昼休みを利用してこの記事を書いていますが、どうもまだ身体の調子が戻りません。
午前中の現場に向かうとき、現場の場所を勘違いして走っていました。
幸い、方角は間違っていなかったため若干の軌道修正で収まりましたが、頭がボーっとしています。
それでも現場に入ればいつものように動いてしまうから不思議です。
では、前回の続きなの。
⇒前回の記事はこちら
野毛大塚古墳をはじめとして、野毛古墳群の古墳の多くは多摩川を望む武蔵野台地の段丘上のヘリにあります。
ちょうど住宅が切れて多摩川方面が見えました。
もう一度等々力渓谷に降りますよ。
降りてすぐの左岸に横穴墓の1号と2号があり、3号は中が見れるようになっています。
横穴墓というのは、古墳時代の終わりのほうに盛行したお墓で古墳の一種です。
普通、古墳というと先ほど見た野毛大塚古墳のようなマウンドのあるものを想像すると思いますが、ああいうのは高塚古墳といいます。
でも通常、古墳と言ったら高塚古墳のことをイメージする人が多いのであまり気にする必要はないかもしれません。
上の説明板が言うように農民の間でも富裕な人々の家族墓ということでよいのかどうかは分かりません。
もう少し後の9世紀や10世紀には富裕な農民が登場してきますが、7世紀や8世紀は果たしてどうだったのでしょうね。
古墳時代の社会については分からない点が多く、これはとても面白いテーマです。
あ、誰かが穴を覗き込んでいる。
熱心に穴を覗き込んでいたS源寺さんが私たちに見られていることを察知して離脱しました。
ではもう少し等々力渓谷を歩きましょう。
こんなところに野毛大塚古墳の説明が。
等々力不動尊に来ましたよ。
不動の滝では滝行ができるそうです。
2本の滝がありますが、スーさんが、「左の滝に打たれると頭がよくなり、右は長寿」みたいなことを言ったため、それを真に受けた小林さんが滝の真下へ突入しました。
ところが、スーさんがその場で考えた説だということを知った小林さんは落胆です。
こういう説は下手するとインターネットで拡散して信じられてしまうかもしれませんね。
崖からは相当な量の水が染み出ているので、滝は水道水を流しているのではなく、本物の湧水だろうと皆で話します。
急な石段を上がりますよ。
途中にもお不動さんが。
登りきると、12月10日だというのにまだ紅葉が見れました。
等々力不動尊のジオラマ。
ちなみに、等々力不動尊で名前が知られていますが、満願寺という真言宗のお寺ですよ。
満願寺は寺伝では平安末の創建で、室町時代に世田谷吉良氏がこの地で中興したと伝わっています。
しつこいくらいに等々力渓谷の説明があります。
そして、満願寺の山門から外に出ると、目の前には御岳山古墳が!
御岳山古墳もさきほど言った通り、段丘のヘリにあるため、南側の多摩川方面の地形が落ちているのが分かりますね。
この先にはダスキン玉堤支店がありますが、この近辺の方は玉堤支店にお掃除を頼んでいただくときに「旭が丘支店の稲用さんのブログを見たのですが」と言っても割引などの特典はなく、電話に出た人も「?」となりますので、どうかそういうことは言わないでください。
スーさんが逸早く向かって説明板を熱心に読んでいました。
ここは残念ながら墳丘に入れないんですよね。
どうやら等々力不動尊の管理地のようです。
御岳山古墳は野毛大塚古墳のページでも述べた通り、野毛大塚古墳の次の首長墓と考えられています。
時代的には5世紀の後半で、この御岳山古墳の築造を最後にして、荏原台古墳群では大型古墳の築造が止みます。
そして令制の武蔵国の領域の中心地は埼玉古墳群へと移るわけです。
ただし、律令国家は7世紀後半に武蔵国を作りましたが、それ以前の国造時代は、武蔵国の北と南はもともと別勢力だったと考えることもできます。
さて、続いて野毛古墳群の現存古墳を見ながら田園調布方面へ向かいましょう。
おっと、前方に下り階段が現れました。
降りる途中、大日堂を指し示す標柱があります。
でも私有地っぽく、なんとなく大人数で行くのは気が引けたので割愛して階段を降ります。
階段を降り切りました。
ここは明らかに谷底ですね。
左手は丘陵側。
右手は多摩川方面。
そして前方を見ると急な登り坂です。
登り切って振り返ると、皆さんが下を向きながら登ってきます。
考えてみれば先ほど歩いた等々力渓谷も不思議な地形ですね。
私たちも地形好きが集まっているのですが、ハヤトさんも着目した通り、武蔵野台地に等々力渓谷のような深い渓谷は大変珍しく、この谷も等々力渓谷ほどではないですが、かなり面白い地形で、これらの地形の成り立ちについて非常に興味が湧いてきました。
※この谷の場所は下図の「皆が喜んだ谷」です
この「歓喜の谷」(勝手に命名)を越えた先には狐塚古墳があります。
周囲はカットされていると思われ、もとの状態はわかりませんが、それなりの規模の円墳だったのではないでしょうか。
しかし、世田谷区尾山台という高級住宅地に古墳が残っていることが奇跡ではないかと思います。
だって、この土地を売れば相当なお金になりますよ。
そうせずに残っている理由についは何も知りませんが、ずっとこの古墳を残しておいてくれたらなあと思います。
墳丘からの眺めもいいですね。
何度も言っている通り、ここも段丘のヘリです。
古墳を降りて次へ行きましょう。
坂の下から見上げます。
お、カッコいい車だ!
