左心低形成症候群ってご存知ですか?

お腹の中の赤ちゃんが先天性心疾患の左心低形成症候群という指定難病なので、ブログを始めた新米パパ

乱高下

2025-01-04 17:10:16 | 日記
遅くなってごめんなさい。

息子が産まれて、妻が無事に手術が終わり、一夜が明けた。

出産が終わってからは、妻は自分の体のダメージと向き合いながら、退院に向けても短い時間の間で整えていく。

退院まで6日間。

女性って…母親ってすげぇなぁ…。

6日で整うわけも、完全に回復する訳もないのだから、こうなれば夫の出番ですな!!!

子供の面会時間はご時世柄・季節柄13:00~15:00の間と言われた。

しかし妻は入院しているので朝から夜の8時まで自由に来れますとのこと。

子供に関わりたいと思う私は、「パパにも優しぃしてくれぇ」と千鳥のノブばりの心の声。

でも、大事なのは我が子が元気かどうか。

そして、最初の手術に向けての準備ですね。

出産の翌日に、子供の面会へ。

NICUに行くとちょうどドクターが子供を診てくれていた。

両目にガーゼをしていて芸人みたいな姿の子供がいてびっくりした。

ドクターが「あっ!お父さん!改めましてご出産おめでとうございます。今ですね黄疸が朝から出てましてその治療で紫外線を当てさせて貰ってました。」との事。

俺「あぁ!そうなんですね!びっくりしました笑 ありがとうございます

ド「それとですね。昨日産まれて1日経過したんですけど、肺の方が普通の赤ちゃんでしたら産まれてくると自分の呼吸で徐々に広がっていくって説明を受けられましたよね?」

俺「はい。聞いてました。」

ド「それで1日観させて頂いてたんですけど、左の肺がペチャっと潰れてて広がってこないんですね。なので、口から呼吸器を入れて、呼吸をアシストする形をとらせてもらってます」との事。

心肺機能と1つの言葉であるように、心臓だけじゃなくて肺にもそういう弱さが出ちゃうのかーと思いつつ

俺「そうなんですね…。ありがとうございます。これは年齢とともに治ったりとかするもんですか?」と聞く。

ド「年齢によって改善される事もあります。ただ現状の呼吸がしんどいと心臓にも負担が来てしまいます。心臓にフォーカスを当てつつになりますが、しんどくなっちゃう要因は回避して来るべき手術に備えて行くのが良いかなと判断させて頂きました。」

正直、この時に話した先生めちゃくちゃええんですよ。

話し方も丁寧で、なんというか雰囲気的に子供好きそうなものがあって個人的に話がしやすい方です。

俺「そうなんですね。ありがとうございます。」

とは言え、心臓がまともではない状態で、肺もちゃんと現状きっちりとは機能していないと聞くとショックがあった。

しかしそれは、普通に元気をプラスマイナスで0とすると、心臓の事で気持ちはマイナス10になってる所に肺の事でマイナス値が少し増えて、マイナス15になった感じなので、めちゃくちゃ落ち込むとかよりも、じんわりと理解して噛み砕いて受け入れる他なかった。

その後は、妻にも同様の説明がされた。

次に、メイン手術1回目に向けての説明…となる前に、1つ壁が立ち塞がった。

それは、心房中隔に普通は空いていて、血液の循環を回しているその空間が極めて小さいとの事だった。

簡単に言うと、

ペットボトルを想像してください。

ペットボトルの飲み口を開けて、常に蛇口から水を入れます。

ペットボトルのおしりに小さな穴を開けるとします。

その時、ペットボトルのおしりの穴が小さいとそこから出る水は少ししか出なくて、飲み口から溢れますよね?

