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羚英的随想日記

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■けせんのたから 5 柿内沢鹿踊■

2016-11-21 14:41:56 | 風の吹くまま



演舞の最後を飾るのは、会場のある地元・住田町世田米に伝承されている行山流山口派柿内沢鹿踊(ぎょうざんりゅうやまぐちは かきないざわししおどり)さん。

仰山流笹崎鹿踊り同様にこの踊り組も基本は9人踊りの鹿踊りで、9人での隊列と8人での隊列とが定められています。
去年の2月頃から柿内沢鹿踊に参加しているイギリス人ダンサー兼振付師の客員会員の踊り手さんに加え、彼女のダンスのパートナーの女性・練習を見守り続けてきたマネージャーの男性もこの日は踊りに参加していて、総勢9名での演舞でした。

この日の演目は…
渡り拍子→遠入羽(とおいれは)→入羽(いれは/キッザゴ)→庭廻り(+唄切り/細引き入羽)→長唄(南から)→唐金狂い(三人狂い)+追い狂い(ぼいぐるい/一人狂い)→鹿の子3(やまがら・黒雲・お花畑)→寄せ→引羽(ひきは/十五夜)→納め

唄切りの 『細引き入羽』、鹿の子の 『黒雲』『お花畑』、引羽の 『十五夜』 が今回若手のみなさんが新しく習得したパートで初披露です。

今日まで伝承されてきた柿内沢鹿踊の踊りのパートを、忘れ去られることの無いように、余すことなく、正しく、後進に伝えようと中立の角鹿氏が取り組み踊りを指南しておられます。
踊り手さんたちは、5月の世田米天照御祖神社式年祭(三年祭)の時からさらに沢山のパートを習得しなければならなかった訳ですが、まだまだ残りが待っているそうですよ!





渡り拍子で入場して。
柿内沢は通常の演舞の始まりも渡り拍子を2回繰り返します。






渡り拍子に続いて、遠入羽の場面。
隊列のまま前方に倒れ込み飛び出すように進み出る特徴的な場面。






次の入羽(キッザゴ)の場面。
この踊り、実は前後に直線的に動いているのではなく一本の線を軸にジグザグを描くように踊っています。
私の好きな入羽です。






入羽の次、庭廻りに附く唄切りの場面。
新しく習得された“細引き入羽”です。
『中立入れろや 中立入れろ 中立なけりゃ 中が繁ない(しげない) 中が繁ない 』






次の長唄の場面。
5月の式年祭の時に復活した長唄“南から”。
『南から 白き雀が八つ連れて これのお庭で羽を休める』
“片方のバチは太鼓を叩き、もう片方のバチは横にして前方に掲げる”を交互に3回繰り返す所作。
行山流によく見られるこの所作がふんだんに使われています。






唐金狂い(三人狂い)では狂い頭が始め一人で踊り始めます。








今回も左口輪(中立の左の側鹿)の踊り手、右口輪の踊り手とともに三人狂いを踊ります。








三人狂いの後には必ず追い狂い(ぼいぐるい)が続きます。
踊り手はイギリス人ダンサーのショーネッドさん。






追い狂いの最後のところで白鷺の唄が歌われます。
柿内沢鹿踊ではそのあとに、ひれ伏して白鷺を称える唄を歌います。
『さてもや見事に 立った姿よ』






『立った姿よ』 でみなが立ち上がり鹿の子に入るまでの間しばし庭を回り踊ります。






今回は鹿の子は三種類入りました。
最初の鹿の子“やまがら”の場面。
『やまがらは たすきに内に もどれ うでかせ』






“奥の御山”に似た踊りです。
目の前でバチを叩く情緒的な所作があります。






次の鹿の子“黒雲”に入りました。
中立が唄を歌い出しながら庭を廻ります。
今でこそどの鹿の子を踊るかを事前に踊り手に伝えていますが、かつては中立が自由に選びその時の思いつきで踊ったのだそうです。
こうして唄を歌い庭を廻るのは、どの鹿の子か踊り手に伝えるためでもあるとか。








『黒雲は 傘ごしかけて 来るときは 月の光 影はそろわず 影はそろわず』


 



“黒雲”は今回若手の踊り手さんたちが新しく習得した鹿の子のひとつ。
この鹿の子は、特に太鼓の音が聞きどころ。






最後の鹿の子“お花畑”の場面。
これも新しく習得したパートのひとつ。






中立が唄い始めます。






『お花畑の けしの花 八重に一重 此処の家に咲く 此処の家に咲く』






中立と側鹿との足捌きの違いが面白いです。
柿内沢鹿踊の特徴である緩急に富み間を取る踊りや太鼓は、調和がとても難しいと思います。






鹿の子の場面はこのしゃがむ所作で終わります。






寄せの場面。






引羽“十五夜”の場面、これも新しく習得したパート。
寄せでみなが揃い、これから引羽に入るという合図の中立太鼓のあと、しばし唄だけで太鼓が止まります。
こういった踊りは今まで見たことがなかったので、斬新な感じがしました。






踊りは異なりますが、前に進んで後退するという形は“今夜ばかりは”と似ています。
どちらも趣のある踊りです。






納めの場面。
頭を振って見得を切るような所作をします。






『太鼓の胴をきりりと締めて ササラを揃え これで納めろ これで納めろ』








最後に渡り拍子を叩き、退場しました。



柿内沢鹿踊さんを9名での踊りで観るのも舞台で観るのも今回が初めてでした。

短期間に次々と新しいパートを習い覚える踊り手さんたち。
その指導に取り組む中立の角鹿氏。
双方の力が融合し、この日の演舞が踊られました。
いつか全てのパートを伝授される日が来るのを、私も心待ちにしています!



郷土芸能に造詣が深く、郷土芸能のあるところにこの人あり!の笛吹さんの記事をご紹介します。
一瞬を切り取った素敵な画像と簡潔な文章は私たちを魅了して止みません。

2016 気仙民俗芸能祭 さわり
2016 気仙民俗芸能祭



動画をYouTubeにアップロードしています。
よろしければご覧になって下さいね。

2016.11.06 けせんのたから 行山流山口派柿内沢鹿踊


#鹿踊り #ししおどり
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■けせんのたから 4 笹崎鹿踊り■

2016-11-19 21:29:40 | 風の吹くまま



行山流水戸辺鹿子躍さんの次は、会場となっている住田町のお隣・大船渡市に伝承されている仰山流笹崎鹿踊りさん。
気仙の鹿踊りの特徴でもある青い幕の踊り組です。



仰山流笹崎鹿踊り 

岩手県大船渡市大船渡町に伝わる仰山流笹崎鹿踊り(ぎょうざんりゅう ささざきししおどり)の由来は、大船渡市郷土芸能協会によると、『日頃市村の坂本沢屋敷に住む理惣太が、本吉郡清水川村(現在の南三陸町)中在屋敷の弥惣治(弥惣治は本吉郡入谷村の四郎兵衛より7代の相伝を受けている)から踊りの指南を受け、理惣太はのちに笹崎の大草嶺家の養子となり「笹崎鹿踊り」の基を伝えた』 とある。
明和五年以降(1768)に伝えられたと考えられている。