ダイハツのマークが付いていますが、みなさん「見たことがない車だなあ」と言います。
デザイン的には私が子供のころの車でしょう。
さて、野毛古墳群の最東端の古墳にやってきました。
ここは八幡神社古墳と言う円墳で、宇佐神社の社殿の裏山が古墳なのです。
この神社の本殿は一段高い場所にあります。
ここの墳丘には登れなくなっていますよ。
ここまでが野毛古墳群と呼ばれており、ここから東は田園調布古墳群となります。
両古墳群はシームレスにつながっており、もちろん古代にはまだ世田谷区や大田区はありませんが、現在の行政区画ではここまでは世田谷区でここから東は大田区になるので古墳群の名前も二つに分けているのかなと思います。
もしそうじゃないもっと学問的な理由があるのでしたら教えてください。
ところで、先ほどから五重塔が見えていたので行ってみます。
これですね。
大きな塔ではないですが、立派ですね。
残念ながらお寺の由緒についてはわかりませんでした。
⇒この記事の続きはこちらです
午前中の現場に向かうとき、現場の場所を勘違いして走っていました。
幸い、方角は間違っていなかったため若干の軌道修正で収まりましたが、頭がボーっとしています。
それでも現場に入ればいつものように動いてしまうから不思議です。
では、前回の続きなの。
⇒前回の記事はこちら
* * *
野毛大塚古墳をはじめとして、野毛古墳群の古墳の多くは多摩川を望む武蔵野台地の段丘上のヘリにあります。
ちょうど住宅が切れて多摩川方面が見えました。
もう一度等々力渓谷に降りますよ。
降りてすぐの左岸に横穴墓の1号と2号があり、3号は中が見れるようになっています。
横穴墓というのは、古墳時代の終わりのほうに盛行したお墓で古墳の一種です。
普通、古墳というと先ほど見た野毛大塚古墳のようなマウンドのあるものを想像すると思いますが、ああいうのは高塚古墳といいます。
でも通常、古墳と言ったら高塚古墳のことをイメージする人が多いのであまり気にする必要はないかもしれません。
上の説明板が言うように農民の間でも富裕な人々の家族墓ということでよいのかどうかは分かりません。
もう少し後の9世紀や10世紀には富裕な農民が登場してきますが、7世紀や8世紀は果たしてどうだったのでしょうね。
古墳時代の社会については分からない点が多く、これはとても面白いテーマです。
あ、誰かが穴を覗き込んでいる。
熱心に穴を覗き込んでいたS源寺さんが私たちに見られていることを察知して離脱しました。
ではもう少し等々力渓谷を歩きましょう。
こんなところに野毛大塚古墳の説明が。
等々力不動尊に来ましたよ。
不動の滝では滝行ができるそうです。
2本の滝がありますが、スーさんが、「左の滝に打たれると頭がよくなり、右は長寿」みたいなことを言ったため、それを真に受けた小林さんが滝の真下へ突入しました。
ところが、スーさんがその場で考えた説だということを知った小林さんは落胆です。
こういう説は下手するとインターネットで拡散して信じられてしまうかもしれませんね。
崖からは相当な量の水が染み出ているので、滝は水道水を流しているのではなく、本物の湧水だろうと皆で話します。
急な石段を上がりますよ。
途中にもお不動さんが。
登りきると、12月10日だというのにまだ紅葉が見れました。
等々力不動尊のジオラマ。
ちなみに、等々力不動尊で名前が知られていますが、満願寺という真言宗のお寺ですよ。
満願寺は寺伝では平安末の創建で、室町時代に世田谷吉良氏がこの地で中興したと伝わっています。
しつこいくらいに等々力渓谷の説明があります。
そして、満願寺の山門から外に出ると、目の前には御岳山古墳が!
