志段味大塚古墳は、5世紀後半に築造された墳丘長51mの帆立貝形古墳で、葺石や埴輪を含めて復元されており、しだみ古墳群ミュージアムの屋外展示の象徴的な古墳です。
発見容易
詳しい説明板あり
墳丘登頂可能
博物館隣接
お勧め度:
*** 本ページの目次 *** 1.基本情報 2.諸元 3.探訪レポート 4.補足 5.参考資料 |
1.基本情報
所在地
名古屋市守山区大字上志段味字前山1367(しだみ古墳群ミュージアム)
現況
公園
史跡指定
志段味大塚古墳
国指定史跡
出土遺物が見られる場所
しだみ古墳群ミュージアム
2.諸元
築造時期
志段味大塚古墳
5世紀後半
墳丘
志段味大塚古墳
形状:帆立貝形古墳
墳丘長:51m
主体部
2基見つかっている
出土遺物
第1主体部から五鈴鏡や馬具など
周堀
あり
3.探訪レポート
※本墳はクラブツーリズムのツアーで探訪する予定があるため、参加予定の方はネタバレを嫌がるかもしれませんが、このページを読んだとしても現地を歩く楽しさが減ずることはありません。
2020年12月27日(日) 濃尾ツアー下見3日目 その5
この日の探訪箇所
八高古墳および剣ヶ森古墳 → 村上おどり山古墳 → 名古屋市博物館 → しだみ古墳群ミュージアム → 大塚3号墳 → 大塚2号墳 → 志段味大塚古墳 → 大久手5号墳 → 東大久手古墳 → 西大久手古墳 → 勝手塚古墳 → 東谷山白鳥古墳 → 白鳥塚古墳 → 南社古墳 → 中社古墳 → 尾張戸古墳
しだみ古墳群ミュージアムは賑やかしくてとても雰囲気のよい博物館でした。
つづいてミュージアムの南側の段丘上にある志段味古墳群を探訪しましょう。
古墳群への登り口の手前に全体図があります。
一口に「志段味古墳群」と言ってもかなり広大で、公園になっている個所は「大塚・大久手古墳群地区」と呼ばれているようです。
この地区の目玉は、葺石や埴輪まで積極的に復元された志段味大塚古墳でしょうね。
志段味古墳群全域まで範囲を広げるとこんなにいろいろあります。
東谷山(とうごくさん)という山の頂上にまで古墳があるんですね。
実は今日は、志段味古墳群をササっと見学して、岐阜県最大の昼飯古墳を見に行こうと思っていたのですが、志段味古墳群を念入りに見るとなると時間的に無理ですね。
時刻はすでに13時20分。
今日の残りの時間はこの広大な志段味古墳群の探訪に使うかもしれませんが、まずは行ってみましょう。
説明板に書いてある通り、現在は庄内川の低位段丘にいますが、ここから中位段丘へ登り古墳を見ます。
比高差は十数メートルくらいでしょうか。
それほどはありません。
ちょっと引いて見てみるとこんな感じ。
階段を登るとすぐに土盛りが現れました。
早速古墳の登場です。
こんな、と言ったら失礼ですが、墳丘の残骸にもきちんと高価な説明板を置いています。
ここに書いてある通り、大塚3号墳は、5世紀後半ごろの築造と推定される墳丘径19mの円墳です。
反対側から見てみましょう。
大塚3号墳は中位段丘の北側縁に築造されていますが、比高差を確認します。
すでに見えていますが、志段味大塚古墳へ行ってみたいので東へ向かいましょう。
お、これも古墳ですか!
大塚2号墳。
最初は前方後円墳かと思って写真を撮りましたが、前方部と思っていた場所は道路の法面で、実際は円墳なんですね。
しかし、こういう整備の仕方はかなりマニアックだなあ。
おそらく普通だったら跡形もなく古墳を壊すんじゃないかと思いますが、少しでも古墳を残そうとして設計されたこの公園は素晴らしいと思います。
志段味大塚古墳へ向かって歩いて行くとその背後に特徴的な山が視界に入りました。
あれが東谷山ですね。
標高198.3mで、名古屋市最高峰の山です。
先ほど話した通り、あの山頂にも古墳があって、ミュージアムの館長さんからもかなりお勧めされたので、後で登ってみようと思います。
というか、マスクを外して遊んでいる子がいますよ。
帰るときは忘れないでくださいね。
そしていよいよ、志段味大塚古墳の登場です。
前方部の手前には埴輪列について書かれた説明板があります。
確かに粘土の種類や焼成温度によって焼き上がりの色味は変わりますね。
この古墳は築造時にわざと統一せずにカラフルにしたのではないかと思います。
いや、いいですよ、この感じ!
