デュランタ・タカラヅカ
濃い青紫色が美しいです
♪幼き日の淡き夢の国~
おお、宝塚~TAKARAZUKA~♪
♪いつか夢に見し麗しのパラダイス~♪
…の宝塚ではありません。(古い歌でスミマセン)
明日、とても楽しみなテレビ番組が2つあります。 『女王の教室』 と 『草剛と日本史2000年の旅に出よう!!』。 剛くんの方を録画することにします。 今朝の 『めざましテレビ』 で当のご本人が出演されていて、1番興味のある人物はという問いに、これまで歴史にあまり興味がなかったものの、この番組に携わって戦国武将・小早川秀秋にとても興味を持った、と語っていました。 それを聞いて、私は一昨年の夏に行った関ヶ原を懐かしく思い出したのです。 |
当時小6だった娘が、ちょうど学校の授業で戦国時代を勉強し終えたこともあり、戦国の旅と銘打って岐阜へ行くことになりました。 お盆の期間中は全国的に雨模様という無情な天気予報の通り、大雨の中、東名高速を大水しぶきを上げながら西へと向かいました。 天下の金華山の頂上にそびえる信長の城・岐阜城もたいそうな雨で、垂れ込める雲に阻まれ、眼下に広がる絶景もついぞ見ることも叶わず、靴をぐしゃぐしゃにしながらロープウェイまでの道を行き来しなければなりませんでした。 楽しみにしていた長良川の鵜飼も、そんな中でも決行されたようでしたが、私たちはすでに見る気力もなく、大垣にとったホテルへ早々とチェックインし、その日はゆっくり休むことに。 翌日の朝、窓の外では山々の雲が晴れてくるのが見えました。 朝食を終えて早々にチェックアウトし、関ヶ原古戦場へと向かいます。 |
到着する頃にはパラパラと小雨になり、まずは 『関ヶ原歴史民俗資料館』 へ。 展示されている品々ももちろん貴重で見るに値するものですが、資料や検証などを読み進むうちに、武将たちの人となり、立場や情況など、自分自身また新たな見解を見出すことが出来て、感慨深いものがありました。 徳川家康の東軍、石田三成の西軍・どちらがどうという思い入れはありませんでしたが、それまで世間一般に云われる人物像しか持ち合わせてなかった石田三成に対しては、異なった思いや考えが生じてきたのが事実です。 この戦いに参戦してほしいと三成に懇願されたものの、情況を熟視すればこの戦いは勝ち目がないと懸命に三成を説得するもその諫言は聞き入れられず、そうとなれば腹を決めて友の為にと参戦を決意し、終には敵に首を取られる前に自害し、忠臣・湯浅五助にその首を落とさせたという、三成との友情に殉じた武将・大谷吉継の話は、返しては三成の人となりも表しているものです。 大谷吉継はらい病を患っていたといわれ、晩年は目も不自由になり、歩行も困難で、関ヶ原に参戦した時には表情も分からぬほどで白い布で顔を覆っていたといいます。 戦況ももはやこれまでと思われたとき、醜く変わり果てた自分の首を敵に晒されまいと、決して首を渡してはならぬと忠臣に言い残し、自害して果てたと伝えられています。 2人の友情が生まれた、ある茶会の時のエピソードは有名です。 病気の大谷吉継の口をつけた茶碗を、その後に続く武将たちは口をつける真似だけをしてやり過ごしたにも関わらず、三成だけは躊躇なくそれを飲み干したのだというのです。 その後2人は揺るぎのない友情で硬く結ばれたのだといいます。 徳川の世になった後、祐筆たちは“徳川の歴史”を書き残すことに従事しましたが、石田三成に関しては 「敗者・悪者 」の事柄以外を記すのは許されなかったといいます。語ることももちろんタブーでした。 しかし、徳川の異端児・水戸の徳川光圀だけは、「主君の為に終始変わらぬ忠誠を以って、命を賭して尽くしたあっぱれな忠臣の中の忠臣」 と、はばからず評価したそうです。 徳川家康が推し進めた大規模な江戸の都市構想は、実は三成のそれを元にしているのはあまり知られていないのかも知れません。 三成同様に秀吉子飼いの武将であり、秀吉の甥の関係でもあった小早川秀秋は当時まだ19歳の若い武将でした。 関ヶ原の時にはすでに家康と通じていたといい、東軍への寝返りも大谷吉継は予期していたといわれています。 大谷軍は3度、敵軍に寝返った小早川軍を押し返し奮闘しますが、小早川軍に続き脇坂、朽木、小川、赤座がつぎつぎと寝返り一斉に攻撃を仕掛けてきたため、壊滅してしまいます。 その後の小早川秀秋は、苦悩ゆえか精神を病み、合戦後2年ほどで21歳の若い命を終えます。 |
