生きる力は弱いけど、世界を変えてみたいのかな・・

弱い自分にしかできないことを見つけよっかな・・・

どこまで寛容になれるのか その必要はあるのか

2023-03-14 12:53:06 | 日記

時間を守れない人がいる。

 そんな人に対して、どこまで寛容になる必要があるのかな。

約束を守れない人がいる。

 そんな人に、どこまで寛容になれるだろう。

任せられたことをただするだけなのに、それができない人。

 その人のために、いろんなことが滞ってしまっても、寛容でいられるだろうか?

 

正義はそれぞれだし、

道徳観もきっと差があるし、

生まれ育った文化背景も違うのかも。

 

人の痛みがわかるとかいうことも、

遺伝子的に思いやりのような感覚が薄い人もいるのだとしたら、

誰も責められないし、そんな多様性を受け入れるのだろうか?

 

こんなふうに考えるのは、

どこかで自分がいい人でいたいという気持ちの表れなのかもしれない。

それはそれで独りよがりで、

そこにありそうな正義はたぶん歪んでいるんだろう。

 

きっと、

歪んだ正義感を持った人たちは

同じように歪んだ正義感を持った人たちと群れたがり、

そこで安心して、

自分たちとは違う正義感を持った人たちを

連帯を組んで、責めるのだろう。

おまえたちは正義ではないと言って。

 

きっと寛容である必要なんてない。

大切なのは、自分がそこで傷ついていくかどうか。

傷つくことがないのなら、寛容でいればいい。

傷つくようだったら、責めるなり、逃げるなりして、

しっかり自分を守ることが大事。

 

たぶん、答えなんてない。

長い時間の後に、答えに近いことが

少しだけわかる。

そんなもんだと思う。


梅を見る人梅を食う鳥

2023-03-10 11:00:54 | 日記

しだれ梅が咲いていて

きれいですねと言って人が過ぎていく。

梅の木の上の方をみると

ヒヨドリが忙しそうに梅の花をつついている。

食べているのかな。

 

梅の花が美しいとか言う人や、

梅まつりをしようとか言う人は、

ヒヨドリのことをきっと嫌がるわけで、

 

ヒヨドリのことが好きな人は、

どんどんお食べ、なんて言いながら、

きっとニコニコしている。

 

ヒヨドリが梅をつつくのを見て楽しむ会なんてのが

あってもよいのかもしれないし。

 

花を愛する人たちも

守りたい美しいと思うもののために、

時に好戦的になることもあるだろう。

 

花を食べることを愛するものたちと、

うまくやっていくことは難しいのだろう。

 

梅が咲いたよ。あっそう。春だね。

鳥が梅を食べているよ。おいしいんだろうな。

関心もこだわりもない人たちが、

平和な素敵な人に思えるのは、良いことなんだろうか?

 

 

 

 


悲しみの中にあった希望みたいな何か

2023-03-07 10:32:10 | 日記

かつて住んでいた辺りに、

まっすぐな道があって、

それは小さい頃、力一杯走った道。

運動会の練習だとか言って、

100m、200m、思いっきり駆け抜けた。

 

その道に立って、

過去の記憶が蘇って、

そして、なぜ、

ただそこに現れた過去の記憶が

ただそれだけで、悲しみになってしまうのか、

よくわからない。

 

二度と戻れない過去は悲しみ。

二度と会えない人との記憶は悲しみ。

たくさんあったはずの嬉しいできごとたちも、

なぜか、みんな悲しみの姿をしている。

なんでだろう。

 

ただ、なにか自分の中に、

この倒れてしまいそうな悲しい気分の中に、

なぜか、

いつまでもそこにとどまっていたい自分がいる。

 

悲しみの姿をした気分の中に、

そこにとどまっていたいと思う「望む」気持ちが確かにある。

それはまるで、

死にたい気持ちの中に、

生きたい気持ちが宿っているみたいな、

そんな予感につながるもののような。

 

じっとじっと心の中をのぞきこむと

その気持ちを作り出した裏側のものや、

その気持ちを作り出している全くべつのものや、

絶望の顔をした希望みたいなものに

気づくことができるのかな。

 

朝早い西の空に

まんまるい赤い月が浮いていた。

月が沈むこと。

太陽が昇ること。

それがほぼ同時に起きていること。

そんな時間と

そんな空間の中に

いる

自分。

 

 

 


人権とか きれいごとを離れたときの無力感

2023-03-06 13:48:38 | 日記

大きな声で正義を叫ぶ。

たとえ偏っていたとしても、

誰かが大きな声を出すと、何かが反応したり

動き出したりするきっかけになるから、

それはそれでいいことなんだと思う。

 

あげ足をとったり、とられたりしながら、

それでも異なる価値観に関しての言葉がぶつかりあっていくこと。

そんなふうにして、時々はよいものごとも生まれていく、きっと。

 

いろんな、たくさんの人の人権を踏みにじりながら、

コスト削減をして経済が成り立っていて、

なんて話も誰かが大声を出して、

少しずつよいほうに進んでいけばいい、と思う。けど、

 

なんかさ、

自分もしっかりたくさんの人の人権を踏みにじりながら、

たくさんの命を危険にさらしながら、

たくさんの悪徳業者みたいな人の上にのった経済の中で、

値切りに値切られた上にできあがった安いものを買って

暮らしていこうとしているわけで。

 

そんなことを思いつつもフェアトレードだなんて

それなりの値段のものばかり買って暮らすこともできず。

 

それに、世の中の報道の何が本当か嘘かなんて、

そんなことも本当には判断できないわけで。

 

無力なんだよね。

でもさ、っていうか、だからさ。

 

自分たちが幸せだと思えたり、

すぐ隣にいる人が幸せだって思えそうなことだったり、

そんなことをして、

なるべく笑っていられるようにしていくくらいしか

できないのかも。

 

行動しろって、誰かが言うかもしれない。

でもさ。

その行動が本当に正しいのかさえわからず、

その行動が違う人たちを傷つけるとかわからないまま、

激しく行動するのなんて、

いやなんだよ。

 

なにかが嘘っぽ過ぎる気がしてさ。


ロボットと人の棲み分け

2023-03-04 21:38:39 | 日記

単純作業はロボットに任せて

人は創造的なことをするのだ!

みたいな言葉をかつて目にしたことがあるように思う。

 

創造的なことは人の活動として価値があって、

単純な繰り返し作業は価値が低いって思っている人の発言なのかな。

そういう話ってとても嫌いな感じのはなしなのだけど、

それ以前に

なんか、何に価値があって何に価値がなくて、

みたいな話のところからすでに嫌なものを感じる。

 

平等とか大きな声でいうのも嫌いなんだけどね。

多様性なんて大きな声で言うのも同じ。なんか嫌。

 

いいこととか悪いこととか考えることもなく、

かつては、色んなひとが

言葉としては差別的用語を使われながらも

地域の人に愛されながら、

一緒に暮らしていた時代があったように思う。

 

平等とか多様性とか人権とか、

表面上のシステムに沿っていることが素晴らしいことで、

心とか愛とかのこもった人は特別必要とされているわけじゃない。

そんな気がする。

 

人々が救われそうな言葉は溢れていくのに、

実際には

人々は分断され孤独になっていくように感じる