という状態が心臓で起きてます。

良いことでは無いことは想像出来ると思います。

良くないんです〜笑

だから、敢えて心臓に穴を開けます。

血液循環のために。

赤ちゃんでたまに、心房中隔欠損症という、心臓に穴が空いて産まれてしまう子がいます。

それの逆パターンですね。

何が悪いって、欠損症は経過観察で、成長の過程で治る事もあること。

うちの子は、穴を造る。

これは成長で穴が広がるのを待ったりする時間がないと言うこと。

産まれて2日目で、分かっていたことだが、本当に普通じゃない。

我が子が、うちの子と同じ病気だった親達はこんなに辛く、虚しく、なんとも言えない喪失感と戦いながら、子供に愛情と希望を注いでいるのかと思うと、本当に頭が上がらないと思った。

そして、ドクターからカテーテル手術をします。と話を受ける。

何がすごいってこのカテーテル手術がメイン手術ではなく、メイン手術に向けての準備の1つなのだからすごい。

もはや壮絶である。

産まれながらに、色んなチューブが繋がれ、口に呼吸がされている。

顔の半分が見えないと言っても過言では無い。

手や足にももちろんテープがされ、上半身と下半身でそれぞれ、spo2が常時測定されている。

動くと正常に測定されないから、足も固定されている。

産まれているが、尊厳とは…と少し考えてしまう事もあったが、私達はこの子に賭けると決めたから。

そして、親のエゴを押し付けられたこの子は、辛いことが沢山待ち受けているんだよなぁ。と思わない日は、10月中頃から今日に至るまで、無かった。

自分が死ぬまで、思い続けるだろう。

でも、それを凌駕するくらい自分で自分の存在意義や幸せを作って感じてくれたらいいなと思うし願うばかり。

そして、その穴を開けるべくところの心臓の壁がどうもぶ厚い様に思います。

カテーテルで開かなければ、最初の開胸術の時に開けて、メイン手術に同時に臨むかもしれないですとの事。

重い。

ドラマやテレビで聞くような言葉が、こんなに連日で畳み掛けるように、耳に届くことがあるのだろうか。

事実は小説よりも奇なり。

本当にこれに尽きる。

俺「そのカテーテルはいつするんですか?」

ド「明日の10:00に行います。」

との事だった。

妻は出産が済んですぐなので、当日は、自分が1人で、カテーテル手術の待合や説明を聞いたりとをする様になった。

その日は、子供の面会の時に、普通よりも小さく産まれたその体躯を見ながら、触れてもいい部分の手を掴み、エールを送るしか出来なかった。

まだ、自分が産まれたことも気付かす。

自分が人であるかもわからず。

自分の自我を持つまでにいっていない存在。

でも、その存在に意味を持たせて感じるのが親。

私も、親になったのだなと改めて感じ、「落ち着く日は来るのだろうか…」と一抹の不安を抱えて、その日は、病院を後にするのであった。

新しい役割

2024-12-24 21:19:14 | 日記
その日を迎えた。

この日は、全てが終わるのが何時になるから分からないとの事で、公共交通機関を使い、最寄りの駅に8:00過ぎには着いていた。

妻も子供も緊急帝王をするでは無く、無事に当日を迎えてくれた事がひとまず良かった。

8:30前には病院に着いて、妻の病室へ。

スケジュールは

9時から分娩。

帝王切開なので1時間ほどで終わるとのこと。

分娩されてからは、子供がどうなのか。

すぐに、手術が必要なのか等を含めて、検査をする事になる。

そこからは、時間は伝えてもらっていなかった。

思ったより、いつも通りの妻と自分がいた。

妻は、昔のトラウマで手術室に行くのが、怖いと言っていたが、全てを受け入れているようだった。

代われるものなら代わってあげたいがそうはいかないのが、人体の不思議であり、代替のきかないとこである。

8:45になると、ご主人も一緒に降りましょう!と看護師さん達に言われ、手術室へ。

その間には、月並みな言葉ではあるが、「頑張ってね」と「しんどい思いをそっちにだけさせてしまってすまない」と伝えた。

そして、私を置き去りにする形で、手術室へ。

大きな扉が閉まると不安と孤独感が一気に襲ってきたが、仕方ない。

少しだけ見えた手術室の中に多くのドクターがいた気がした。

