【『欽ちゃんのドンといってみよう!』】
PTAから苦情が寄せられるドリフのギャグに対して、ソフト路線
で中学生・高校生~から主婦と幅広い層に支持されていたのが、萩本
欽一である。お笑いの主役は、「ドリフ」から「欽ちゃん」にシフト
されていく。
坂上二郎とのコンビ「コント55号」で舞台を端から端まで動きま
わったあのダイナミックさはすっかり姿を消したものの、視聴者から
のハガキによるコントを、1975年に開始したテレビ番組『欽ちゃんの
ドンとやってみよう!』で披露した。あの「欽ドン賞、けってい~」
である。既にラジオでおなじみの『欽ちゃんのドンといってみよう!』
の延長線である。当初は香坂みゆき、前川清が活躍していた。1981年
になると、『欽ドン・良い子悪い子ふつうの子』でさらに人気が加速
する。
『欽ドン』の原動力になったのは「イモ欽トリオ」である。長江健
司の「ふつお」、山口良一の「よしお」、そして西山浩司の「わるお」
の順番で欽ちゃんの呼びかけに対し答えていくものだ。ふつおがネタ
を振り、よしおが絶妙につなぎ、わるおで「落とす」パターンである。
あ、蛇足だが、中途で中原理恵が登場したことを付け加えておこう。
いっぽう、別系列で『欽ちゃんのどこまでやるの』が1976年に開始
した。この番組のコンセプトは、コントというよりも「ソフトなファ
ミリー路線」であった。開始当初は妻役の真屋順子や見栄晴が活躍。
「クロ子とグレ子のどこまでやるの?」のコーナーでは、小堺一機と
関根勤が絶妙のコンビネーションを炸裂させていた。1982年になると
ほんわかした雰囲気の中、ここから国民的アイドルになった「わらべ」
を輩出する。高部知子の「のぞみ」、倉沢淳美の「かなえ」そして、
高橋真美の「たまえ」である。その他、風見慎吾、そして斉藤清六ら
が登場していた。
このように「欽ちゃんファミリー」を核として謳歌した時代もあっ
たが、栄枯盛衰。『欽ドン』で松居直美の普通のOL「ふつやま」、
生田悦子の良いOL「よしやま」、そして小柳みゆきの悪いOL「わ
るやま」で結成した「よせなべトリオ」を企画したあたりから人気に
翳りが出始めた。さらに「わらべ」の一人のスキャンダルが発覚し、
欽ちゃんファミリーは離散の道を歩んでいくのである。
夜更かしは、体に毒ですぞ♪
メタボリックシンドローム。関係ないか。
高部知子っていうとなぜか
高知東生を思い出すのはなぜ?
毎回新しい曲にチャレンジ。最初はへたくそでしたが、段々とうまくなり、コミックバンドとして大活躍でしたね。
欽ちゃんがバンマスとして、木琴に挑戦するという新しい一面を開拓した番組ではなかったでしょうか。
わらべの倉沢淳美のデビュー曲「プロフィール」はすごい曲だったなあ。
「あーつみ、あーつみ、呼び捨てにして~」っての。
札幌でのキャンペーンの握手会で暴漢に腕をナイフで傷つけられました。
そいつは美唄出身だった。
どうでもいいけど。
札幌だったんだ!
ソロでデビューしたけど
あんまりパッとしなかったよね?
で、その暴漢ってのが高部知子のファンで「フライデーにゃんにゃん事件」の後、倉沢淳美が「知子ちゃんの分もがんばりたい」って言ったのを聞いて「生意気だ!」と逆上したのが動機だそうです。バカですね。
パジャマ党の「ぼてばらしゅんじ」ってどこいっちゃったんでしょうね。
「ああ勘違い」が好きでした。
「レコード大作戦」
あれ、著作権料精算するの大変だったでしょうね。のちのちのタモリの「つぎはぎニュース」の礎を作ったんじゃないかと思ってます。
明星賞!
いらっしゃいませ~。
ありましたね。欽ちゃんバンド。
小西なんとかっていう人もここの出でしたっけ。
あ~ありましたね。そんな事件。
あれ札幌だったんですか。へぇ~♪
>どうでもいいけど。
ど~でぇもいいで~すよ♪
(最近見ないな・・・)