私たちが資料館を出ることには雨もすっかり止み、雲間からは太陽の暑い陽が降り注ぎ、この関ヶ原の小さい盆地を囲む山々から雲や霧が立ち上るさまがことのほか美しく、とても晴れやかの気持ちになりました。 古戦場跡は今は田畑が広がりとても静かで、牧歌的な風景の中にあります。 決戦地跡には幟(のぼり)が立ち、ポツリと田んぼの中にありました。 本当にここであの天下分け目の合戦が繰り広げられたとは、にわかに信じられないほどです。 関ヶ原には今は武将たちの陣地跡、家康が首実検したあとの首を葬った首塚などが残っています。 大谷吉継の墓のその脇には、忠臣・湯浅五助の墓があり、主従一緒に葬られています。この墓は大谷軍と激闘を交わした東軍・藤堂家が、敵の勇将・大谷吉継に敬意を表して建てたものだといわれています。国の史跡に指定されているこの墓には、今も人々が手向ける香花が絶えません。 |
関ヶ原には、そのほかにも 『常盤御前の墓』 、不破、愛発(あらち)、鈴鹿の日本三関で有名な 『不破関守跡』、鍾乳洞などもあります。 関ヶ原の合戦より以前、この地で天下分け目の戦いがありました。 『壬申の乱』 です。 “関の藤川”今の藤古川を挟んで、大海人皇子(後の天武天皇)の東軍、弘文天皇(大友皇子)の西軍が戦い、弘文天皇は長等山において自害し、その御首級は不破の行宮(大海人皇子の本営)に運ばれ首実検の後葬られたとされており、自害峰として現在伝えられているそうです。 壬申の乱の翌年、天武天皇はここに不破の関を置きました。 関の近くには 「黒血川」 という川が流れていて、壬申の乱で流された血で川が赤黒く染まったことから名付けられたといわれています。 |
実際に関ヶ原に行くまで、この地で壬申の乱の戦いがあったなどとはつゆ知らず、無知であったことに後悔したものです。 夏の雨上がり、暑さの中の関ヶ原古戦場…。 稲穂や緑の匂いがむせ返る、静寂の中にそれはありました。 |
尾張の名古屋城は金の鯱をもって健在。
大阪城も あります。
1週間前 東京高等裁判所に行った折 皇居のお堀をぐるっとまわる。石垣はところどころ立派に残っているのに。江戸城は再建されなかったんだね。
すっごく可愛かったので、思わず声を上げてしまいました
>くやしいから…
のくだりでも、噴出しちゃいましたよ
また、楽しい写真をUPしてくださいね♪
>皇居
私も皇居のお堀によく行きます。
といっても車でぐるぐるするんですけど。
隅櫓(すみやぐら)などは再建されていますが、中は公園として整備されているだけですね。
あの天守台には黒い漆喰の天守が立っていたそうですが、3代将軍の異母兄弟の保科正之公が火事で焼け落ちた天守の再建に、必要性がなく財政的にもムダであるとの賢明な考えでやめさせたそうです。
でも天守台だけでも是非再建してほしいな、なんて思います。
あの天守台の石垣のちょっとした隙間に手を入れてみると、涼しい風がスースー当たるのが分かりますよ!
(↑こんなことばっかりして…)
こういう深く濃い色の印象があるのが宝塚。(大阪?)
今日は楽しみにしています。
今日の産経新聞はこの番組と、大平さん特集なのですよ。うわー、すごーい。
が・・・やはり11時からは私は「引きこもり」予定なのです。
剛くんと歴史は強し。新聞評ではこの番組、明治以降がやはり弱い(薄い?)と書いてありました。
自社関係でも、ちゃんと評していて○かと思います。
しかも、私のBlogのブックマークのうちひとりは、私と同じ場所で生まれた人ですし(←サプライズ!)
宝塚も、タカラヅカも、見る分はええもんでっせ☆
どんべ様のブログでUPしていたこの花!
調べてみたら、こんな名前だったんですよ~
最初知ったとき、気取った芸人の名前かと思っちゃいました
>明治以降がやはり弱い
私の頃も、いつも幕末~近代史はサラっとだけで、“後は教科書読んどいて”だったな~。
“受験にもあまり出ないし”なんてことまで言って!
