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なぜ皇室崩壊の危機は訪れたか 「開かれすぎた皇室」が招いた眞子さんの結婚トラブル

2022-01-29 11:00:00 | 日記
下記の記事はデイリー新潮オンライン様のホームページからお借りして紹介します。(コピー)です。

平成終盤から皇室を揺るがした眞子さんと小室圭さんの結婚問題。皇族の「公と私」から国民との距離まで、多くの懸案が浮き彫りとなった4年間だった。皇室に未曾有の危機を招いた騒動はなぜ起きたのか。その起源ともいうべき「開かれた皇室」の実態を検証する。
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新天地に渡ったお二人が残した爪痕は、日々メディアを賑わせてきたトラブルよりはるかに深く、重い。戦後、皇室が営々と築き上げてきた国民との信頼関係を、いとも無造作に瓦解させてしまったことで、巷にはお二人のみならず秋篠宮家、ひいては皇室そのものへの畏れを知らない批判の声まで上がる始末だった。
その一方、こうした事態は起こるべくして起きたといえる。それはすなわち、昭和から平成、令和へと至る過程で皇室と国民との距離が“不適切に縮まった”ことの帰結なのではなかろうか――。
ここであらためて、4年に及んだ問題を振り返っておく。初めて小室圭さんの名が世に知れ渡ったのは2017年5月。NHKが「眞子さま 同級生とご婚約へ」と報じたことで、にわかに時の人となったのである。
当初「海の王子」「インターナショナルスクール卒」「UCLA留学」といった経歴も手伝って世間は喝采し、同年9月の婚約内定会見ではお互いを「月と太陽」に例えて話題に。秋篠宮ご夫妻も「非常に真面目な印象」「(小室さんの)優しいピアノの音色を聴きながら心和むひとときを過ごした」などとたたえておられたのだった。
金銭トラブルの発覚と婚約延期


異例ずくめの結婚(他の写真を見る)
が、その年末、小室さんの母親が元婚約者との間に400万円を超す金銭トラブルを抱えていることが発覚。それまでも父親の自死や新興宗教との関わりは報じられてきており、婚約が揺らぐほどの騒ぎには至らなかったのだが、年が明け、18年初頭から各メディアがこのトラブルをこぞって報じた。世間は好奇の目を向け、「皇族の結婚相手としてふさわしいのか」といった論調も盛んになってきた。
慌てた宮内庁は2月初旬、ひと月後に控えていた「納采の儀」(一般の結納)を目前に「婚約延期」を発表。これにより11月の帝国ホテルでの挙式も吹き飛び、騒動はいっそう肥大化していったのだった。
その後の経過はご存知の通り。小室さんは米国留学を決め、8月に渡米。21年9月にはおよそ3年ぶりに帰国し、10月には入籍を果たした。会見の場でお二人は国民を「結婚を応援してくれる人」とそれ以外の人に分断するかのような発言をし、あらためて物議を醸したのである。

皇室の民主化
およそ皇室への無理解が甚だしい若者がたやすく皇族に近づき、あげく結婚してしまうという現実。眞子さんは20年11月に公表した「お気持ち」の中で、結婚について“自分たちの心を大切に守りながら生きていくために必要な選択”とまで言い切っていた。
「自らの意志を貫くべく、もっぱら公より私を優先したといわれるゆえんですが、実際に秋篠宮さまも20年のお誕生日会見で憲法を持ち出され、“本人たちがそういう気持ちであれば、親としては尊重するべきものだと考えている”と述べられている。それでも皇族のご結婚は、やはり家同士の結びつきが重い意味を持つ。結婚自体は止められませんでしたが、せめてもの歯止めとして秋篠宮さまは、一連の儀式を取り止められたのです」(皇室ジャーナリスト)
家父長制にもとづく家制度に支えられた戦前とは一変、戦後は家同士から個人間の結婚へと世間の意識は変化をみせ、令和の現在、お二人の結婚を“当人が愛し合っているのだから構わない”と捉える若い世代も多かろう。が、そもそも皇族と一般人では拠って立つ基盤が大いに異なり、同一に論じるのは失当であろう。
今回の結婚問題について、
「“皇室の民主化”が急激に進み過ぎてしまったことと関係があると思います」
そう指摘するのは、皇室に詳しい麗澤大学の八木秀次教授である。
「例えば東日本大震災では、『国民と共にある皇室』が非常にうまく機能しました。上皇ご夫妻が膝をついて被災者を励まされるお姿は、悲しみや不安、絶望感を抱く日本人を勇気づけ、“皇室は我々と共にある”と、多くの国民が意識したことでしょう。ただし、皇室と国民との距離が近づくことは決して悪いことではないとはいえ、おのずと加減というものがあるはずです」
“開かれた皇室”