当日は、産まれた瞬間に何かあっても対応出来るように、ドクターも時間も隣の手術室も空けて、待機してくれるとの事で、うちの子供の重度さをひしひしと感じた。

その後は、妻の居なくなった病室で、1人で待機。

看護師さんが、呼びに来てくれるまで。

1人でいると

妻の安否。

子供の安否。

ずっとグルグルと思考する。

順序的にいえば、まずは妻だ。

妻がまずは無事であることを強く願っていた。

そして、思ったよりも、早く呼ばれた。

9:40に看護師さんが来て、「産まれましたよ!NICUに赤ちゃんが来られますので、見に行きましょう!!!」と言われ、カメラを持って、エレベーター前に。

思ったより、早くてこちらの心の準備が出来ていなかったし、どういう感情でいればいいのかわからなかった。

誘導されるままにエレベーター前に、エレベーターが、開いて、NICUに行くまでの通路の時間のみ見れます。との事で、それだけで圧倒的に短い時間だと言うことが、想像出来た。

そして、エレベーターの扉が開いた。

看護師さん3名とドクターが、付き添いながら、「「おめでとうございます」」と言ってくれた。

「産まれた瞬間に産声も上げてくれまして、元気な男の子ですよ」と言われた。

私はカメラを構えていたが、「え…まじか…」と感動なのか驚きなのかまだ信じれてないのか感情がわからなかった。

そしてドクターから「今から心臓や肺の動きなど、血液も含めて検査を色々とさせてもらいますので、よろしくお願いします」と子供を乗せた保育器は、NICUへ。

時間にして30秒あったかどうかくらいだろうか。

あまりにも短く、産まれて来てくれてありがたいが、これから待ち受ける壁を思うと複雑な気持ちでもあった。

その後は、妻のいる手術控室へ。

執刀医から手術の時の状況と説明をされて、また妻の居ない病室へ案内される。

そこから程なくして、妻が戻ってきた。

お疲れ様とありがとうを伝える。

まさに男には出来ない大偉業を成し遂げてくれた瞬間であった。

トラウマもあっただろうに。

強い人である。

話を聞くと、息子の産声を少しだけ聞けた様子だった。

労をねぎらいつつ、NICUで、診てもらっていることを伝えた。

術後なので、お腹の痛みもあったり、看護師さんがパットを交換してくれたりと、ずっと一緒にいるわけには、いなかった。

ここまでで、11:00頃。

妻は大丈夫だった。

あとは、子供だ。

どうなのだろうか…と不安がよぎる。

こんなに産まれた瞬間の感動が一瞬で過ぎ去って、不安にかられることも中々人生の中で無いだろう。

12:00。

まだ連絡は無い。

13:00。

まだ連絡は無い。

途方も無く長い…。

待つしかない。

待つしかないのだが、何も出来ないのが辛い。

14:00。

まだ連絡は無…

14:00過ぎに、連絡は来た。

看護師さんに呼ばれて、NICUの控え室へ。

そこでは、NICUでの説明と、家族の状況や、同意書などの書類を書きながら、NICUのDVDを見ていた。

そして、控え室で1時間ほど待つ。

今日だけで痔になりそうであった。

15:00。

控え室にて待ってる。

16:00にさしかかろうとしていた時に、ドクターが現れた。

「お父さんですかね?この度は改めておめでとうございます。少し説明も含めて会って頂こうと思います」と言われ、ついに対面へ。

そこには、保育器に入ってはいるが、なんとも小さな体躯の息子がいた。

「産まれて検査をさせて頂きました。ここからは、いつどうなるかを様子見させて頂きながらになります。それで、泣いたりすると呼吸がしんどくなってしまうので、今は麻酔で眠ってもらっている状態です。ここからは、心臓の動きと、肺の動きを観ながらですね」との事。

面会がどうなのかとかも含めて色々と質問をさせてもらった。

NICUではスマホは使えないので、ビデオカメラをこの為に買っておいた。

事前に、産まれたらすぐにNICUと聞いていたからね!
準備が出来たね!

そこで少しの間、面会と撮影をさせてもらった。

直接的に子供に関わっている時間もあまりなく、声も聞いてなければ、抱っこもしていない。

本当に自分の子供なのか?という疑問もあるが、これはどの家庭でも思うものなのだろうか?

