下記の記事を日経ウーマン様のホームページからお借りして紹介します。(コピー)です。
「普通の家族」って何だろう? 特別養子縁組で子どもを迎えた池田麻里奈さん(46歳)。30歳で不妊治療を始め、2度の流産と死産を経験。子宮全摘の手術を受けた後、養子を迎えることを決意しました。里親研修を受け、民間団体に登録した池田さん夫婦の元に、委託の電話がかかってきました。最終回は赤ちゃんとの初対面、そこから始まった家族としての歩みをつづります。
生まれたのは男の子という追加情報が入った
「ご紹介したいお子さんがいます」という運命の電話から6日後、私たち夫婦は赤ちゃんと対面するため病院に向かっていました。
今日から3人暮らしがスタートです!
この短い間に、哺乳瓶、ガーゼ、肌着、オムツ、ベビーベッド、チャイルドシートを購入し、赤ちゃん用品でリビングが埋め尽くされていきましたが、赤ちゃんがここにやってくる実感は湧きません。生まれたのは男の子という追加情報が入ったので、『しあわせ名付けの本』を読み、2人で夜遅くまで名前を考えました。家族運が大吉になる画数にこだわったのは、不安の表れかもしれません。
その間、家に遊びに来た同級生に、養子を迎えることを打ち明けました。他人に話したのは初めてです。長年の不妊治療を知っているせいか、「本当に、本当によかったね」とご縁を大喜びしてくれました。「40歳を超えた私が今から0歳の子育てをするなんて驚くでしょ」と私が続けると、「年齢を重ねているからこそ良いこともある!」と言い切ってくれました。ずっと願い続けたことがかなうというのに、そのころ私は弱気になることが多く、そのたびに周囲からの温かい言葉に前向きになっていました。
生後5日で初対面、抱っこして感じた生きる力
病院へ出発する朝、冬のカラッとした快晴に富士山がくっきり見えました。まるでこの日を祝福してくれているかのようです。不思議なことですが、委託の電話がかかってきた時から、妊娠が判明した時のような幸せな気持ちに包まれていました。まだ何も始まっていないのに、赤ちゃんと暮らす明るい未来があるだけで、世の中のすべてが許せてしまうような気持ちです。
あっせん団体のスタッフさんと病室で待っていると、看護師長さんが赤ちゃんを連れてきてくれました。赤ちゃんは生後5日目のホヤホヤ。私たちがのぞき込むと口をむにゃむにゃさせていました。
ほぎゃーと泣いている。緊張のあまり、夫婦ともども手が出ません。まずは夫がおそるおそる抱っこして、続いて私の順番に。
生きている……。
そんなことは当然かもしれませんが、私の第一印象はそんな当たり前のことでした。
死産した赤ちゃんを抱いたあの日
数年前、死産した赤ちゃんを抱いた時のことが心に刻まれていました。あの時、いとおしい気持ちや元気に産んであげられなくてごめんねという苦しい気持ちがありました。でも、やっぱり1番違うのは、あの子の時間が止まっていたことです。
今、目の前の赤ちゃんは未来に向かっている。1秒1秒成長している。たとえ周りが困難な状況でも、こんなに元気に生まれてくれるなんて、すごいと思いました。
初めて会ったとき、1秒1秒成長する赤ちゃんを見て、「大切にしなくちゃ」と感じました
SNSに「養子を迎えました!」と投稿
その夜、夫婦それぞれがSNSで「養子を迎えました!」と投稿しました。親権はまだ生みの親にあるので後ろ姿の写真を添えました。
突然の報告にもかかわらず、友人のみならず見ず知らずの方々からも「おめでとう!」「よかったね!」「素晴らしい」という祝福のメッセージが届きました。
新たに飛び込む養子縁組の世界。分からないことだらけの私たちに、なんて世間の反応は温かいのだろう。お祝いの言葉が私の心をどれだけ安心させてくれたことか。こんなに応援してくれる人がいるなら、この子がこれから生きていく未来はきっと明るいはず。そんなふうに思えました。
「少しずつ家族になっていく」という想像は違っていた
週末には友人やご近所さんが駆けつけ、大量のオムツのプレゼントとおすすめベビーグッズ、離乳食セット……外に出掛けることもままならないだろうとケーキまで! まるで結婚16年分の「おめでとう」を一気にもらったようでした。
夫の親戚からは、お宮参りの男児用着物が届きました。親戚中の子どもたちが順番に袖を通して元気に育っている縁起物。風呂敷をほどき立派な着物の柄が見えた時、涙があふれました。こんな日が来るなんて、本当に信じられない。親族の一員として受け入れてもらったような気持ちでいっぱいでした。私の親戚も根掘り葉掘り事情を聞くこともなく、赤ちゃんを代わる代わる抱っこして歓迎してくれました。
それからの子育ては、きっと世間の新米ママパパのドタバタ具合と同様だと思います。スースー眠っている赤ちゃんを見ているとあっという間に1日が過ぎていました。なんて小さい指、それより小さい爪、こちらをうかがっている黒い澄んだ瞳、ミルクを飲んで寝落ちする瞬間の顔、すぐに私の心は奪われました。
「血縁のない子を愛せるか……」という不安は養親にとって大きな課題です。前回の記事(血縁のない子を愛せるか 夫婦の運命を変えた電話)でも、これについて私の考え方は書きましたが、血縁のない分、愛する努力が必要で、少しずつ家族になっていくのだろうと想像していました。
でも気づけば、努力をする間もなく、赤ちゃんへの愛はあふれていました。自分の命に代えてでも守りたい……親たちがわが子を思うその感情を私も抱いていたのです。この子とは血がつながっていないと一瞬でも思う日はありませんでした。目の前の育児に必死だったともいえますが、一緒に過ごしている時間が私を親にしてくれたのだと思います。
9カ月後、裁判所から届いた通知
生後9カ月を過ぎたある日、裁判が結審され、赤ちゃんは私たちの実子となりました。永遠に家族でいられることがこんなにうれしいなんて!