伝承によると装束に染められている赤九曜紋(他の鹿踊りは白九曜紋を染め抜く)は、初代四郎兵衛が仙台藩主伊達公より下賜されたもので、仰山なる踊りとの賞賛の言葉も賜りそれが“仰山”を名乗る所以であると伝えられている、九人踊りの鹿踊り。



『「引っぱり鹿の子」が他団体と違う。仲立が鹿たちを一列に引っ張り、様々の所作を見せながら打つ太鼓が見せ場』 ともあります。
その説明を聞く限り、『引っぱり鹿の子』 はお隣の住田町世田米の行山流柿内沢鹿踊が今年5月に復活させた 『竿鹿の子』 を彷彿とさせますので、それがどういう踊りなのかとても興味があります。

実は、私はかつて笹崎鹿踊りさんに関する記事を書いていて、今回やっと、この目で踊りを観る機会を得ることが出来ました。

大船渡の各鹿踊り団体は名称が“鹿踊り”となっていて、これが正式名のようですのでこの記事内ではこちらの表記を使いたいと思います。





まさに沿岸の鹿踊りといった感じです!
中立の力強い太鼓の音。
左手のバチで前方を指し流し、威圧するような所作。






軽快で切れがよく、勢いがある踊り。
女性の踊り手が一人おられたそうな!






一人狂い?の場面。
自由自在にササラを操り、安定した確かな踊り。






片足を軸に回るこの場面では会場から思わず拍手が!
この踊り手は、隊列の時の中立の右側の鹿(頭の房が紅白)。






一人狂いの踊り手が退くと、次に二人狂いが始まります。
どの踊り手も踊りがよく揃っています。






ササラの動きも揃い、息があった踊りです。
一人の踊り手が退いて、後に退いたのは中立の後ろ(しがり?)の鹿(頭の房が紅白)。






三人狂いの場面。
あまりに動きが激しいので動画から良い静止画像を取るのが難しく…
これだけで勘弁して下さい^^;
最後の退いたのは中立の左側の鹿(頭の房が紅白)。
頭の動きのキレが凄かったです!
それぞれ激しい動きのあとでの歌い出しも、息も切れずにスムーズです。






頭の角も、大船渡の鹿踊りに見られる狭めの角度。
本物の鹿の角の角度と同じか、少し狭いぐらいか。
ササラの先には鳥の羽根が。






これが 『引っぱり鹿の子』 の場面のようです。
同じような場面は、舞川鹿子躍にもあり柿内沢鹿踊にもあり、やはり同じ行山だと!
金津流にもジグザグの移動場面がありますね。








引っぱり鹿の子の場面で装束をチェック。
今まで私が鹿踊りの中で見たことが無い紋様が見て取れます。


の房の色は、中立は緑、側鹿は左右と後ろの鹿が紅白、他の鹿は赤。
い幕の前面は、中立は仰山の文字が、側鹿は井桁継ぎに九曜紋が、また、幕にある紋様はみな同じのようで、赤九曜紋・藤丸紋・鶴丸紋・蓮華紋?が染め抜かれています。赤九曜紋は金津流にもみられますね。
がしは、中立は 『友達が 遊びかしら(からしという話も?)の庭なれば してがこぼれて足に絡まれ』 の和歌が、側鹿は“鹿ともみじ”の意匠が。
口袴は、中立が深碧(深緑)色で側鹿が黒、前面には白の重ね源氏車紋と裾に白の二本線、中立の背面は…よく見えませんが“唐獅子牡丹”の紋様かなにか?側鹿は真っ赤な伊勢海老?の紋様。





こうして一つの所作を切り取ると、他の団体との共通点を多く見つけられます。






鹿の子の場面でしょうか、躍動的に庭を踊りまわります。






この場面を観てあっと思いました。
柿内沢鹿踊の鹿の子 『奥の御山』 の中の踊りととてもよく似ています。






行山流で見られる鹿の子の庭廻りの場面。
激しく闊達に踊り廻ります。






踊りの最後に渡り拍子を叩きながら。
太鼓のリズムも最後の部分が少し異なるぐらいでよく聴き慣れたリズム。



よく通る声で唄が歌われ、踊りもきちんと習得されていてよく揃い、勢いと躍動に溢れた踊りでした。
太鼓の皮が破れんばかりの中立太鼓の乱打、時に荒ぶる踊りは、さすが沿岸の芸能だなと感嘆しながら堪能させて頂きました。


動画をYouTubeにアップロードしています。
よろしければご覧になって下さいね。

2016.11.06 けせんのたから 仰山流笹崎鹿踊り



■けせんのたから 5■につづく

#鹿踊り #ししおどり
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■けせんのたから 3 水戸辺鹿子躍■

2016-11-14 14:39:31 | 風の吹くまま



座談会のあとは、鈴木雄二氏撮影の生出鹿踊の映像が上映されたのですが、席を外して観ることが出来ませんでした。
YouTubeで後日ゆっくりと拝見させて頂きました。

上映が終了すると、各鹿踊り団体の演舞披露が始まります。
私は舞川鹿子躍の踊り手Mさんのあとを追って、装束に着替えて用意をする行山流水戸辺鹿子躍(ぎょうざんりゅう みとべししおどり)さんの様子を伺いに行きました。

幕には“水戸邊”と染め抜かれていました。
装束も舞川さんとは少し異なるところがあるようです。

震災の年、新宿で水戸辺さんと舞川さんの合同の演舞を観たときには、確か装束は舞川さんの装束を着けておられたと記憶しています。
その合同演舞で中立を(買って出て?)務められた保存会長の村岡氏の当時の頭の角は、たいそう大きく立派なものでした。
(確か凄く大きくて立派な角を見つけたからつけてみた?…というようなお話を当時耳にしたような…笑)

“水戸邊”と幕にある装束にその時のことを思い出し、感慨深くなりました。

その当時の記事はこちらです↓

■舞川と水戸辺 行山流鹿子躍の共演@新宿 前編■
■舞川と水戸辺 行山流鹿子躍の共演@新宿 後編■





この日の演舞には、地元の高校生の踊り手さんたちが出演されたそうです。
(踊る予定ではなかったようで)保存会長の村岡さんが“騙されて踊ることになった”と話しておられました(笑)

冒頭の画像は装束の着付けをする水戸辺鹿子躍のみなさん、それを好々爺のように見守る地元・柿内沢鹿踊保存会の会長さんと元踊り手で世話役のお師匠さん。





まずは舞台の袖で水戸辺さんの踊りを堪能。
こういう角度で鹿踊りを観るのは初めてです。






客席に戻り、腰をすえて踊りを堪能することに。
中央で踊る中立の村岡氏はお聞きするところによると御年65だとか…?
それにしても村岡氏は心に染み入る歌声をお持ちですね!

