らば~そうる “IN MY LIFE”

旅、音楽、そしてスポーツのこと。過去、現在、そして未来のこと・・・「考えるブログ」。

1039.ロジスティクス・諸葛孔明

2008-09-09 | 61.Business
 時代は、2世紀末から3世紀初頭の中国。有名な『三国志』の世界
をロジスティクスの観点で見直してみましょう。劉備率いる「蜀」に
は、どのようなロジスティクスの課題があり、どのような手段で課題
を解決したのでしょうか。

 蜀の参謀諸葛孔明は、曹操率いる「魏」との戦いに際して、何度も
祁山に陣取って戦いを挑みました。それは何を意味しているのでしょ
うか。成都から大群を率いて祁山に滞在するわけです。大群の兵は、
大量の食料を消費します。成都から剣閣までの輸送は、比較的問題が
少ないため、剣閣には食料が山のように積まれました。しかし、剣閣
から祁山までは峻険な「山岳地帯」で、悪路が続きます。そこでは、
牛馬も仆れ車も潰え、輸送の効率はかなり厳しい状況だったようです。

 そのような状況の下における蜀軍の課題は、「兵糧輸送の効率化」
でした。峻険な山岳地帯の中、兵糧を供給する環境が厳しかったため
祁山は、常に食料不足の状態に陥っていました。孔明は、自分自身の
健康問題や蜀軍の人材難という別の問題も抱えていたため、自分自身
が生きているうちに魏に勝利しようと決意していました。しかしそれ
を阻害する「兵糧の輸送の問題」を解決できない状態が続き、戦いは
膠着状態になっていました。

 ある休戦時期に、孔明は課題解決の施策を立案し、実現化に向けて
行動を起こしたのです。それは、再度の出陣に際して『木牛流馬』と
いう「糧運専用の新兵器」と共にすることでした。「兵糧輸送の問題」
を解決するために、「木牛」と「流馬」と呼ばれる二種の「輸送機」
で食料を運搬しました。『木牛流馬』とは、大量の食料を積みながら
も、食料は不要で、疲れを知らない「輸送機」です。多くの物資を積
載できましたが、移動速度は遅かったため、大量運搬に適した「機械」
でした。『木牛流馬』は、孔明が約三年の休戦中に大量生産されまし
た。

 剣閣から祁山までの悪路を、大量の食料を満載した「木牛流馬」隊
の姿を見た蜀兵は、どのように思ったことでしょうか。きっと士気が
あがったことでしょう。

 『三国志』の中で諸葛孔明は「志」を劉備やその部下たちと共有し
た上で、劉備軍の現状を把握することに努めました。「三国分立」を
実現した後も、継続的に「志」を見つめながら蜀軍の問題点・課題を
明確にし、それらを解決するための施策を人心の把握とともに歳月を
かけて実行していったのです。

 「何か変なことをしていないだろうか。」

 現在を生きるわたしたちも、常に身のまわりに「変なこと」を感じ
ていると思います。「非効率的なこと」「よくないこと」・・・。

 何かを感じたら、誰かに伝え、情報を共有することが必要ですね。
自分ひとりで解決できる問題は多くありませんから。問題点・課題を
解決するために「行動すること」は、重要なことです。



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2 Comments

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赤壁の戦い (らば~そうる)
2008-09-12 23:20:19
to:タケチャンさん

>赤壁の戦い
に大敗した曹操の退路の最後で待ち受ける関羽。
情にもろい関羽をここに配置したということは
曹操を見逃すことを孔明は予期していた
ということなのでしょうね。

その関羽は、現在横浜中華街に・・・。
三国志の中で共感する人物像のひとりです。
返信する
Unknown (タケチャン)
2008-09-11 13:50:41
孔明は発明までするのだと、感嘆したエピソー
ドでした。

人心の把握に勤めながら、裏切られることも多
かったですね。
孔明の晩年は失意することの多い人生でした。
人が離反するという意味の裏切りではなくて、
孔明の考えを理解できない人が多かったこと。

「泣いて馬謖を斬る」。街亭の戦いは、赤壁の
戦いにならぶ、三国志の白眉です。
返信する

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