今回の事件で亡くなられた方々とそのご遺族の皆さまに対し、心からお悔やみ申しあげます。
これから出来たこと、やらなければならなかったこと、伝えたかったこと、様々な事柄がすべて無に帰してしまいました。
子を持つ親として、敬愛する家族を持つものとして、言葉に出来ない深い悲しみを感じます。
今はそっとしておいて欲しいことと存じます。どうか、様々な事柄に振り回されて、ご無理なさいませんよう。
今回の事件は、以前から思っていたことを再度考えさせられました。
托鉢で歩いていると「ちょっと話していいですか」と声をかけられることがたまにあります。
年代性別を問わず、思いつめた表情で話しかけてくるので、こちらも緊張します。
ひとしきり話を聞き、必要であれば、寺の住所を教えることもあります(もちろん安全を確認してからですが)。
その場で答えられることもあり、ただ話を聞くだけでなんともすることが出来ないこともあり・・・。
そして、分かれた後、いつも自分の力量不足、器の小ささ、世間知らずを思い知らされるのです。
それでも、話しかけてくる人があれば鞋を止めて話を聞く。気の利いた返事が出来なくても話を聞く。器の小ささを思い知らされても、話を聞く。
「護美箱になることも大事だよ」と誰かに教えられたことがあったような気がします。
鬱屈した、人に言えない不満や愚痴。都会であれば、一人暮らしであればなおさらいろんなものが溜まるでしょう。
そんなやり場のない怒りを、ガス抜きさせてあげるのも僧侶の役目のひとつ、と住職は思います。
寺に居ても、歩いていても、僧侶としてできるだけ人の話を聞くよう心がけることを、改めて誓うものです。
今日はここまで。合掌。