舞川さんの歌はお堂に響き渡るご詠歌のような厳かな印象を感じます。
水戸辺さんの(村岡氏の)歌は節があって同じ歌なのにまったく違った印象です。





元気いっぱいの高校生に混じってまったく年齢を感じさせない踊り。
間の取り方や細かいところが舞川さんと少し違うように感じました。
 





ツケと呼ばれる牡鹿が他の牡鹿に闘いを挑んでいる場面。






こっちの牡鹿にも。






売られた喧嘩(いや、闘い・力比べです)を買わずにいられるか!
三人狂いの場面です。






高校生の踊り手さんたちはまだまだ伸び代がいっぱい!
師匠はさすがの貫禄と雰囲気をお持ちです。








スマートフォンの構え方のせいで指の調子が悪くなり動画を最後まで撮る事が出来ませんでした
この2枚はショットで撮りました。


いわば兄弟の踊りである水戸辺さん、舞川さん、佐沼さんの交流が深まっているとお聞きします。
これからもそのご縁による繋がりが末永く続き、よりいっそうの相互理解・技と伝統の継承・向上発展になりますようお祈り致します。


動画をYouTubeにアップロードしています。
よろしければご覧になって下さいね。


2016.11.06 けせんのたから 行山流水戸辺鹿子躍



■けせんのたから 4■につづく

#鹿踊り #ししおどり
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■けせんのたから 2■

2016-11-12 12:20:15 | 風の吹くまま



11月6日(日)、岩手県気仙郡住田町世田米の農林会館大ホールで開催された 『けせんのたから 2016 気仙民族芸能祭』 は、正午過ぎから講師の及川宏幸氏(東北民俗の会)による講演 「宮城・岩手の鹿踊」 から始まりました。

鹿踊り(ししおどり)を日本全体の中でマクロ的・ミクロ的視点から検証し、太鼓踊系鹿踊の3流派の分布、気仙他方への流入の年代・経路、現在の気仙に伝わる鹿踊り団体の系譜図と、限られた時間でしたがとても内容の濃い、また未知の情報もあり大変興味深い講義を聴くことが出来ました。

伎楽系獅子舞は西日本を中心に日本全体に分布、風流系(ふりゅうけい)獅子舞は関東から東北地方に分布しており西日本には(それら東日本からの支配階級者の移封に伴い移封地へ伝えられた場合を除いて)見られないということ、調べて知っていたことではありますが、図解によりさらに解りやすく納得のいく内容になっていました。

私は気仙地方の鹿踊りはすべて山口派だと勝手に思っていましたが、そうではないことを今回知りました。

個人的に金津流石関獅子躍の中立の鹿踊マニアさんに確認させて頂きましたが、ながしに和歌(山口派にみられるいくつかの和歌の中のもの)が書かれていても、必ずしも山口派ではないことも今回知るに至りました。

マニアさんに指摘されましたが、確かに宮城県栗原市の一迫(いちはさま)の鹿踊りのながしにも和歌が書かれていますが、私はそれらは山口派とは思っていませんでしたから、言われてみれば確かにその通りなんですね。
思い込みで気仙はすべて山口派だと思っていたところ、そうではないことを知ることが出来たのも収穫です。
『伊達公から頂いた歌だと解釈すれば、どこの団体が染めていても不思議ではないかも知れません』 と。
マニアさん、さすが生き字引!
それに 『染める』 という表現も、装束への思いというか担い手ならではの表し方だなと、私のように単に書かれていると言うよりもはるかに美しく情緒ある表現ですね。






講演のあとは、茂木栄氏(國學院大学教授)司会による座談会 『鹿踊のこれまでとこれから』。
冒頭の画像にあるように、この日出演される団体の代表者も出席されました。

私にとって鹿踊り団体の情報を得るのはネット以外にはほぼ無い状況ですので、こうして生の声を聞く機会はとても貴重なもの。
地元・柿内沢鹿踊からは保存会長の名代で中立の角鹿氏が出席されていました。

各団体、簡単な踊り組の由来等の紹介、また議題の通りに、今までの事からこれからの取り組みについて等のお話がありました。

地元・柿内沢鹿踊の中立氏によると、こちらの団体は伝書等の文書が残っておらず詳しいことは判っていないこと、確固たる(踊りを網羅する)師匠という存在が居て踊りを指南するという形ではなく、踊りの先人たちがそれぞれ後進の踊り手に教授するといった慣習があるため、踊りの所作の細かいところが揃わなくなることもあり、それを今後改善して取り組みたいと考えていること等を述べておられました。

大船渡の笹崎鹿踊の保存会長は、先の震災で装束が消失した中で何故か中立の頭(かしら)のみが見つかり、そのことでさらに鹿踊り継承に奮起し、浄財を頂き装束等を揃え再び活動をすることが出来たこと、地域による次代の担い手育成への取り組みをお話しされていました。

宮城県・南三陸町の水戸辺鹿子躍の保存会長も、震災によって装束等すべて失ったと思っていたところ太鼓やササラが次々と泥にまみれて見つかったこと、関係各位の協力を得て踊りを再開することが出来たこと、郷土芸能の担い手育成の取り組み、供養碑は実はその存在は以前から知られていたことなどお話し下さり、私が知りえなかった情報も聴くことができました。

3団体からのお話で共通して出てくるキーワードが供養という言葉。
風流(ふりゅう)系と括られる所以が、ここでも改めて示されたかたちです。

特に震災で大きな打撃を受けた笹崎鹿踊・水戸辺鹿子躍の両団体の保存会長さん達はここでは淡々と語っておられましたが、人々の暮らしの先々さえも見えないあの状況の中、郷土の芸能に対して去来した思いは、そして継続への責務と信念はいかばかりであったのかと、思い巡らせました。

また、座談会出席者のお一人・東北文化財映像研究所の阿部武司氏の、『(鹿踊りの伝播経路を検証する一方で)その踊り組の一番上手い人の踊り、いい踊りが伝承されていった結果が今の各団体の踊りになった』 というお話に、人から人へと伝わっていった鹿踊りの、経年変遷の答えがそこに凝縮されていると納得致しました。

担い手からみる鹿踊り、外からみえてくる鹿踊り。
もっともっと時間を掛けてお話を伺いたかったなと思う内容の、講演・座談会でした。


(※ 阿部武司様、座談会後にお引止めしてしまい失礼致しました。興味深いお話をお聞かせ下さいましてありがとうございました。)