普通よりも関われないので、親になるまで、時間もかかりそうだなぁとも感じた。

その後に、妻の病室へ戻り、説明した。

おそらく17:00過ぎに、病院を出た記憶である。

嬉しさと切なさが、同じくらいで込み上げてくるが、今日ついに自分は父親になったのだと徐々に時間と共に噛み締めながら、実家へ帰った。

なんにせよ。

妻と子供に大感謝。

幸せを増やしてくれて、ありがとう。

命の理由

2024-12-19 19:15:06 | 日記
更新して参ります。

そこからの日々は、帝王切開の日まで、緊急帝王にならない様にただただ祈るばかりの日々であった。

妻の面会と仕事。

という感じだったが、前回のような病院からのお呼び出し等もあり、育休最終日も潰れてしまったので11月10日から有給を消化しつつ、育休に移行するという形であった。

妻の帝王切開の時間も決まり2024年11月18日の朝9時に決まった。

私は少しでも病院から呼ばれたら行けるように、実家に少しの間、帰省するようにした。

今の家よりは実家の方が、自分の生活的には不便だが、病院から近いので非常にありがたかった。

帝王切開の2日前には、妻の母親や妹さんも、来て下さり、何かあれば、バックアップが出来る体制も固まった。

刻一刻と時間は、進む。

その間に、自分の命もだが、産まれてくる子の命の時間はとても貴重なものだと思っていた。

まず、うちを選んでくれたこと。

越えられる試練しか与えられないなんて言われるが、時間が経てば本当にそうなのかもしれない。

ここに詳しくは書いてない部分だろうと思うが、心の整理は早かったと思う。

他の家族なら引きずる所は引きずったと思う。

次に、子供好きな夫婦であること。

昨今は近所の公園での声がうるさいと閉鎖する公園があったり、子供も遊びにくくなり、身体機能が低下しているなんてニュース等もある。

皆が子供の時代を過ごして、色んな家庭はあると思うが、育ててもらって、大きくなっている。

でも、どこかで自分だけで大きくなった気になってる奴らもいる。

非常に不愉快である。

今の自分に不都合だからと、子供に負荷をかけるのは、子供以下のワガママだなと思う。

子供はどんな子でもまずは優しい。

それを環境でねじ曲げるのはこちら側の責任だと私は昔から思っている。

家庭の環境・対人環境など様々だろうが、後天的な環境因子は取り除いてあげないといけないと思う。

私は、ずっと子供が産まれたら「こんな言葉をかけてあげたい」「こんな子になって欲しい」「でも厳しくしたい」と思っている。

いやいや主さんよー。
子供は思い通りにいきませんよ?
まぁ育ててから言うてくださいやー!

と思われる方もいると思われます。
確かにその通りです。

子供を育てたことが無いので、本当に机上の空論ですし、絵空事の綺麗事だと思います。

でも、一瞬でも子供の明るい未来を願わない親はほとんどいないんじゃないでしょうか?

願われていない身勝手な親の元に産まれた子も世の中にはいるとは思いますが、私は、そう思っています。

ならば、親になる身として、プロセスや様々なタイミングを想定して、その子の未来を少しでも苦労なく過ごして貰うように、舵取りをしていくのが親なのではないでしょうか?