御岳山古墳もさきほど言った通り、段丘のヘリにあるため、南側の多摩川方面の地形が落ちているのが分かりますね。
この先にはダスキン玉堤支店がありますが、この近辺の方は玉堤支店にお掃除を頼んでいただくときに「旭が丘支店の稲用さんのブログを見たのですが」と言っても割引などの特典はなく、電話に出た人も「?」となりますので、どうかそういうことは言わないでください。
スーさんが逸早く向かって説明板を熱心に読んでいました。
ここは残念ながら墳丘に入れないんですよね。
どうやら等々力不動尊の管理地のようです。
御岳山古墳は野毛大塚古墳のページでも述べた通り、野毛大塚古墳の次の首長墓と考えられています。
時代的には5世紀の後半で、この御岳山古墳の築造を最後にして、荏原台古墳群では大型古墳の築造が止みます。
そして令制の武蔵国の領域の中心地は埼玉古墳群へと移るわけです。
ただし、律令国家は7世紀後半に武蔵国を作りましたが、それ以前の国造時代は、武蔵国の北と南はもともと別勢力だったと考えることもできます。
さて、続いて野毛古墳群の現存古墳を見ながら田園調布方面へ向かいましょう。
おっと、前方に下り階段が現れました。
降りる途中、大日堂を指し示す標柱があります。
でも私有地っぽく、なんとなく大人数で行くのは気が引けたので割愛して階段を降ります。
階段を降り切りました。
ここは明らかに谷底ですね。
左手は丘陵側。
右手は多摩川方面。
そして前方を見ると急な登り坂です。
登り切って振り返ると、皆さんが下を向きながら登ってきます。
考えてみれば先ほど歩いた等々力渓谷も不思議な地形ですね。
私たちも地形好きが集まっているのですが、ハヤトさんも着目した通り、武蔵野台地に等々力渓谷のような深い渓谷は大変珍しく、この谷も等々力渓谷ほどではないですが、かなり面白い地形で、これらの地形の成り立ちについて非常に興味が湧いてきました。
※この谷の場所は下図の「皆が喜んだ谷」です
この「歓喜の谷」(勝手に命名)を越えた先には狐塚古墳があります。
周囲はカットされていると思われ、もとの状態はわかりませんが、それなりの規模の円墳だったのではないでしょうか。
しかし、世田谷区尾山台という高級住宅地に古墳が残っていることが奇跡ではないかと思います。
だって、この土地を売れば相当なお金になりますよ。
そうせずに残っている理由についは何も知りませんが、ずっとこの古墳を残しておいてくれたらなあと思います。
墳丘からの眺めもいいですね。
何度も言っている通り、ここも段丘のヘリです。
古墳を降りて次へ行きましょう。
坂の下から見上げます。
お、カッコいい車だ!