■けせんのたから 3■につづく

#鹿踊り #ししおどり
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■けせんのたから■

2016-11-10 14:50:39 | 風の吹くまま




11月6日(日) 『けせんのたから2016 気仙民族芸能祭』 を観に、岩手県気仙郡住田町世田米に行って参りました。

日帰りで世田米に行くのは至難の業!
公共交通機関を使ってはどの方法を取っても絶対に間に合いません。
宿泊しないことには、まず無理です。
といって、レンタカーを借りても返却時間が遅くなるので営業時間に間に合うかというところで…。

そこで今回、9月の花巻まつりでもお世話になった一関の舞川鹿子躍の女性踊り手さんのMさんの有難いお申し出・ご厚意に甘えさせて頂きまして、水沢江刺駅で拾って頂く&送って頂くことにあいなりました。
お蔭様で、無理だと思っていた世田米入りが叶いました!
Mさん、本当にありがとうございました(#^^#)





今回はドジを踏むことはなかったか…と言うと…。
いいえ、相変わらずの私でございました(;'∀')

この日は日曜日ということで、いつもよりも交通機関の走行本数が少ないことを十分に分かっていました。
最初に乗るバスはまぁ何とか予定通りにクリア、次の(信用ならない)JR横須賀線がですね、これがですね、なかなか来なかった上に各駅だったんですね。
東京駅にはいつもよりは随分と時間が掛かって到着しました。

そこからいつも通りに新幹線の改札に行くのですが、ちょっと用事があって途中にコンビニのようなお店がないか探しましたが、まだ時間が早くてそもそも開いているお店が少ない。
まっいいかと、発車時間までそれほど余裕がなかったので、改札を通り電光掲示板で乗る新幹線を確認し、いつものホームに上がり仕方がなくそのホームのキオスクで用事を済ませました。

ほっと一息ついて、さぁあとは乗るだけよ~もうすぐ到着かな?などと思っていましたが、あれ?変だな?もう10分を切る頃なのにホームの電光掲示板に番号が見当たらない…???

えっ?なんで???
ちょっとパニくってます
(ホントは凄く焦ってます笑)

待てよ?ひょっとして…!

ホームの階段を駆け下りると…嗚呼、何ということでしょう!
電光掲示板には…違うホームの番号が…。。。
私の乗る新幹線は…お隣のホームにすでに到着しておりやしたーっ(笑)

慌ててダッシュで駆け上り、どうにか乗り遅れることなく乗車できました~( ;∀;)

思い込みって恐い。
このはやて111号は以前も乗っているし、今までの新幹線は全てそのホーム発だったので、てっきりそこだとばかり思い込んでいました。

ああ、乗れてよかった
帰宅してその話しをしたら、羊子に叱られてしまいました(笑)





東海道新幹線よりもずっと快適なスラブ軌道の東北新幹線は、スマホをいじっている間にもう水沢江刺に到着。
江刺は、確かに東京よりも寒かったですが、思ったほどではありませんでした。

私を拾いに駅まで来て下さった舞川鹿子躍さんのMさんと同行されていたのは、同じ舞川さんの新人さんのIさんでお初にお目にかかる方でした。
3人でお話をしながら住田町世田米に向かいます。
スマホで地図を簡単に確認し、そのままするすると初めての道を行くMさん。
凄いなぁ、私にゃ出来ない(笑)

鹿踊り(ししおどり)談義に花を咲かせていると、一時間も掛からずに世田米に到着しました。
まだ早いけどまずはお昼を食べようと食事処に入って、食べ終わった頃…。
窓の外に見えた人影に気が付いて嬉しそうに手を振るMさん。
誰かな?と思ったら、何と奥州市江刺区稲瀬の金津流石関獅子躍さんの中立の鹿踊マニアさんが独りお店に入ってくるではありませんか!

同席されて色々とお話をして、そのあと私たち一関チーム(笑)は会場となる住田町農林会館へ移動しました。
そこにはすでに到着されていた、花巻市石鳥谷の春日流八幡鹿踊さんの中立のイーハトーヴさん(懐かしいなぁ、このHN!)、お側に一眼を携えた御仁がおられましたが、『ああ、羚英さん?』 の言葉に 『えっと…どちら様…?』 と(笑)
イーハトーヴさんが笛吹さんだよ!と教えて下さり、えええっ?(笑)

その節は大変失礼をば致しましたっ!

今日の新幹線で岩手入りし、どこからどうやって住田町に来るのかと思っておられたそうですが、そうです!私は一関チームに拾って頂いてここにたどり着きました。
禁じ手を使ってしまいましたっ(笑)

会場はすでに開いているということで、動画を撮れる場所探しに一足先に会館の中へと入ると、この日出演される地元・住田町世田米の柿内沢鹿踊の客員の踊り手で、イギリス人ダンサーで振付師のショーネッドさんから声を掛けられました。
まったく気づかず失礼しましたが、演舞までの時間をご一行は講演・座談会と観ていかれるようです。

会場内では、舞川鹿子躍のMさんが、同じ所縁の踊りである宮城県・南三陸町の行山流水戸辺鹿子躍の保存会会長で中立のM氏を紹介して下さいました。
実は私は震災の年に新宿で水戸辺鹿子躍さんの演舞を観て、その様子をブログ紹介しているのです。
そのこともお話ししましたが、こうしてまたこの住田町世田米で水戸辺のさんの演舞を観ることが出来るのがとても嬉しかったです。

暫くすると、この日遠路はるばる観に集まってくれた鹿踊り関係の友人・知人の皆さんにご挨拶するために、急きょ保存会長の名代で座談会に出ることになり打ち合わせを終えた柿内沢鹿踊の中立の角鹿氏が来られました。
早速、私も先ほど初顔合わせを終えたばかりの遠野の笛吹さんをご紹介させて頂きました。

実は、私が初めて住田町という町に柿内沢鹿踊という踊り組があることを知ったのは笛吹さんのブログで、その記事で初めて笛吹さんにコメントをし、柿内沢さんの中立のながしに書かれている和歌の万葉仮名について教示頂くという経緯がありました。
この方の記事がなかったら、多分昨年角鹿氏からコメントを頂くまで柿内沢鹿踊という言葉を耳にする機会はなかったことと思います。
いわば、きっかけを作って下さった方で、以前より柿内沢鹿踊さんのことを世に紹介して下さっていたブロガーさんなのです。

いつかお会い出来たら、角鹿氏にご紹介出来たら…と思っていましたので、それが叶って本当に良かったです!
その笛吹さんの当時の記事はこちら→「遠野」なんだり・かんだり 2008 日出神社例祭
ちなみにこの時、角鹿氏は中立では無く左口輪(中立の左鹿)で狂い頭(三人狂いのリーダー)だったそうです。





会場には鹿踊り関係者、鹿踊り・郷土芸能愛好者さまざま集結していた模様です(笑)
途中からは鹿馬鹿さんも間に合って、席につかれました。


さて、講演・座談会・ビデオの様子は…纏めようがなく困っています(笑)
その様子は動画には撮らずに、一聴衆となっておりましたし、一聴衆に徹することも今回の目的でもありましたので、本当にさらりとしたご紹介で失礼させて頂きます。


■けせんのたから 2■につづく

#鹿踊り #ししおどり
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■シシ人形 遠方より来たる■

2016-11-10 07:50:16 | 風の吹くまま



ししおどりの張子のお人形を制作している岩手県奥州市の 『はる屋』 さんから、待ちに待った鹿踊りのお人形が届きました!