新年の一般参賀はふたたび中止に(他の写真を見る)
戦後、民主主義が成熟していくにつれ、急速に広まっていったのが、いわゆる「開かれた皇室」という考え方である。実際にどう開かれていったのかといえば、八木教授が続けて、
「この言葉自体はメディアによる造語ですが、“開かれた皇室”は上皇后美智子さまがお若い頃に体現されてきたものという意味合いを強く感じます。かつて上皇さまの教育係を務めた経済学者の小泉信三は、米国占領下で皇室の民主化を進めました。当時の皇太子さまと美智子さまとのご結婚もその一環で、世間では恋愛結婚ということになっていますが、小泉が陰でお膳立てしていたのは明白。それまではごく限られた一定の範囲で妃を選んでいたところ、民間人との結婚がセッティングされたのです」
ご結婚が決まったのは1958年、国民は民間出身のお妃に熱狂し、テレビの普及をうながした。いわゆる「ミッチーブーム」が起きたわけだが、
「民間人との結婚によって皇室をより国民に近い存在にしようとしていた小泉ですが、こうした民主化の動きを、三島由紀夫は『週刊誌的天皇制』と、辛辣に批判しました。三島は68年、早稲田大学で行われた討論集会で『(小泉は)国民と天皇との関係を論理的につくらなかったと思うのです。というのはディグニティ(注・威厳)をなくすることによって国民とつなぐという考えが間違っているということを小泉さんは死ぬまで気がつかなかった』と語っています」(同)
英王室もオープンだが…
皇室制度に詳しい国士舘大学の百地章特任教授は、
「造語である『開かれた皇室』論が広く言われるようになったのは、やはりミッチーブームが大きかったと思いますが、その熱狂は“もっと皇室のことを知りたい”という興味本位の関心にもつながっていきます。開かれた皇室を国民が歓迎し、それに応えるようにメディアが、もっと開かれるようにと煽ったのです」
そう解説しながら、
「ミッチーブームと時を同じくして、長らく昭和天皇の侍従や侍従長を務めた入江相政さんが次々と著作を発表しました。彼は“皇室は、戦前のように国民との間に壁を作ってはならない。陛下は国民と直接触れ合える機会を”と主張し、昭和天皇の日常生活を書きつづりました。入江さん本人は“壁を取り払う”という使命感をもって書いたのでしょうが、これは越えてはならない一線だったと思います。まるで昭和天皇が友人のように登場し、結果として“皇室にプライバシーはない”かのような誤った風潮に繋がったことも事実です」(同)
当時は、英王室が理想であるかのように語られることも多かったのだが、
「英王室はそれ以前から非常にオープンで、ゴシップの対象にもなっていました。ただし、英国はあくまで階級社会という前提があり、王室と庶民とは違うという認識が明確にある上でのこと。日本のように“すべての国民が平等”という認識の社会で皇室がオープンになると、まるで皇室も一般国民も変わらないと勘違いする人が出てくるおそれもあります」(同)
大衆消費社会の中間層
そうした風潮は、むろん社会情勢とも無関係ではあるまい。慶應義塾大学の笠原英彦教授(日本政治史)が言う。
「ちょうどミッチーブーム前後の日本は、高度経済成長で大衆消費社会へと変化する過程にありました。テレビが普及し、雑誌の出版部数も増加するなど、メディアが多様化した時期でもあったのです」
前述した入江氏の著作も、そんな状況下で刊行されたわけだが、
「いわゆる中間層と呼ばれる層が分厚くなり、彼らはメディアを次々に消費するようになりました。こうした情勢で、皇室の方々も国民の目に触れる機会が急増し、オープンになったという印象が生まれたのではないでしょうか」(同)
また、昭和という時代の特殊性もあったといい、
「いまだ戦争を引きずっている人が大勢いる中で国民との距離を縮めるには、戦争に関わっていたというイメージの払拭がどうしても不可欠です。もちろん昭和天皇も、戦後の全国巡幸や犠牲者の慰霊を通じ、それをなさってきたと思いますが、やはり開戦に直接に関わっていない天皇の誕生という意味で、平成は全く新しい時代の訪れでした。“平和の象徴”となった皇室が国民に開かれていくことは、多くの人々に受け入れられたのです」(同)
これには、皇太子時代に敗戦を迎えられた上皇さまご自身の思し召しも大きかったという。さる宮内庁関係者が明かすには、
