⇒前回の記事はこちら
備前の国庁跡を探訪した後は、古代寺院跡へ行きますよ。
車を走らせてほどなく、山をバックにした寺院跡へ到着しました。
賞田(しょうだ)廃寺跡です。
駐車場にはやけにたくさんの車が停まっているなと思ったら、下草刈りのために大勢の方々が参集し、今はちょうど昼休みを取っているようでした。
では、説明板を見てみましょう。
説明に上道臣というのが出てきます。
現在のところ、私は吉備地方の歴史に関してほとんど知らないので考察はこれからになりますが、下の地図をご覧ください。
※「Yahoo!地図」より加工転載
律令時代(7世紀後半以降)の各国の国府の場所をプロットしていますが、6世紀半ばから7世紀半ばまで存在した国造(くにのみやつこ)の配置を推測を交えながらプロットしてあります。
これを見てすぐに気づくのは、安芸・石見・出雲のように国造の本拠地に国府が置かれ、国造と令制国が一対一に対応している場所があるかと思えば、吉備地方(備前・備中・備後・美作)のように大勢の国造がひしめき合っている場所もあります。
そのひしめき合っているなかに上道国造がいますね。
おそらく、この上道国造が賞田廃寺の建立者ではないかと思いますが、これ以上のことは今のところ分かりません。
3世紀半ばに発足したヤマト王権にて、吉備の豪族たちは王権内の主要な地位に就いたのではないかと思っており、造山古墳(墳丘長350mで当時はヤマトの上石津ミサンザイ古墳と並んで1位タイの大きさ)が築造された5世紀前半が権力の絶頂期だと思いますが、それから小規模国造に分解されて賞田廃寺が建立されるまでの歴史に関してはこれから勉強します。
ところで、関東地方にも古代寺院跡はありますが、こちらの方が遺跡の数は多いような気がします。
なるほど、金堂跡と2つの塔跡が見られそうですね。
最初に現れたのは塀跡を示す柱列です。
説明板が破損している!
門跡のことは何も書かれていませんが、ここから伽藍が立ち並ぶお寺の中心部になります。
史跡はかなり広いので、まだ奥の方は刈っていないようです。
整備された基壇が見えますが、位置的に見ると金堂でしょう。
こちらも説明板があります。
金堂の基壇へ上がってみましょう。
お、古い礎石と新しい礎石が並んでいますね。
説明板によると、見るからに古い礎石は当時のもののようです。
金堂跡からの眺め。
左に目を転じると、東塔跡が見えます。
奥には社が。
それでは、草ぼうぼう地帯へ足を踏み入れますぞ。
賞田廃寺は中世まで存続しており、中世の頃の本堂の礎石も見つかっています。
中世の本堂は古代の金堂跡を踏襲しなかったのですね。
つづいて、西塔跡へ行きます。
あー、ここは礎石は全滅だ。
西塔跡を南側の少し低い位置から見ます。
西塔跡から金堂跡を見ます。
そして最後は東塔跡。
多分、これからの作業でこちらの方面の下草も刈っていただけるのでしょう。
あまり気に留めない方も多いかもしれませんが、こういった史跡は、城跡や古墳などを含め、ほとんどがボランティアかそれ同等の方々の力で保守されているのです。
下草刈りは大変な作業です。
本当にありがたいですね。
賞田廃寺跡の次は、赤磐市まで移動しますよ。
車を走らせるとすぐ、道端に説明板を発見!
中世の山陽道について書かれています。
この辺りは古代の山陽道の国庁へ行くための支路とも重なっているようですね。
さきほど訪れた国長宮の前の道がこの道と繋がっているわけです。
今はこんな感じ。
では、次は赤磐市の牟佐大塚古墳を目指しますよ。
⇒この続きはこちら
備前の国庁跡を探訪した後は、古代寺院跡へ行きますよ。
車を走らせてほどなく、山をバックにした寺院跡へ到着しました。
賞田(しょうだ)廃寺跡です。
駐車場にはやけにたくさんの車が停まっているなと思ったら、下草刈りのために大勢の方々が参集し、今はちょうど昼休みを取っているようでした。
では、説明板を見てみましょう。
説明に上道臣というのが出てきます。
現在のところ、私は吉備地方の歴史に関してほとんど知らないので考察はこれからになりますが、下の地図をご覧ください。
※「Yahoo!地図」より加工転載
律令時代(7世紀後半以降)の各国の国府の場所をプロットしていますが、6世紀半ばから7世紀半ばまで存在した国造(くにのみやつこ)の配置を推測を交えながらプロットしてあります。
これを見てすぐに気づくのは、安芸・石見・出雲のように国造の本拠地に国府が置かれ、国造と令制国が一対一に対応している場所があるかと思えば、吉備地方(備前・備中・備後・美作)のように大勢の国造がひしめき合っている場所もあります。
そのひしめき合っているなかに上道国造がいますね。
おそらく、この上道国造が賞田廃寺の建立者ではないかと思いますが、これ以上のことは今のところ分かりません。
3世紀半ばに発足したヤマト王権にて、吉備の豪族たちは王権内の主要な地位に就いたのではないかと思っており、造山古墳(墳丘長350mで当時はヤマトの上石津ミサンザイ古墳と並んで1位タイの大きさ)が築造された5世紀前半が権力の絶頂期だと思いますが、それから小規模国造に分解されて賞田廃寺が建立されるまでの歴史に関してはこれから勉強します。
ところで、関東地方にも古代寺院跡はありますが、こちらの方が遺跡の数は多いような気がします。
なるほど、金堂跡と2つの塔跡が見られそうですね。
最初に現れたのは塀跡を示す柱列です。
説明板が破損している!
門跡のことは何も書かれていませんが、ここから伽藍が立ち並ぶお寺の中心部になります。
史跡はかなり広いので、まだ奥の方は刈っていないようです。
整備された基壇が見えますが、位置的に見ると金堂でしょう。
こちらも説明板があります。
金堂の基壇へ上がってみましょう。
お、古い礎石と新しい礎石が並んでいますね。
説明板によると、見るからに古い礎石は当時のもののようです。
金堂跡からの眺め。
左に目を転じると、東塔跡が見えます。
奥には社が。
それでは、草ぼうぼう地帯へ足を踏み入れますぞ。
賞田廃寺は中世まで存続しており、中世の頃の本堂の礎石も見つかっています。
中世の本堂は古代の金堂跡を踏襲しなかったのですね。
つづいて、西塔跡へ行きます。
あー、ここは礎石は全滅だ。
西塔跡を南側の少し低い位置から見ます。
西塔跡から金堂跡を見ます。
そして最後は東塔跡。
多分、これからの作業でこちらの方面の下草も刈っていただけるのでしょう。
あまり気に留めない方も多いかもしれませんが、こういった史跡は、城跡や古墳などを含め、ほとんどがボランティアかそれ同等の方々の力で保守されているのです。
下草刈りは大変な作業です。
本当にありがたいですね。
賞田廃寺跡の次は、赤磐市まで移動しますよ。
車を走らせるとすぐ、道端に説明板を発見!
中世の山陽道について書かれています。
この辺りは古代の山陽道の国庁へ行くための支路とも重なっているようですね。
さきほど訪れた国長宮の前の道がこの道と繋がっているわけです。
今はこんな感じ。
では、次は赤磐市の牟佐大塚古墳を目指しますよ。
⇒この続きはこちら