先住の金津先輩(2007年2月25日に我家に来ました)
春日先輩(2013年3月9日に我家に来ました) のところに
行山君(2016年11月9日)が新たに仲間に加わりました

これで晴れて、太鼓踊系鹿踊の行山・金津・春日の3団体が揃い踏み





爪楊枝と比べると、描かれている紋様のなんて小さく繊細なことっ!


この小さいお人形に、拡大鏡等は一切使わず紋様を描いておられるそうです、凄いですね!手練の技ですね(^・^)
これは行山流山口派柿内沢鹿踊の中立のお人形で、ご本人の角鹿氏が購入順番を譲って下さいました。

はる屋さん、角鹿さん、ありがとうございます。
大切にします!


#鹿踊り #ししおどり
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■上洛しました 三日目■

2016-11-05 13:21:01 | 風の吹くまま


ホテルの枕は欧米風に大きなふわふわの羽枕がふたつ。
日本人には一つで十分(笑)
初めて枕が替わって眠れない、を経験しました(笑)
さすがベッドスロー(靴のまま横たわる時の靴の汚れ防止等)付きです。






最終日の始まりは、東本願寺へ。






ここの思い出は、髪の毛で出来たロープ。
門徒さんたちが寄贈した髪の毛を束ねた太い綱が、今も展示されてました。






次は西本願寺。
東本願寺(家康側?)と西本願寺(秀吉側?)のすったもんだ。
そのお話は他のサイトにおまかせします。
もともと世俗臭ぷんぷんの浄土真宗の混乱が、ここに代表されていたりして…。






浄土真宗はお寺もお仏壇も派手めに感じます。






西本願寺は秀吉ゆかりのためか…。






京都の国宝三唐門の一つ、唐門が秀吉の伏見城から移されています。






花曇の空だったので、綺麗に画像が撮れませんでした^^;
秀吉らしい派手さですなぁ~。





大きさはこんな感じ。
ひっそりとした場所に移築されています。
あまりに普通にあるので、肩透かしを食らう感じでした。
西本願寺に来たらお見逃しなく!






次はホテル近辺のスポットに戻り、新撰組で有名な壬生寺へ。
新撰組のファンの方々らしき人がちらほらと。






そこから徒歩で移動し、あの信長の終焉の地・本能寺跡へ。
かつて高1の頃姉に連れて行かれた時は、ここは小学校でした。






すぐお隣は、本能寺の消防分団の器具庫!
本能寺→火事→消防とは、何とも(笑)


本能寺の変の後、「能」 の字にヒ(火)が入っているのは縁起が悪いと、火が去るという意味合いで“去”に似た字に替えたとか。
信長記(しんちょうき)には、本能寺に敵方が近づいたとき 『是非に及ばず』 と信長が言ったとあります。
諦めの言葉との解釈が有名ですが、文脈からはその真逆だと言われていますね。





本能寺跡は、このような普通の街中のひっそりしたところにあります。
一方通行の道の道路標示がなかなか興味深かったので、一枚!






新幹線乗車までの時間をゆっくりと過ごすことにして、今度は昼間の祇園(四条通り)へ。
祇園辻利の甘味どころ・茶寮都路里で抹茶のパフェを!
甘み控えめで、美味っ






せっかくなので、一見さんお断り~の祇園の界隈を散策しました。
実際は昼間は一見さんでも大丈夫のようですが。
実はここではいい思い出がありませんでしたが、今回はそれもすっかり失せてしまいました。






路地を曲がると、もっともっと祇園らしい街並みがありました。
おかみさんが玄関外で用足しをしていて、目が合いご挨拶を。
間口が狭く奥行きがある京の町屋をちょっとばかり垣間見ることが出来ました。






祇園と言ったら、八坂神社。
祇園もどこもかしこも、外国人観光客だらけ。
観光スポットではどこでも貸衣装で着物を着て闊歩しているのはほぼ中国人。
でも祇園では日本人も、特に修学旅行生が集団で着て散策していました。
それもいい思い出になりますね!






西楼門から四条通を望む。
人が一瞬空いた隙に写しました!




このあと再び四条通りのお店をめぐり前日だけでは買い揃わなかったお土産を購入。
ホテルに戻る最中では地下鉄の電車内で携帯の地震速報がギュイギュイと一斉に鳴る事態が!
鳥取で地震が起きました。
地下鉄は止まりませんでしたか?とホテルの方が仰るほど地上では揺れたようです。

預かってもらっていた荷物を受け取り、その足で京都駅へ。
駅で簡単な食べ物を買って、新幹線ホームに上がって待合で待っていましたが、何だか様子が変です。

地震の影響で新幹線の遅延が起きているみたいです。
新幹線の到着順番が前後めちゃくちゃで、駅員さんも状況把握に大変そう!
新大阪発のものは時刻通りに到着しますが、それ以外は4~50分の遅延になっています。

いままでとても暑かったのに、ここにきて震えるほど寒い風がホームに吹きつけ、待つ身がますます忍びなくなります。

結局私たちが乗る博多発の新幹線は40分遅れで京都駅を出発。
でも京都から新横浜まで6分縮めて走行したようです。

無事地元に到着してみたら、京都よりも暖かかった^^;
鳥取の地震の被害に遭われた方々には心よりお見舞い申し上げます。

この日のスマホ携帯時の歩数→18,751歩。
3日間、大変良く歩きましたっ


すっごく歩いたけれど、思いがけないすてきな休日を過ごす事が出来ました。
羊子、京都に連れて行ってくれてどうもありがとう


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■上洛しました 二日目■

2016-11-04 22:29:19 | 風の吹くまま


朝食はビュッフェ。
多くが欧米からの宿泊者のためか最初に洋食が並んでいました。
和食の多くを選び損ねました~(^^ゞ


あまり朝食は量を摂らない私が朝からこの量…。
これが響いて、この後なかなかお腹が空かなくて困りました。
京都の卵焼きは出汁巻きなので、美味しくて次の日もまた(笑)
全体的にバランスよく美味しかったです。