特別養子縁組の最大の特徴は「永続的な養育」です。期限がなく暮らせる「家庭」の存在は子どもにとって安心できる場所ということは理解していましたが、意外にも親である私の心も驚くほど安定しました。これで将来を思い描いていいんだね、これからも抱きしめていていいのね。
特別養子縁組は裁判所に申立てをして審理を受けます。この期間に実親が「やっぱり養子縁組を辞めます」と同意を撤回すれば申立ては却下。生みの親が決心を変える「翻意」は全国で数パーセントあると聞いていましたので、心の奥で最後の最後まで分からない……とハラハラしていました。きっと自分が思っている以上に緊張していたのでしょう。
産んだ親とその子が一緒に暮らせるなら、それは喜ばしいことですが、一方で既に赤ちゃんは私たちの生活の中心で、かけがえのない存在になっていました。ほんの数カ月一緒に暮らしただけと思うかもしれませんが、それだけ赤ちゃんとの暮らしが幸せに満ちあふれていたのです。
赤ちゃんとの日々が積み重ねられ、かけがえのないものになっていった
あっせん団体から聞いた出産当時の事情
裁判の結審でホッとした後、あっせん団体から生みの親の相談当時の様子を聞くことができました。私たちも葛藤を繰り返しこの道に進みましたが、生みの親も苦渋の決断をしていました。赤ちゃんの将来を第一に考えて養子に託したことがよく分かり涙がポロっと落ちました。
生みの両親の写真を見せてもらうと、赤ちゃんにそっくりでした。「2人の子だね」と、親子が似ていることを夫も私もほほ笑ましく思えたのは不思議な感覚でした。赤ちゃんの幸せを願っている親は4人いる……私はそう思っています。
不妊を隠していたあの頃が一番生きづらかった
今、息子は2歳半になりました。私たち親子が養子縁組ファミリーということを忘れてしまうくらい日常は平凡です。手をつないで歩く、雨の音を聞く、髪をなでる。そこに息子がいるからできる一つひとつの出来事に幸せを感じています。
平凡な日常が何より大事だと分かった
ただ、血のつながりがない養親と養子の関係はこれからも続きます。「かわいいね、ママに似ているね」という言葉は、通りすがりの人であればそのまま受け止めています。必要以上に養子の事実を告げることはしないけれど、普通の家族を装って隠すことはしないと決めています。
不妊を隠して1人で悩んでいた時、相談相手がなく、支援にもつなげられず、自ら孤独をつくっていました。「普通になりたい」と願い、自分の不妊を受け入れられなかったあの時が一番生きづらかった気がします。
息子には、私たち親がいつも味方でいますが、養子特有の悩みも浮上するでしょう。家族の形が多様化して社会に温かく受け入れられたとしても、養子がマイノリティーであることは変わりありません。
そんなとき、ピア(仲間)の存在が支えになるときがあるかもしれません。他の養子縁組ファミリーとの交流や勉強会は続けていきたい。養子はどんなことを課題として抱えやすいのか、予習して心構えをすることが親である私の生涯の役割になると考えています。
車に乗っていて、遠くに富士山がくっきり見えると、息子を迎えに行ったあの日を思い出します。私たち家族はまだ始まったばかり。あの時の気持ちを忘れずに、これからも一緒に遊び、一緒に笑い、一緒に泣いて、一緒に悩みたい、それが私の考える家族です。
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