「上皇さまはご在位中、とりわけ戦没者の慰霊に思いを致され、これを実行なさってきました。直接の関係者ではないとはいえ、御父上の名で引き起こされた戦争について常にお心を砕かれてこられたのです。リベラルなお考えでいらっしゃる上皇さまのそうした礎は、少年時代に培われています」
戦争責任についての認識を共有
実際に、慶應義塾福澤研究センターの都倉武之准教授によれば、
「小泉信三の残した『御進講覚書』を読むと、皇太子時代の上皇さまに、とても細かく厳しい指導があったことが分かります。そのノートには『責任論からいへば、陛下は大元帥であられますから、開戦に対して陛下に責任がないとは申されぬ。それは陛下御自身が何人よりも強くお感じになってゐると思ひます』と、昭和天皇の戦争責任にはっきり言及している。その後には、それでも皇室が存続したのはなぜか、よく考えて模索し続けよ、と続きます。指導を行う前、小泉は昭和天皇とも相談し、戦争責任についての認識を話し合っていたと考えられます」
この「覚書」が書かれたのは1950年で、
「その3年後、皇太子時代の上皇さまは初の外遊で欧州に赴かれ、英国では昭和天皇の名代でエリザベス女王の戴冠式にご出席。小泉も随行するのですが、小泉はご自身がどう報じられているかを教えるため、現地の新聞を和訳するよう皇太子さまに指導しています。戦後8年、敵国だった日本の皇太子を良く思わないムードもあり、決して歓迎一色ではありませんでしたが、“ご自分がどう見られているのか、常にアンテナを張りなさい”という趣旨でした。それが象徴として大切なことだと小泉は考えていたのです」
ちなみにその和訳には、小泉の“赤字”がびっしり入っていたという。
タレントと同一視
こうした経験を積まれ、戦争についての考察を深められた上皇さまは、平成の御代ではひたすらに「国民と共に歩む皇室」を推し進められてきた。先の笠原教授は、
「皇室の安定には、国民との適切な距離の維持が欠かせません。平成になって戦争を知らない世代が増える中、上皇ご夫妻は福祉活動などを通じてその距離を保ってこられました。いわゆる“平成流”と呼ばれるものです。自然災害のたびにご夫妻は現地で被災者と向き合われ、励まし続けてこられた。そのお姿に、国民の側も倫理観や道徳性を学んできたのです」
もっとも、
「国民の側で問題なのは、教育において皇室を知る機会が極端に少ない点です。皇室の存在意義や一般人との違いを教わったり考えたりする場がないため、若い世代を中心にタレントと同一視しているような人が増えていると感じられます。小室さんの件では、ニュースサイトに“我々の血税で暮らす皇族”といった趣旨のコメントが多くみられました。少し前ならば考えられなかったことです」(同)
皇室と国民との距離が近づくのはいいとして、それが適切でないほどに縮まったということか。
背景に社会全体の閉塞感
笠原教授によると、90年代以降、いわゆる中間層が細って格差社会へと変わっていき、
「以降は新自由主義によって格差がさらに広まり、非正規雇用が増えるなど、社会全体に閉塞感が広まっていると思われます。経済的な豊かさだけでなく心の豊かさを失った人も多いのかもしれません。こうした空気が“血税”といった発想に通じているように感じます。SNSが発達し、匿名性と相まって“批判が批判を呼ぶ社会”が到来しました。昭和や平成が開かれた皇室を作ったように、過激なコメントに付く“いいね”という共感を欲している現代もまた、皇室とは不可分だといえます」(同)
皇室が“開かれすぎた”結果、陛下と皇族方は国民から敬愛という枠を超えて親近感を抱かれるに至り、その“副作用”として皇室が何であるかを知らない、そして知ろうとしない者が増えてしまった。それゆえ、ひとたび違和感や怒りの対象となれば、容赦なく批判や憎悪のコメントを浴びせられる状況になってしまったのだ。
皇室の意義をまるで理解せず「一般人目線」で眞子さんに近づき、首尾よく思いを遂げた小室さんもまた、こうしたSNS時代の「落とし子」といえよう。いわゆる「小室問題」が、一般人と同じく自由恋愛でご結婚され、お子様方の進学先として学習院も“否定”されるなど、皇室の堅苦しい伝統を回避してきた秋篠宮家で発生したことは実に皮肉であり、また同時に必然でもあった――。


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