前の日に清明神社で引いたおみくじ。
そうそう!ホテルの部屋の鍵はディンプルキーでした、安全性が高いですね。






朝一番で前日に入場を諦めた二条城へ。
朝の陽なので写りがいいです!
美しい唐門、絢爛でやっぱり徳川っ!て感じがします。






この四脚門の天井部分。
豪華な彫刻や飾り金具で装飾されています。






二の丸御殿。






車寄の入り口上部には裏表が違う彫刻が。
唐破風の豪奢な入母屋の屋根はバロックな感じがして結構好みです。






まだ御殿の入場開始までは時間があるのでしばし庭を散策しました。






どこか男性的な印象を受ける山水。






人が写りこむので画像を撮るのも気が引けます汗。
二条城は徳川家康が西国大名に天下普請を命じて築城させたもの。
『西国の大名』 というのがミソ。
この石組みはどこの藩が担ったんだろう。


天守跡などを廻り広い庭を散策し、二の丸御殿に入場しました。
中は外国人観光客と小~高校までの団体とで渋滞状態!
もちろん撮影禁止なので画像は撮れません。

ここの来るのは高3の家族旅行以来で、当時はまだ(聞いたところ獅子丸が中学の就学旅行の時も)大政奉還が発せられた大広間一の間・二の間には当時の様子を再現する人形が置かれていましたが、この時はすでにありませんでした。
評判悪かったんだろうなと^^;
だって松平容保公のお人形が白髪の年配風だったように覚えてて…時代考証無視?な感じでしたしね。


天下分け目の関ヶ原の合戦で石田三成側の西軍に与した西国の諸国は、江戸の世では徳川からの抑圧に苦しみ、その怨恨が幕末のうねりになっていったと言われていますね。
徳川の始まりと終わりを見続けた二条城を後にして、次なる場所へ。
天気はいいし、すっごく暑いです!





羊子の熱望した?仁和寺、仁王門。
吉田兼好の徒然草の中にある 『仁和寺にある法師』 を読んで、いつか是非来てみたかったと。






仁王門から中門を望む。
日陰では涼しい秋の風が心地よいです。






御殿の庭。
市松模様で面白いです。






書院の回廊、趣がある空間。








南庭。さきほどの庭とは違う筋が走る紋様で整えられています。






境内にある五重塔。
逆光で上手く写せませんでした。






色づき始めたばかりのモミジ。






パッと見秋の風情ですが、実は汗がにじんでいます^^;






羊子から貰った画像の方が色合いがいいかも(笑)
特別展も見て、境内を一回り。
仁和寺は訪れる人もそれほど多くなく、落ち着いて過ごす事が出来ました。






所かわって、仁和寺からほど近い龍安寺。
ここも外国人観光客に大人気の場所ですね、いっぱいで画像が撮れません。






有名なあの石庭。
画像以外の場所は、人・人・人!
ここの縁側にもずらっ…と外国人が座っています。





その先にあるこの苔の庭のところの縁側にも外国人のカップルがいっぱい!
写らないように撮るの、苦労するのよ。



 


龍安寺からバスとタクシーを乗り継いで、嵯峨野の大覚寺へ。
入り口を入ってすぐに展示されているお輿。
後宇多天皇の紋・九曜菊紋が入ったお興しで天皇が使用したそうです。






訪れる人も丁度いいぐらいで、とっても落ち着く空間です。
 





留め金の飾り部分には…?
蝉がいます!






宸殿(しんでん)。
江戸時代に後水尾天皇より下賜されたという寝殿造りの建物だそうです。
ここの蔀度(しとみど)に蝉の意匠が。






襖絵のある部屋は徳川の二条城でも見ましたが…。
京都御所といい、やはり天皇の住まいは簡素な美しさがあります。






羊子からの画像で、大沢池。
青が映えて美しいですね!
 

大覚寺はとても静かな雰囲気の、心から落ち着ける素敵なお寺でした。
今回の訪問地の中で、私は一番好きになりました。

順序表示がないと迷子になりそうな迷路のような回廊の一角にある趣のあるお手洗いにも寄りましたが、帰りがけにいざ出口近くになったところで、お手洗いの個室の窓の桟のところにスマホとパンフを置いてきてしまったことに気がついた…あぅ…

すわっ!これを失ったら大変なことになるーっ

すぐにきびすを返して、歳を思わせない機敏さとフットワークを発揮し、来た回廊を(何故か)迷いもせず一目散に(順路無視の)最短距離を進み、無事置いてけぼりのスマホたちを保護
ちょうどご使用後のご婦人方が出てきて、私がその持ち主だと気がついたようで、『よかったわね~』 と。

ほんと、よかった~

羊子が、『お母さんの後を追いかけて、回廊の角を曲がったらすでにお母さんの姿がなくて…凄い速さでいなくなってどこ行っちゃったんだろうって あっいたいたと思ったらももうずっと先の回廊を走ってた、忍者みたいに足音立てずに』 と。

おっちょこちょいは、生まれつき~(*^▽^*)アハハハハー







大覚寺からは徒歩移動で、化野(あだしの)念仏寺へ。
観光客が一人もいない住民の方をたまに見かけるだけの裏道を通って。
念仏寺にある竹林。午後だったこともあり人もまばらで画像も撮れました。


念仏寺も高3の家族旅行以来ですが、あの時に感じた異次元感のようのものはありませんでした。
あの時も秋で紅葉の時期で人が多かったのにも関わらず、何とも言えない感覚を覚えたのですが、今回は何故かとても穏やかでした。
なにが違うのか、よく分らないのですが。



嵯峨野を嵐山方面へと歩いていて、さすがにお腹が空いてきたので、途中にあったお蕎麦屋さんに入りましたが…。
一人でやり繰りしていて先客もいて、時間が結構掛かってしまった上に、店主の方が私たちにご自分の話しを聞かせてくれてしばらく拘束されてしまいました(笑)
それも、いい思い出になりました。





竹林!


そういえば、あの有名な竹林って京都のどこにあるんだろ?
そんなことを話していたら突然目の前に現れました(笑)
しかし実態は…外国人観光客でごった返し!
薄暗い竹林の中ではレンタルサイクル・人力が人を掻き分け行き交うラッシュアワーの通路状態です…

なんだか雰囲気も何もありませんでした(笑)

違う方向にある竹林を少し歩いていると、竹の上部でパキっと竹が割れる大きな音!
風もなく、鳥や動物の気配もなく、ちょっと怖くなりました。


嵐山で羊子が自分のお土産を買って、次は三条大橋へ。





『三条大橋で連想する2人組みは?』
『うーん…、あっ 助さん格さん!』
だれがじゃー…

十返舎一九の東海道中膝栗毛の、『弥次さん喜多さん』 でしょーよ!






