今まで自分でたくさん勉強してきていましたが、私がメンタルセラピストになるきっかけのお話です。重い話ですが、最後まで読んでいただけたら幸いです。私の決意が硬い事をわかっていただけると思います。
私の母は、私が35歳の時に鬱病になりました。家族全員で精神が不安定な時でした。
私が父親の会社の借金を完済し、土地も家も売りに出し新しい道を歩む決断をした時でした。私はこれからの道にワクワクしていた時でした。
「これがこんなことになろうとは」
父親と母親が一生懸命頑張って、私達子供を立派に育ててきた家と土地と工場を手放すことがどんなに悔しいことか、確かに母親は私の新しい道を応援はしてくれていましたが、一番に心配していたに違いがありません。緑内障を患っていた母親はパートや内職を探して周りましたが、年齢のこともあり断られ続けました。母親は自分が人のためにならないことが悔しかったのでしょう。どんどん塞ぎ込んでいきました。
私は今まで夜通し工場で働いてきた母親を休ませたい一心で、「大丈夫だから、何もしなくて良いから休んで良いよ。」って言った言葉が、母親には「用無し」に聞こえてしまったのかも知れません。
ガラスに頭を打ちつけたり、玄関に誰か来ると隠れたり、近所の人に毒を入れられたと用意した食事を全部捨てたり、鬱病の知識のない私は凄く困惑して医者に連れて行きました。「どこに連れて行くの!」と泣きわめく母親を無理矢理精神科へ連れて行ったので、母親からしたら息子の僕が鬼に見えていたのでしょう。
それから半年、母親は一旦鬱病を克服したかと思わせるまでになりました。
一人でいても平気と自分で言うぐらいになりました。安心して仕事に打ち込んでいると会社(テニススクール)がアルバイト契約していた私を社員に迎えると通達をくれたので、私がアルバイトである事を心配していた母親を安心させるために急いで帰途につきました。
そこに一本の電話が
「早く帰ってきてくれ」という父親の焦った声、「お母さんが!お母さんが!」
家に着くと救急車の赤いライトが家を照らし、ただならぬ気配
家の中に横たわっている母親の姿。
母親は自分で命をたっていました。
葬式で、参列してくれた皆様を前に母親に伝えました。
「あなたが心配してくれたテニスコーチになれたよ...」
悔し涙が何ヶ月も止まりませんでした。
でも、鬱病の事を知っていたら回避できた事、もしくは完全に克服できるであろうと日が経つに連れて思っています。
テニスコーチでしたが、メンタルを主力に勉強してお客様や選手に提供してきましたが、メンタルセラピストという私がなるべきものに出会えて決断しました。僕と同じ思いは誰一人させたくないと!
笑顔を作る仕事って絶対に必要だと思うから!
テニスコーチ
黒野龍太
メンタルセラピストと体験会参加者 みんな笑顔
アルファビクスのインストラクターのライセンスは取得しております。
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