ダイハツのマークが付いていますが、みなさん「見たことがない車だなあ」と言います。
デザイン的には私が子供のころの車でしょう。
さて、野毛古墳群の最東端の古墳にやってきました。
ここは八幡神社古墳と言う円墳で、宇佐神社の社殿の裏山が古墳なのです。
この神社の本殿は一段高い場所にあります。
ここの墳丘には登れなくなっていますよ。
ここまでが野毛古墳群と呼ばれており、ここから東は田園調布古墳群となります。
両古墳群はシームレスにつながっており、もちろん古代にはまだ世田谷区や大田区はありませんが、現在の行政区画ではここまでは世田谷区でここから東は大田区になるので古墳群の名前も二つに分けているのかなと思います。
もしそうじゃないもっと学問的な理由があるのでしたら教えてください。
ところで、先ほどから五重塔が見えていたので行ってみます。
これですね。
大きな塔ではないですが、立派ですね。
残念ながらお寺の由緒についてはわかりませんでした。
⇒この記事の続きはこちらです
東京都の歴史散歩〈中〉山手 | |
山川出版社 |
話が妄想ズレしてるので戻しますが、この前用事で多摩川渡って来ましたよ。それもこちらのルートを参考に東横線を使って。田園調布は地下に行ってしまい宝来山公園は見えず、古墳の方は茂みを見る事は出来ました。そこから木のある場所が続いてここっぽいなあと場所と地形はよく分かりました。多摩川の駅がまた茂みを分断しているようで浅間神社部と亀甲山古墳と両方上から見る事は出来ますね。多摩川園跡とか地図でみて遊園地あったんだっけ?私の知っているのは二子玉川の方ですがここもかなり気になる茂みでしたよ。
電鉄開発の頃のこの地はどんなだったのか?遊園地があった場所、今は大抵廃墟が多いんですけど古代大事な場所多そうなのでここもかな?と。
橋も通りたくてJRじゃなく私鉄路線で。武蔵小杉もどうしても通りたくて電車でずっとそこは満喫してきましたよ。今までただ通りすぎてしまう景色が全く違うように見えました。
あと電車の線路越しに見える景色は平坦で少し下りなので尾根っぽい所に線路あるのかなあ?と。
また洗足池とか池沼みたいな湿地帯も広範囲にあったんだろうなあと。田園調布のイメージが全く変わりましたね。道の作りが明らかに人間の手が加わってますけど本来はどうだったのか?
私が考古学なら浅間神社の東京寄りの多摩川園跡は掘りたいですね。凄い発見するんじゃないかな?職人の町大田区のいい未来収入源になるといいのに。
近畿よりも関東もまだまだ眠ってるもの感じる電車の旅でしたよ。用事での行き来が楽しくなりました、ありがとうございました。5365
地図みて観音塚古墳跡ってありましたけど何もないのかな?宝来公園と古墳の間です。情報あったら教えてくださいね。7762
ちょっと返信が追いつきませんが、すべて読んでいますよ。りひとさんのコメントはある程度の古代史マニアじゃないと理解できないかもしれませんが、非常に示唆に富んでいますので、私も刺激を受けています。
今まで日本人は農耕民族だといわれ、だいぶ前は「騎馬民族征服論」なども出ていましたが、本当は海洋民族じゃないかと最近思っているんです。なので、古代の地形を調べ、海を伝って西日本から来た人たちに思いを馳せています。多摩川の両岸にある古墳群は非常に海洋民族っぽい感じがするんです。
飯豊、岩手では「いんで」って読んだりしますね。20年前から気になっている地名です。
なんか役行者とか不動とかの縁もあるので目黒不動の中にあるお不動様の相棒?童子さんたちがいる茂みと同じイメージを持ってます。龍じゃなく童子のが好みです。
そう地形面白いですね。
大田区から世田谷区とそう昔は境界なかったんでまとめて地形で考えるのが一番ですね。崖とか渓谷がすでに境界にもなりますもんね。
あとなんだったかな?尾山台、田園調布と駅名でしか知らない地の地形気になりますね。
東京にも色々あるんですね!
素晴らしいです。そう大日堂あったんですね!凄い。お地蔵さんも今度探してみます。薬師もいないかな?大田区までだと水神さんも、大日堂あれば風神さんもいそうだなあ。
大昔から栄えていたはず。
時期的も近畿ではとても大事な時代です。
こっちとの繋がりは、古墳の遺物でも出てますね。鏡が等々力から出ているというのも気になりますね。
私の行った吉良さんのお屋敷の所は、江戸時代に鏡関連の職人さん中島さんも関係してますよ。
吉良さんと鏡っていうキーワードで自分の探索しておきます。
10日は納め金比羅さんにも行きたかったんですけど吉良さんの関わりを自分と稲用さんと並行できた日。なんか嬉しくなりましたよ。
ありがとうございます。
そうそう、今回は赤穂の方ではなく山形飯豊町の方が芋煮と玉こんにゃくとお米とかを持って来てくれてました。私のゴールの一つ飯豊町も今後世田谷区辺りとどう絡んでくるか?ちょっと楽しみです。
いっぱい個人的ヒント頂きました、ありがとうございます。7272、いい感じで進んでいるような番号です。