もう薄暗くて、画像を撮るのはスマホではこれが限界です。



この三条河原で晒されたのは?
いろんな人たちの首ですね、古くは平将門、石川五右衛門はここで釜茹で、石田三成、千利休、近藤勇…などなど、そんなことがあった場所なんですね。
見えなくてよかった^^;

このあとはもう時間が時間なので、地下鉄で移動し祇園でお土産タイム。
そして中途半端な時間にお蕎麦を食べてお腹が空かなかったので、この日の夕食は羊子が買った大きなスイートポテト。

この日のスマホ携帯時の歩数→22,400歩。
この日もまた、大変良く歩きましたっ


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■上洛しました 一日目■

2016-11-02 20:38:31 | 風の吹くまま




10月19日(水)、遅い夏休みを取った羊子が 『お母さんと京都に行きたい!私が出すから!』 と言うので、二つ返事で快諾し(笑)、宿泊・往復新幹線も平日なので何とか予約が取れて京都に行ってきました。

東海道新幹線なので、乗りなれない新横浜から。
ちょっと駅も乗換駅も不便なんだけどね^^;





乗車する新幹線を…あああ!ちゃんと写せなかった~
正面がクレヨンしんちゃん似の700系です。






お腹が空いたので売店で買ったんだけど…
人気NO.2だそうだけど…
お腹がぺこぺこだったから全部食べちゃったけど…
助六系にすればよかった…。






車窓からやっとこ富士山が見えた!
ここで7時半過ぎぐらい。


手前、神奈川県内で超低空のジャンボが新幹線の上を飛ぶのを見たんだけど…
いまどきジャンボ?なんでこんなに低空?と…。
米軍基地関係のかなぁ、何だったんだろうと羊子と話してました。

それにしても、何故東海道新幹線はこんなに揺れるんだろ?
こんな感じだったかなぁ、もう忘れちゃったけど。
東北新幹線はこんなに揺れずに快適なのに、乗り物酔いをしない私もちょっと具合が悪くなりそうでした。
獅子丸が新幹線は具合が悪くなるって言っていたのは、このことだったのねー

あとで聞いたらバラスト軌道(東海道)とスラブ軌道(東北)の差だそうな。
簡単にいい言えば砂利とコンクリの地盤の差か、なるほど…。





そうこうしているうちに、とっとと京都に到着。
この画像は9時20分頃のもの。
駅ビルの窓に京都タワーが映り込んでますね。


ウェルカムロビーとかいうところで荷物を預けてホテルに届けてもらう手続きをして、身軽になって早速最初の訪問地・伏見稲荷大社へ!

バスの運転手さんが 『降りないなら押さないで下さいねー』 
珍しくて触って間違って押しちゃう外国人がよくいるんでしょうね、棒読み気味でした~(笑)





暑いよー、京都は暑いよー、もう秋なのに夏日だよー
じっとりと汗がにじみます。






画像の下は、人、人、人(8割9割が外国人)
それもそのはず、外国人一番人気のスポットらしいですから(笑)










 


ここを網羅するには2時間掛かると聞いていたけど、へーぐらいにしか思っていなかったら…後の祭り…。
山だなんて、聞いてなかったよー
まぁ、でも何とかなるだろうと思っていたけど…。





暑さと疲労のため途中でエネルギー補給&休憩。
きなこソフト、美味


そういえば俳優の誰だっけ名前忘れちゃったけど、こういう観光地の山の中のお蕎麦屋さんが実家で、『遅い仕事は馬鹿でも出来る』 と親御さんに言われて通学での足腰だけではなく仕事も鍛えられたお陰で、後々バイトしても(働きが良いから)すぐに責任ある立場に付かされた…とか聞いたことある~などと話していたら。

前に座っていた、やけにお口の厳しい首都圏からのお姉さま方(私よりも年上)と思しき方たちのお話が聞こえてきて、ここがまさにその場所だと知りました!

あっ、ホントだ!
お店に 『にしむら』 とある!
西村和彦さんのご実家でした





行き(山登り)で撮ったのか帰り(下山)で撮ったのか忘れてしまった…(笑)

現在地を示す看板を要所要所で見ては、あぁぁ~まだここぉ~?と驚愕の声をあげては弱音を吐き、それでも諦めず果敢に挑戦する面々が先々でだんだんと定まってきて、頂上に到着したときは同志のような連帯感さえ覚えて(笑)日本人・外国人ともに顔を見合わせ笑顔でアイコンタクト!

『途中でいなくなったから、もう到着してたのかと思ってました~』 との日本人の二人連れの方の言葉に、『途中でバテて、ソフトクリーム休憩してました^^;』 と報告。

無料のおみくじ引いて、えーとそれから…?
疲れ果てて画像撮るの忘れちゃった~まっいいか

お狐さんがいっぱいで、見られてる感をたっぷり楽しめる?スポットですよ。
薄暗くなったら絶対来たくないな、恐いな…。





参道で焼きたてのおかきを。
ゆかりのおかきで、美味しかったですよ~!






次は、清水寺。
人だらけなので、上しか写せないです!
意匠が素敵だったから、まっいいか(笑)

最寄の停留所までのバスの中、運転手さんが独り言。
『ミラーが見えへん』






清水の舞台横から音羽の滝を望む。
相変わらず長蛇の列です。






この蔀戸(しとみど)、上げっ放しなのかな?


この先にある道は工事中で閉ざされていて進むことが出来ませんでした。
あの、よくある清水の舞台を望めるスポットの方です。
秋の紅葉の季節に合わせて、今修復して準備してるのかなぁ、残念でした。





音羽の滝の方へ下りて、舞台の下の構造を望む。
昔々の修学旅行の時、“釘を一本も使ってない構造”を特に力を入れて教えられたなぁ(笑)






その先にある、アテルイとモレの碑。






傍らには、顕彰碑。


『八世紀末頃、日高見国胆沢(岩手県水沢市地方/現在の奥州市水沢区)を拠点とした蝦夷(えみし)の首領・阿弖流爲(アテルイ)は中央政府の数次に亘る侵略に対し十数年に及ぶ奮闘も空しく、ついに坂上田村麻呂の軍門に降り同胞の母礼(モレ)と共に京都に連行された。
田村麻呂は敵将ながらアテルイ、モレの武勇、人物を惜しみ政府に助命嘆願したが受れられず、アテルイ、モレ両雄は八○二年河内国で処刑された。
この史実に鑑み、田村麻呂開基の清水寺境内にアテルイ、モレ顕彰碑を建立す。』

母方の曾祖母の先祖は田村麻呂の東征に従軍し今の名取に土着した武将と伝えられ、曾祖母の実家は大同年間から続く家なので大同屋敷と呼ばれたそうです。
先祖らの行いは時の中央の立場では東征、蝦夷の立場では侵略。
国や民を守るために侵略者と果敢に戦った両雄は、私にとっては英雄です。





羊子が中学の修学旅行時に寄ったという茶店で一休み。
わらび餅とみたらし団子。
京都のみたらしは人間の五体を表し団子が五つなのよね。
小粒で餡はさっぱりしていて、羊子も私もこの味の方が好きです。




このあと、二条城に行ったのですがイレギュラーでこの日も次の日も閉館時間が早まっていて、翌日一番に再び訪れることにして京都御所に行きました。

御所は二条城から近いのでタクシーで移動。
ドライバーの方は今年のこの秋の暑さは異状だと仰ってました。
ただし、この後冷え込みが深まれば、紅葉がいっきに色良く色付くだろうとも。
男の人が話す京都弁も耳に心地よく響きます。
(でも私は東北弁の方が好き!)





