今日は2015年11月3日に探訪した足利の史跡について書いているのですが、今から3年少し前にもかかわらず、探訪直後にルポルタージュを書いておかなかったため、いま書こうとしてもほとんど思い出せず、この記事はほぼ写真の羅列になってしまいますのでご了承ください。
それと、探訪時はまだ「古墳スキル」が低かったため要点を抑えた写真が撮れていないのも痛いです。
これは再訪するしかないですね。
もう一度行ける機会を伺います。
⇒前回の記事はこちら
八雲神社の境内から丘に登ります。
墳丘がポコポコしているのが分かりますね。
簡単な説明板がありました。
ここに書かれている通り、足利公園古墳群は学史的にも重要な古墳群で、明治19年に国内で初めて学術調査がされた古墳なのです。
その時の指導者は、かの坪井正五郎先生でした。
江戸期の前半でも那須の下侍塚古墳は水戸黄門が学術的な発掘調査をしていますが、近代になっての嚆矢とされています。
現状、10基の古墳が確認されており、配置は以下の通りです。
おや、4号墳と6号墳は欠番ですね。
何ででしょう。
それはそうと、古墳群は丘陵の尾根上に並んでおり、10基のうち1基だけは前方後円墳で残りは円墳です。
築造時期は6世紀以降。
まずは南側(丘陵先端部)へ向かって歩いてみましょう。
一番大きな前方後円墳の3号墳。
11号墳の向こうに10号墳。
さきほどの配置図を見て気づいた方もいらっしゃるかもしれませんが、3号墳の前方部正面には少し広いスペースが空いており、ここには古墳は造られなかったようです。
その隅に塔が建っています。
明治28年と38年と書かれているので、日清・日露両戦争の記念碑ですね。
3号墳を前方部から見ます。
5号墳の石室入口は開いていますが、中には入れないようになっています。
尾根の最高所にある2号墳。
『近代 足利市史 第一巻』によると、2号墳からは大人12人、小児2人の合計14人もの人骨が検出されているそうです。
まるで弥生時代の墳丘墓みたいですが、これはちょっと特殊なので今後よく調べてみます。
2号墳の墳頂から見る遠くの山並み。
いやー、今日は晴れていて墳丘の上はいつにも増して気持ちいいぞー!
気温も上がり、歩いていると汗ばむくらいです。
おっと、油断していたら9時を過ぎています。
予定では9時には鑁阿寺(ばんなじ=足利氏館跡)を見学しているはずでした。
でもこの場所、気持ちいい。
しかしゆっくりもできないので、下山して市街地を目指します。
古墳群のそばから足利の市街地を望みます。
なお、足利公園古墳群近辺の地形および古墳配置はこちらの図をご覧ください。
今日は足利市駅で下車して、渡良瀬川の右岸(南岸)を西に向かい、女浅間神社へ詣でた後、渡良瀬橋を渡って左岸にきてさらに西進してきました。
つまり、この古墳群がある丘と浅間神社の丘の間に渡良瀬川が流れているわけです。
ところが、この流路は『近代 足利市史 第一巻』によると、戦国時代の永禄年間(1558~70)の大洪水によって決まったそうです。
それ以前は太田市市場町あたりから浅間神社の丘の南側を流れ、現在の矢場川の流路を取り、足利市野田町あたりで現在の渡良瀬川の流れに合わさっていました。
もちろん、昔の川は大雨が降ればあっちに行ったりこっちに行ったりしたわけなので、古墳群の丘と浅間神社の丘の間にも元々の流れはあったかもしれませんが、1000年に1度級の大洪水が起こると、「定位置」が変わってしまうものなのです。
(つづく)