ただでさえ日本史が嫌いだったのに、ますます無知になりました。
だから日本史に興味が出た今も、これらの時代はチンプンカンプンで、苦労しています
大平さん特集、読んでみたかったです~
>11時から…
ははぁ、例のお時間ですねぇ旦那
もとい!どんべ様
ヅカボーイ(?)でしたかっ
私、中学3年の頃に宝塚大好きな姉に無理やり連れられて、行きましたよ宝塚に
おお、まだtake-and-hide-style様のお誕生の遥ーか昔のことですね(汗)
町全体が、というか駅を降りてからはタカラヅカ一色で、たいそうたまげたのを覚えてますよ~
泊まったホテルも女性専用で、みーんなヅカファン
食傷気味でした。
もちろん本場で観劇しました。
関西の観客さんのノリはダイナミックだなと、ビックリするやら感心するやらでした。
その後に行った六甲で、クタクタになった私がタクシーと間違えて(当時の神戸のタクシーに似ていたもので…)巡回中のパトカーに手を挙げてしまって、手を振り反してくれたお巡りさんたちが、とても印象深く心に残っています
私も、サンケイ新聞のころから産経新聞です(途中一時ブランクはあるが、計40年近く)。
全国紙なのにマイナー扱いされる新聞・・・
ここは産経仲間ということで今後ともよろしくお願いします!←なんのこっちゃ^^;
さて、なんと、宝塚においでになっていたとは!
> おお、まだtake-and-hide-style様のお誕生の遥ーか昔のことですね
おお、ということはまだタカラヅカがカヅラカタと書かれていたころの・・・じゃなかった、建てかえされる前の大劇場のころですね。
実は私も、2度、歌劇を見に行ったことがあり、
1度目は羚英さんと同じ旧劇場で、2度目は現在の大劇場でした。
今は宝塚駅も高架になってしまったし遊園地もなくなりましたが、線路が高架になる前は、電車(阪急今津線)の外は遊園地。手を伸ばせばおとぎの世界に届いてしまいそうなぐらいに迫ってて、風情があったのを思い出します。
横レスはりょうさまはいつもお許しくださるので、嬉しいデス。
そうですか、2950円の仲間でしたか。
(引っ越す前は東京新聞だったんですが。
夕刊要らなくなっちゃったのです)
宝塚は二十歳過ぎに一度だけ行きました。
まだ、旧大劇場の時で、ファミリーランドもあって。
でも・・・なんか「聖域」と思い入れませんでした。
池田文庫とか行きたかったなあ。
茶色い阪急電車に乗れたのがとても嬉しかったです。
りょうさま>
お花調べていただいてありがとうございました。
綺麗な色で、いいですよね。
夏に見るのと今見るのとでは、また風情が違うようで。
今、10時まで旦那にビデオを撮られてしまい、(ケーブルですが6時からですよ)女王と日本の歴史とガチャガチャやってます。
哀しいです。
昨日言った「毒」は、旦那の好物の梨です。
思い切り今朝、お腹が冷えたようです。
そんなにたくさん食べてないのに壊すのです。
ほっほっほ(怖いな)
でも、ビデオは録画していきました。
ちぇー!
息子に「お母さん、和美ちゃんと子どもの頃、見た感じ似てたでしょ」と言われて、ご機嫌です。
でも11時からは・・・面倒見なきゃ・・・。
> takeさん>(略しすぎ)
ええ、略しすぎですー_ー;
でもこのハンドルネーム、私の本名にもとづいてるので、
takeと呼ばれることに、実はあまり抵抗なかったり。
2,950円ですか?こっちは3,925円ですよ~。安すぎる!
・・・と思ったら東京の産経は朝刊だけでしたね^^;
全国の産経新聞のなかで唯一、関西だけは、夕刊があるのです。(へぇ)
これは、フジサンケイグループで夕刊だけを発行していた「大阪新聞」を、産経新聞社が吸収合併したためですわ。
どんべさんの話を聞くまで、関西以外の産経が夕刊を廃止したのを忘れてました>o<;
池田文庫って・・・またマニアックな。
もしかして、隣の逸翁美術館もご存知で?(←ローカルネタ)
私はくさなぎくんの歴史の番組ではなく、いつもどおりオールインを見る予定です^^
どんべ様
素敵な輪が広がっていくのは私もとても嬉しい事ですので、どうぞ横レスとお気にせずに、どんどん交流を深めてくださいね
宝塚…、今はずいぶんと様変わりしてしまったんですね。
そういわれると、食傷気味だったことも何だか懐かしく、物寂しく思われますね…。
昨夜はどんべ様が教えてくださったように、本当に明治以降が今までと同じ扱いでした~(泣)
読み上げて、スルスルスルとおしまい。
これじゃ二の舞じゃないか…(ToT)
でもまあ、こういう作りの番組だとは分かっていたのでそれなりに楽しみましたし、中には未知の話もいくつかありましたので勉強になりました。
秀吉の年収2000億円にはビックリ!
黄金の茶室…、造れる訳だわ