御所に到着。
現在は一般公開日も予約見学も廃止し、通年で見学することが出来るようになりました。
はい!筋塀の線は五本線!
京都にはいっ…ぱいありますね。
これは皇族や摂家などの御所や門跡寺院に用いられ、五本は一番格式が高いのです。






皇室警察と思われる警察官が多く警備にあたっています。
入場門を入ると荷物検査を受け、入門証を渡されます。









ここは御車寄(おくるまよせ)。
唐破風の屋根に唐草の紋様の飾り金具。
桧皮葺(ひわだぶき)の屋根も見事な技術で施工されています。
宮大工の手練の技ですね!


こういったところばかりに目が行ってしまいます(笑)










紫宸殿。
即位式などの重要な儀式を執り行う最も格式の高い正殿、だそうです。
甍(いらか)の紋様も菊の御紋。






ここは建春門。
私好みの門です。

御所の正門で天皇陛下や外国元首の通行に使用される健礼門は逆光で上手く写せませんでした。






暑い京都!
この時期、紅葉はまだまだ進んでいませんでした。






ここは清涼殿。
平安時代に天皇の生活の場であった当時の様式を復元したものだそうです。








皇居の御所を見てもこの京都御所にしても、建物も過剰装飾がなく全体的に簡素な美しさがあります。
簡素であり、かつ重厚な雰囲気の、思わず背筋が伸びる独特な空気が流れる空間です。






この日最後に訪れたのは、清明神社。
ご存知、安倍清明を祀る神社です。






清明井。
安倍清明が念力で湧出させたと言われていて飲用出来るそうです。
マニアと思しき若き女性がおもむろに二本指で刀印を作り九字を切る?所作をして飲んでましたー!






井戸の前には北斗七星ーっ!






清明神社の本殿。
かつてこの神社の敷地内に千利休の屋敷があったとか。
利休は最期の時もこの井の水で茶を立てたであろう、と。


滅多に引かないおみくじを、ここでも引いてみました。
伏見稲荷で引いたおみくじと被る内容で、ちょっと驚き…



このあと、クタクタになりながら宿泊する四条のホテルに向かいました。
夜になると少し雨が降ってきてしまい、界隈を歩いて書店に入ったりして、夕食は…結局ホテル近くのマックだったかな?(笑)

この日のスマホ携帯時の歩数→23,809歩。
大変良く歩きましたっ


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■歌仙兼定■

2016-10-18 17:56:53 | 風の吹くまま
これもちょっと前のお話^^;

靖国神社の奉納演舞を観に行った2週間後の10月1日(土)、羊子が一緒に見に行こうと連れ出してくれました。
ところは、彼女の母校の大学からほど近いところにある永清文庫。

永清文庫?
金沢文庫なら知ってるけど…。(←神奈川県民はみな知ってるw)

羊子が慣れ親しんだ懐かしい駅を降りて、私も久し振りの大学街の街並みを眺めながら、徒歩で向かいました。






永清文庫のある丘(山?)の手前にある神田川。


神田川って、あまり意識してなかったけど、歌のせいか何となく桜で有名な目黒川みたいなイメージだったのに、やたらとデカイです!
柵から乗り出して画像を撮ろうとしましたが、ここでスマホ落っことしたらもう最後なのでビビッて撮ったら、こんなよく分らない画像になってしまいました


橋を渡ると、あら大変。
上り階段が延々と…。
寄る年波に運動不足の身、息も絶え絶えと思っていましたが幸いどうにかこうにか上り切り、上ってすぐのところに目的地の入り口はありました。





よその人が写り込んでしまったのでトリミング。
入り口を入ってすぐに見えてくる年代を感じさせる洋館造りの建物。


ここは東京都文京区目白台1-1-1(!)にある、熊本藩細川家の下屋敷跡にある美術館です。
細川家伝来の文化財・約6,000点の美術工芸品などを収蔵し展示公開しています。

この建物自体は旧細川侯爵家の家政所(事務所)として昭和初期に建設されたものだそうです。
事務所でこのレベル…。。。

名刀・歌仙兼定の夏季展示は次の日までだったそうで、飛び込み観覧でした。
ちょっと前にテレビでこの刀のことを観ていたので何となく興味を持ったら、では行きますか!と羊子が(笑)
彼女はもうすでに友人と1度来ているのですが、私に見せるために連れて行ってくれたんです。

もちろん中は撮影禁止。
国宝も重文もゾロゾロありました。

細川ガラシャの夫の細川忠興の愛刀・歌仙兼定は拵え(こしらえ/刀の外装)が見事でした。
ネットでは本物の画像が見つかりませんが、模造刀は到底足元にも及ばない重厚で繊細で美しいこしらえでした!

刀ももちろんですが、私が一番興味を持ったのは具足。
細川忠興が天下分け目の関ヶ原の合戦で東軍に与して戦ったときに着用していたと云われる具足です。
13年ほど前に関ヶ原を訪れたことがありますが、あの場所でこの具足を着用して戦っていたのかと…。
遠い昔の合戦に、しばし思いを馳せました。

そうそう!
具足の兜にはヤクの毛でしつらえたエクステ?が付けられ、天辺にはヤマドリの羽根が束ねて突き刺さっていました!






歴史ある品々に眼福を頂戴し、美術館をあとにしました。
入り口の正面を進むと階段があり、庭園へと続く道がありました。





秋の紅葉に向けてあちらこちらで整備されていました。
今は紅葉も遅くなったから11月下旬から12月初め頃が見頃でしょうか。






敷地内にある別館サロンでお茶を頂くことに。
番号札で点出し(たてだし)のお茶を待ちます。






窓の外にはさきほどの庭園風景が。
紅葉の季節はさぞや趣があるでしょうね!






左手に忘れてつけてる髪ゴムが…なんだかなぁと(笑)






丁重にお茶を運んで下さいましてこちらもかしこまって頂戴しました!



細川家が将軍家に献上した菓子を再現したという、加勢以多。
そこには細川家の家紋である九曜紋の焼印がありました。

またこの茶器は、陶芸家としても有名な肥後細川家第18代当主で第79代内閣総理大臣の細川護煕氏の作だそうです。
このサロンのあるお屋敷に住んでいたこともあったそうです。

久々に、畏まった非日常的な時間を過ごしました。


たまにこういう時間を過ごすのもいいねと羊子と話しながらも、帰り道を行き見慣れた風景が見えてくるとなんだかホッとするような、そんなあくまでも一般人な私でございました(笑)


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