があり、埼玉や東京北部の人びとにはなじみのある神社で、素盞男命(すさのおのみこと)と稲田姫命(いなだひめのみこと)の夫婦を祀っています。出雲(島根県)の神ですね。
境内には、先日の大雪で作った狛犬が置かれています。
もう融けかけていますが、面白いことをする人もいるもんですね。
境内の一角には境内神社がまとめて祀られています。
境内神社は、
・小御嶽神社
・天祖神社
・稲荷神社
・浅間神社
・諏訪神社
・淡島神社
・厳島神社
・三峯神社
・古峯神社
です。
密かに期待していたアラハバキはいない!
アラハバキという神は、天皇家の先祖が日本を支配する前に主に東北・関東で祀られていた神です。
高橋克彦さんの小説にも出てきますね。
氷川神社とアラハバキは関連が深いのです。
当氷川神社の由緒ですが、元久3年(1206)頃、領主豊島左衛門尉経泰によって勧請されたと伝わっています。
それ以来、中山道板橋宿の鎮守として崇拝されてきましたが、明治22年の火災と太平洋戦争の戦禍により、重要な文献や社宝のおおかたを焼失してしまったそうです。
神社の北側は旧石器時代の人たちも愛した石神井川(しゃくじいがわ)が流れています。
石神井川に架かる新板橋から上流を眺めます。
ここから3km上流地点には、今日の午後訪れる予定の茂呂遺跡があります。
今はまず、少し下流にある「板橋」を見に行きます。
川沿いを3分ほど歩くと、「板橋」がありました。
「板橋」というのは、ここの地名のもとになった、石神井川に架かる橋のことです。
現在の橋は昭和47年に架けられたものですが、『義経記』にも出てくることから、ここには鎌倉時代から橋があったと考えられています。
日本橋から10.6km余り。
ここでも石神井川の下流と、
上流を眺めてみます。
私は結構川が好きなんです。川マニア(カーマニアじゃない)。
近世(江戸時代)は、ここを中山道が通っており、現在は商店街になっています。
北に向かって歩いていくと、なかなか懐かしい感じの看板が目に入りました。
なんだか、三十数年前の幼少のころを思い出すようなデザインです。
そこのさらに北には「縁切榎」というものがありました。
江戸時代、ここの榎の下を通って嫁に行くと縁が短くなるといわれ、嫁入りの行列もわざわざここを迂回して行きました。
それが転じて現在では、悪縁を絶つ以外に、酒や病気を絶ったり、逆に良縁になるとも言われるようになりました。
あなたもアル中の友達に教えてあげてはいかがでしょうか。
板橋駅からずっと歩いてきた感じでは、このあたりは住むのにも良さそうな感じです。
お店も多いし、都心(この場合の都心は山手線の輪の中)にも近くて、しかも町の雰囲気が良いです。
さて、次は板橋本町駅から都営三田線に乗って、志村三丁目駅に移動しましょう。
三田線も私にとってはあまり縁がない電車です。
そもそも板橋区自体が今までほとんど縁がありませんでした。
でも板橋本町駅の隣の本蓮沼駅には何年か前に来たことがあります。
北区の西が丘サッカー場になでしこの試合を観に来たのです。
もっと細かく言うと、宮間あや選手がお目当てだった!
三田線に乗ったのはそれ以来だなあ。
電車は志村坂上駅を出た後地下から地上に出ます。
車窓から南側(進行方向左側)を見ると、比高20mほどの台地になっているのが分かります。
電車が走っているのは、現在の荒川と新河岸川の沖積地で、台地の上は武蔵野台地です。
志村三丁目駅で降り南側に行くと、台地が間近に見えました。
この台地の上に中世の志村城跡があるはずです。行ってみましょう。
そのまま坂を登り台地に上がると、熊野神社がありました。
ここはすでに志村城の二の丸です。
いや、二の丸という表現は近世の城郭に対する表現なので、私たち中世城館マニアは「二の郭(にのくるわ)」あるいは「二郭(にかく)」と呼びます。
当熊野神社は、長久3年(1042)にこの地の豪族・志村将監が勧請したと伝わっており、境内神社の八幡神社は、源頼義・義家父子が前九年合戦(1052~63)の際に勧請したと伝わっています。
昔の本殿は奥の院といって、石造の小祠であり、その柱石に長久3年と刻してあったことと、出土した古鏡が藤原時代のものであることから、志村将監という人物名は別としても、歴史は古いようです。
さて、神社というか二郭を見てみます。
拝殿に向かって右手側(東側)から裏手に入っていき、ぐるっと回って、西側に来ました。
そうしたら、ありました!
空堀です!
東京都23区の板橋区で空堀だ!