子供は何をするかわかりません。

世の中、生きにくいですよね。

心配事もたくさんあると思います。

でも、心配ではなく、信頼で子育てをしたいと思ってます。

危ないから。
心配だから。

と失敗という経験を積ませない事は、良くないと思います。

それは、愛ではなく、過保護かなと思ってます。

うちの子はどうでしょう。

すでに普通ではないです。

なにせ産まれたら死が隣にベッタリと付いて離れない子です。

でも私は、いずれは親元を離したいと思っています。

これは、1人で沢山見て欲しい。1人で生活する力を身につけて欲しい。1人で迷惑をかけて謝る事の大切さを感じて欲しい。などなど。

となると、小さい頃からここを見据えて、子育てしないといけないのではないでしょうか?というのが、私の持論です。

人は1人では生きてはいけません。

家族や友人やまだ見ぬこれから知り合う方々に救われ、支えられて生きていきます。

1人で生きてるなんて驕り高ぶる人は、1人でスーパーを作って仕入れから棚卸しまでしてレジ打ちしてください。

買い物だけで、どれだけの人の仕事ですが、優しさに触れているか考えた方がいいと思います。

なので、自分の子供が今後どのような子になるのか。

色々としてやれるのかすらわかりません。

普通と同じなのかそれ以下なのか。

その中でらそれ以上にするには私達夫婦のマインドとやり方次第だと思っています。

でも答え合わせが、出来るわけではないです。

だから、毎日を漫然とではなく、その日その日きっちり生きていこう。

と私は子供が産まれるというイベントに近付くにつれて、思うようになりました。

命の燃やし方は、人それぞれだと思います。

私が、ブログを続ける理由は

・病気のことを知って欲しい
・同じ病気なら、経験談として残したい
・胎児検診で20週1日~21週6日は、必ず大きな病院でしっかり検査をして欲しい
・お金がどうなのかも知っておいて欲しい

というのが、大きな部分であり、子供の成長記録だけでは無いです。

特別なケースなら、今後も産まれる特別なケースの人々に、何か伝えないと!って思いました。

何もかもが、思い通りになることはないです。

でも、理想を追い求める事は、いいでしょうよ。

これから、たくさんの大変なことがあって、たくさんの幸せなことがあると思います。

無償の愛を子供からもらって、こっちも与えていけたらなと、産まれる前に思っていました。

そして、当日をゆっくりと迎えるのでした。

オーラ

2024-12-16 21:01:14 | 日記
マイペース投稿して参ります。

11月半ばに「直前になりましたので、改めて手術と方針の話をさせて欲しい」との事で、病院へ。

11月の予定日前に公休や有給を使ってそのまま育休に行くつもりだったが、10月の半ばからは、呼び出されては、有給を頂いて休むという日も多く、自分の子供は普通では無いんだなと思わされていたが、人間とは慣れる生き物である。

