3.探訪レポート
2019年6月17日(月)
この日の探訪箇所
木更津市郷土博物館 → きみさらずタワー → 君津市八重原公民館 → 南子安金井崎遺跡 → 九十九坊廃寺跡 → 道祖神裏古墳 → 八幡神社古墳 → 三直城跡 → 古墳の里ふれあい館 → 内裏塚古墳 → 白姫塚古墳 → 九条塚古墳 → 森山塚古墳 飯野陣屋跡 → 亀塚古墳 → 割見塚古墳 → 稲荷山古墳 → 小久保藩庁・藩主邸跡 → 弁天山古墳 → 東京湾観音 → 源頼朝上陸地
それでは、内裏塚古墳群めぐりを開始しましょう。
この富津ふるさと展示室には駐車場が無いため、とりあえずどこかの古墳まで行って、そこに雷電號を停めて歩いてめぐろうと思います。
まずは何をおいても内裏塚古墳へ行ってみます。
墳丘長144mを誇る、千葉県で最も大きな古墳です。
埼玉・東京・神奈川を合わせた南関東でも最大ですよ。
富津ふるさと展示室を出てすぐに、内裏塚古墳の傍までやってきました。
なんか完全な森になっていて、整備されているような感じはありませんね。
説明板がありますので読んでみましょう。
ここに書いてある通り、内裏塚古墳は5世紀半ばの築造で、履中陵と墳形が似ているという指摘もあることから、当時のヤマト王権と密接な関係のあった在地首長の墓である可能性が高いですが、内裏塚古墳群はこの内裏塚古墳の築造を端緒として築造が開始されます。
ということは、在地首長が元々この地に居たとして、彼がいきなりこんな大型墳を築造したとしたら、よっぽど王権に対して大きな功績があったと考えるべきで、それがいったい何だったのかを考えると面白いです。
しかしその一方で、元々いた在地首長の墓ではなく、ヤマト王権の政策によってこの地に送り込まれてきたヤマトの将軍(王族の場合もある)の墓である可能性も捨てきれません。
ところで、説明板の最後に書いてある「古墳祭」が気になりますね。
※帰宅後Webで調べてみたところ、それらしい祭りの記事は見つかりませんでしたが、「富津ふるさとまつり」というのは毎年開催されているようです。
とりあえず、雷電號を停められるところを探します。
普通車が数台停められるスペースがみつかりました。
よし、それでは墳丘へ登ってみたいと思いますが、この森にはどこから入るのがいいんだろうか?
ここ行けそうだな。
茂みの中に飛び込むと道が付いていました。
後円部墳頂に到着。
登ってきた道を振り返ります。
これが先ほどの説明板に書いてあった珠名姫に関する説明ですね。
墳頂には立派な石碑が建っていますよ。
※あとで知りましたが、石碑の台座になっている石は石室の天井石だそうです。
※2019年12月22日にクラツーのツアーで案内した時に撮影
前方部側を見ます。
ここにも下に行く道が付いている。
内裏塚古墳は全体的に木々に覆われており、辛うじて墳頂部分のみが普通に歩行可能になっています。
ですから、墳頂から下の方を見下ろしても、墳丘の形状などを観察することはできません。
千葉県最大の前方後円墳なのに、なんかちょっと残念な佇まいだなあ。
クラツーで案内しようと考えていますが、ツアーのタイトルには「千葉県最大の前方後円墳」を持ってきても、現地はこれですから、お客様はちょっとガッカリするかもしれない。
ここから県道方向に降りられます。
古墳から出ました。
あ、ここにも説明板があった。
説明の最後に書いてありますが、須恵国造の系譜に連なる人物かどうか、興味深いですね。
須恵の初代国造の墓は、この後訪れる予定の墳丘長103mの九条塚古墳じゃないかと考えていますが、九条塚古墳の被葬者と彼の曽祖父くらいの世代に当たる内裏塚古墳の被葬者が果たして血縁関係にあったかどうか、それは分かりません。
墳丘図をよく見てみましょう。
墳丘も長いですが、横幅もあってグラマラスなプロポーションをしており、中期の古墳らしい形をしています。
とてもヤマトチック。
ただ、これだけの大型墳であっても周堀は二重じゃないんですね。
二重堀の可能性はないのかなあ?
全景を写すのは無理そうですね。
前方部側の周堀跡。
これくらい引くのが限界かな。
さて、実際に内裏塚古墳を見た感じでは、ヴィジュアル的にはちょっと弱いため、古墳群の他の古墳で面白ポイントを探してみます。
ここからしばらくは歩いて探索してみますよ。
(つづく)