写真だとあまり分からないと思いますが、見まごうことなき空堀です。
だいぶ浅くなっていますが、これだけの空堀が残っているのは奇跡じゃないですか。
奥の方(南側)に進んで行くと、鉤の手状(「与」の字の横棒を取ったような形)になっていて、こういうのを「横矢が効いている」と言います。
これも写真だととんでもなく分かりませんが、空堀は一直線にするより、鉤の手状にする方が防御効果が増すのです。
空堀に侵入した敵を横から弓矢(志村城の時代)で狙い撃ちできます。
その南側には土塁のような形状が見えますが、土塁かどうかは分かりません。
この空堀は、主郭(近世でいうところの本丸)と二郭を区切る空堀で、主郭は現在はマンションが建っています。
熊野神社の由緒によると、康正2年(1456)に千葉隠岐守信胤が志村城を築いたとあります。
『新編武蔵国風土記稿』では、篠田五郎あるいは千葉氏支族の居城という説を載せています。
15世紀中葉といえば、西方4kmに千葉氏惣領の弟である千葉自胤(よりたね)が拠った赤塚城があり、志村城は赤塚城の支城であったのではないでしょうか。
また、赤塚城よりも近くで、赤塚城との間には(志村城西方約2.5km)、徳丸石川遺跡があり、畝状の空堀が検出されています。これも赤塚城の支城かもしれませんが、畝状の空堀ということで、時代はもう少し下って後北条氏の時代(16世紀)かもしれません(以前は畝状の空堀は後北条氏関係者の築城だと考えられていましたが、近年では畝状の空堀がすべて後北条氏系統のものであるとは限らないことが分かっています)。
さらに、志村城の北2kmの、荒川と新河岸川に挟まれた低地に舟渡遺跡というものがあります。ただし、これは方形の館跡なので志村城より古いと思われますが、昔の説のように方形館跡は鎌倉時代のものだという説は現在では行われていないので、意外と志村城に近い年代の館跡かもしれません。
あと、志村といえば、あとで出てきますが、板橋区立郷土資料館に観応元年(1350)10月17日付の「志村親義着到状」というものが残っており(ただし展示されているのは複製)、南北朝時代に志村氏がこの地を治めていたことは確かであり、そうすると志村城を築城したのは千葉氏と伝わっているので、志村氏は没落してしまったか、もしくは志村城は千葉氏のものとなっても、上記の舟渡遺跡の居館のような場所に住んで、代官のような立場にいたのかもしれません。
志村城は武蔵野台地の辺縁にあり、北側の眺望が開けており、先ほども述べたとおり台地下との比高差は20mほどです。
一部分とはいえ、空堀が残っていることから、志村城跡は中世城館マニア必見の城跡ですね。
さて、次はもう一箇所、中世城跡を訪ねて、板橋区立郷土資料館、そして茂呂遺跡に行ってみましょう。
後編はこちらです。
京王と中央(JR)とではけっこう料金が違うんですね、参考になりました。
中世城郭、遺構の残存度は都会としては奇跡に近いくらい残されていたようで、その興奮具合が見て取れますね。
私も少しずつこの分野に戻りたいと思わず考えてしまいました・・・いつかは必ず復帰はしますがね。
都会で空堀を見つけると、そのミスマッチからか、とても興奮します。
でも、とらねこさんもご存じの通り、写真にすると何だか分からないですよね。
興味がある人にはぜひ現地に行って見ていただきたいです。
そこにたどりつく前にも相当びっくり地形で稲用さんに伝えねばとお知らせしましたよ。
豊島氏はうちの関係ではお決まりの方ですし、個人的によく出るお名前が関わっているので自分でここぞと行ってきました。
おまけにこの前昔話で知った蛸薬師にまで出会ってしまったんですよ。本では京都でしたけど、藤原時代なら奈良から接点あってもおかしくないですよね。ちなみに伺ったお寺は奈良の長谷寺の関係のようでした。これも大抵私に関わるキーワードなのできたきたと。
で別当としていたのが、熊野神社です。
古墳上と調べて行きましたけど地形は現地ではさっぱりでした。けど凄かったです。
博物館もあるならまた伺いたい場所ですね。
熊野神社にはまた石神社ってのが消えかけていて読めたんですけど、そこと八幡神社の所で強烈な熱を感じたんですよね。石清水系じゃないかな?
義朝由来にあったっけ?そう1042とか由来にありましたけど、関東は大抵源氏が最初。けどまだまだ遡れるはずですよね。
今後が楽しみです。
そう私のいく所は大抵薬師さんいるんですけどお寺の本尊は地蔵さんでした。それも奈良に繋がるんですよね。あと欅だかも枯れてしまったようですけどあったようです。船着場があったかも?
縄文海進まで遡れるのか?記事には旧石器との言葉もありましたね。ワクワクです。
1045番号はプラス3年。1042〜1045の天皇とか誰かなあ?面白い所伝えるつもりでしたが
ご存知だったとはさすがですね。