非日常が日常に落とし込まれるものである。

病院へ着くと一室へ案内された。

そこには、
小児循環器の部長さんと副部長さん
産科の部長さん
助産師さん
今日の担当の看護師さん
がいた。

もう子供の状態は大きな変動はなく、少しでも予定日まではお腹にいてもらって、大きくなってもらえたらという状態である。

なので、方針や手術の事も何度も聞いたことを、改めて詳しく話をされていくというものであった。

簡単に言えば、両者の共通認識の擦り合わせに近いものだった。

妻も自分も、この運命を受け入れているので、存外穏やかなものであった。

説明を受けて、頷いては、改めて咀嚼して、理解していく。

心臓については普通の人よりは詳しくなったのではなかろうかと思うほどである。

ずっと小児循環器の部長さんが説明してくれて、副部長さんが記録していく。

その中で、遅れて1人現れた。

説明の途中だったので、チラッとしか見えなかったが中年の男性だ。

いや、そんなことよりは今は説明をしっかり聞こう。

昔から自分は集中力がないと小学生の時代から今日に至るまで言われていたし、自分もそうだと思っていたが、我が子の事となるとしっかりと聞くもんだなぁなんて思っていた。

こんなことを思っているから集中力がないじゃないか?って?
私もそう思います。すいません。

そして、説明等含めて、20分くらいであろうか。

小児循環器の部長さんの説明が終わった。
そして、たくさんの説明や、手術の方針やその過程で必要な同意書にサインをしていく。

まだ産まれていないし、出生届は出ていない。

しかし、患者氏名の所には、子供の名前を書かなければならない。

これ書いていいものなのかどうか?を聞くと

「〇〇(苗字)にBBでお願いします」との事。
BABYという事か。

何故に英語なのだ?と思ったがカルテはそもそもドイツ語だったっけ?なんて思いつつ患者氏名には1年でもこんなに書くことはないだろうと思うくらい「B」を書いた。

そしてその下には、自分達の名前と続柄を。

これから、うちの子は、大変な試練が。

そして死線をくぐり抜けて行かなければならない。

それを、物語る用紙の数である。

すると、サインをしているところに、途中から入ってきた中年の男性の人と小児循環器部長の方が話している。

妻も私も思った。

「「誰だこの人???」」

そして、小児循環器部長さんが言う。

「次は心臓外科の先生からお話がありますので」

私は思った。

「え?まさかこのおじさんが?!」

すると、私達の席とは90°の角度に位置する席に座り、

「え〜心臓外科医の〇〇です。最初に言うときます。絶対に助かるなんて思わんでくださいね?」
空気がピリッと張り詰めるのを皮膚で感じた。

「それくらい難しい手術です。しかも、新生児。身体が小さく、心臓ももちろん小さい。私が今まで経験した状態の悪い赤ちゃん。1キロあるかないかくらいの子達の手術もさせて頂きました。生存確率は50%くらいですかねぇ。今回の赤ちゃんよりもっと状態が悪い子達の確率だとこれくらいでした。それは、ご理解してくださいね」

ドクターという仕事の大変さを垣間見た瞬間だった。

現実と経験。

たくさんの赤ちゃんの。

そしてたくさんの人々の大切な臓器である心臓を手術したからこそなのであろう。

見た目は50代かなと思われるその男性医師からは、今まで感じたことないオーラを感じた。

今までたくさんの人々の死にも直面して、救えた命・救えなかった命。

その全てを背負って、この場に来ているのだろうとこっちに思わせるほどの雰囲気を醸し出している。

私達より更に奥を・先を見ている様な目線に、尊敬より、何より恐怖を感じた。

そして、その言葉が、穏やかな気持ちを、現実へと引き戻した。

大変だと思っていたが、それは子供の事だけ。

それを救おうとしているお医者さん達も、ハチャメチャに大変なのだ。

医療は時に、融通が利かず、ムカつく事もあるだろう。

しかし、今はこの方々にすがるしかない。

溺れる者は藁をも摑むと言うが、一気にそんな心境にさせられた。

その後は、小児循環器の部長さんと同じ内容だが、観点が心臓外科の物で、手術の説明をされる。

チラッと名札を見る。

あー。

この人も部長さんだ。

色んな科の錚々たる面々がうちの子供を観てくれるのだなと思うと、ありがたさもあるが、少しの焦燥感を抱きつつ、また更に、同意書にサインをして行くのであった。

Time goes by

2024-12-10 14:45:46 | 日記
間が空いてしまって申し訳ないです。
ほぼ毎日のように病院にいる僕です。
これくらいしか今出来ないのがもどかしいですね。

そこからの日々は
前日に妻に必要なものを聞いておく
↓↓↓
準備する(前日か当日か)
↓↓↓
面会に行ってあれば洗濯物回収
の繰り返しであった。

私は仕事もしながらなので、毎日は行けなかったが、夜勤明けと休みの日はほとんど欠かさずに妻の面会に行っていた。

自宅からは車で小一時間。

時々、身体が重くも感じた。

それでも夫として、父としてやれることはこれしかないのだから、するの一択なのである。

子供は逆子なので帝王切開が確定であった。

妻が入院した理由も切迫早産のリスクがあったからである。

しかし、早く産まれてしまうと子供が小さく産まれる。

そうなると体に比例して心臓も小さいのだ。

なので、早く産まれてしまうと、産まれてからの手術の難易度が高くなる。

という早く産まれて欲しい気持ちとまだしっかりといてくれー!の気持ちの両輪があった。

10月半ばで、お腹の子は1600gくらいだった。

色々な関連しているドクターに「なんとか2000に」と言われていた。

一ヶ月後に予定されている出産日まで、うちの子や妻は耐え凌げるのだろうか。

私は家で1人ドキドキと身を案ずる事しか出来なかった。

この頃から、好きだったお酒もとんと呑まなくなった。

何があるかわからないし、いつ呼ばれるかもわからないからである。

今後もイベントの時以外は子供が大きくなるまでは飲まないつもりでいます。

刻一刻と時間が進む中、11月の半ば。

出産日まであと2週間とない頃に、病院に呼び出された。