造出。
水鳥形埴輪の首が見えていますね。
説明板。
後円部側へ回ってみましょう。
葺石には様々な種類の石を使っています。
これは復元ですからこうなっていますが、往時はもっと石の密度が高かったはずです。
しかし、関東人的には葺石といったら真っ白な河原石なわけで、よく私も葺石が葺かれていた古墳を説明するときは、「築造当初は墳丘は真っ白に輝いていたんです」と話すのですが、こちらでは先ほどの埴輪と同様、葺石もこんなに色とりどりだったんですね。
こういう感じのものは他の地域ではみたことがありません。
築造当時はさぞかし綺麗だったことでしょう。
よく聞く、愛知県民の「見せびらかし文化」はこのころからあったのかもしれませんよ。
あ、「見せびらかし文化」と言っても決して悪口ではありませんよ。
墳頂に登ってみましょう。
墳頂では子供たちが遊んでいましたが私とすれ違いで降りて行ったので今が撮影チャンスです。
割竹形木棺の復元がありますね。
二つあった主体部のうち、こちらは第2埋葬施設です。
長さ3.5mの割竹形木棺があったと推定されていますが、通常木棺は溶けてなくなるため、木棺が安置されていた形跡が見つかっています。
木棺の蓋の上には2枚の盾が置かれていましたが、それ以外の副葬品は見つかっていません。
埴輪氏武(はにわうじたける)としだみこちゃん。
しだみこちゃんって、志段味と巫女を掛けているのかな?
いや、それよりも埴輪氏武のネーミングの由来を知りたい。
※註:帰宅してからもなんでそうネーミングされたのか気になって仕方がありません。
第1埋葬施設。
梅原先生、来てたんですね。
こちらは長さ3.15mの木棺の形跡がみつかっており、説明板に載っているように五鈴鏡や馬具などの副葬品が見つかっています。
第1埋葬施設の表示は墓壙ではなく木棺の推定位置です。
二つの位置関係。
墳頂からの眺め。
あ、子供たちが再び登ってきました。
「電車ごっこ!」と言って木棺にまたがります。
もしこの光景を天の上から被葬者が眺めたら喜ぶんじゃないでしょうか。
小さい子供たちが元気に遊ぶ姿というのは微笑ましいものですし、それで大人たちは活力をもらうのです。
きっと被葬者も自身の支配領域下に住む子供たちが楽しそうにしている平和な光景を見て、支配者としてとても幸せに感じているんじゃないでしょうか。
それでは墳丘から降ります。
葺石再び。
まるで宝石が散りばめられているみたいだ。
公園の一番東側に来ました。
こちらに志段味大塚古墳の史跡標柱があったんですね。
説明板もあります。
墳丘に登った後になりましたが、ここで志段味大塚古墳のスペックの話が出てきました。
5世紀後半に築造された墳丘長51mの帆立貝形古墳です。
墳丘図。
では、志段味大塚古墳を眺めつつ、公園内の西へ向かいましょう。
『東国尾張とヤマト王権』が引く『古墳時代の考古学 2』(瀬川貴文/著)の編年図によると、志段味大塚古墳が築造された時代は、5世紀半ばから順に以下の古墳が築造されています。
・西大久手古墳
・志段味大塚古墳
・大久手5号墳
・東大久手古墳
・勝手塚古墳
築造時期的にはちょうど1世代に1基造られたようで、詳しい考察はまた後日にしますが、これらのうち、最後の勝手塚古墳は段丘を降りた低位段丘上にあり、公園案内図によるとこの公園の中には、西大久手古墳、大久手5号墳、東大久手古墳がありますので、つづけてそれらの古墳を見てみたいと思います。
(つづく)
4.補足
5.参考資料
・『国史跡 志段味古墳群の実像』 深谷淳/著 2015年
・『東国尾張とヤマト王権』 近つ飛鳥博物館/編 2017年
・『体感!しだみ古墳群ミュージアム 展示室ガイドブック』 名古屋市教育委員会/編 2020年