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集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」のショート版

寅さん映画の高梁、津山への旅

2022年04月21日 | 旅行

岡山に旅をした。「男はつらいよ」の車寅次郎は啖呵売の仕事で旅していたので、北海道から沖縄まで全国どの県にもロケ地がある。岡山県では高梁と津山である。
高梁は71年冬公開の第8作「寅次郎恋歌」(マドンナ貴子=池内淳子)と83年冬の第32作「口笛を吹く寅次郎」(朋子=竹下景子)、津山は95年の最終第48作「寅次郎紅の花」の舞台となった。
高梁は博(前田吟)の実家がある場所で、8作では母の死、32作では父の三回忌が行われ、博の兄弟家族が集合する。
高梁の駅は71年の木造駅の面影はまったくなく、2階から下りるようになっていた。観光案内所とレンタサイクル貸出所があるはずで、自転車は間違いなく地上なので1階で探したがわからず、2階に戻るとツタヤ経営のカフェ兼図書館の向かいのみやげものコーナーにあった。

まず駅裏の薬師院に向かう。入口に「男はつらいよ ロケ地」の石碑があるのですぐわかる。映画ではずいぶん高そうな石段だったが、段数を数えると途中の踊り場も含め64段でたいしたことはない。見下ろすと法事の酒で酔っ払い、手すりにつかまりフラフラ上る和尚(松村達雄)を追う和服姿の朋子(竹下景子)が「お父さん、だいじょうぶ? ありゃりゃ、やっぱり酔うとる、しょうがないなあ」と声をかけていたシーンが思い浮かぶ。上を見上げると境内から「寅さん、明日の法事のことで電話が」と声をかける朋子へ「はいはい」と上機嫌で石段を駆け上がる黄と緑の袈裟姿の寅さんが見えるようだ。寺そのものは、申し訳ないがそれほどの規模ではない。この山裾のあたりは寺町でいくつか寺が並ぶが、もっと大きな寺もありそうだ。墓の近くで集合写真を撮ったとき寅さんが「笑って」といい失敗に気づき、次は「泣いてー」と声をかけた巨福寺と寿覚院の境界も少し北にあった。
博の実家のある武家屋敷の岡村家と平時に備中松山藩藩主が居住した尾根小屋の跡地にある県立高梁高校をみて、紺屋川(こうやがわ)筋美観地区へ。まず観光物産館を訪ねる。高梁が舞台の8作、32作だけでなく50周年記念の50作(2019年末公開)のコーナーもあった。スタッフ以外にたまたま地元の方がおられ、ハンコ屋さんは映画のころはここにあったが、いまはここに転居したとか、昔はここに肉屋さんがあったなど、地元の事情を親切に解説していただいた。50年も昔の話なので当然町は変わっている。
しかしひろみ(杉田かおる)の実家、白神食料品店の店はあったし、店の前の石の相生橋はそのままだった。

方谷橋を渡り、ひろみが寅さんにグチをこぼす方谷(ほうこく)林公園を探したが、山の上り口が右か左か判断がつかない。建設工事の交通誘導をしていた係員に「もし、おわかりでしたら」と声をかけると教えてくれた。そう遠くはないところに在住の方だったのだろう。都会では考えられないことだ。
しかし「公園」というがかなり高いところまでいってもそれらしいところがみつからない。がんばって頂上にたどりついたが少し下に「岡山県原爆慰霊碑」しか見当たらない。どうやら中腹の「高梁三賢人詩碑」のあたりから高梁川と町を見下ろしたシーンのようだった。なお「方谷さんを大河ドラマに!」のポスターは街の各所に貼ってあった。キャンペーン展開中のようだ。
高梁でロケした2作の作中で「誰か故郷を想わざる(作詞:西條八十、作曲:古賀政男)が何度か歌われる。寅さんが「ペコペンポンポーン」と口ずさむと博の父、ひょう(風へんに火が3つ)一郎が「ちょっとその歌やめなさい」とたしなめた歌だ。そのあとリンドウの花が咲き誇る農家の茶の間の夕食の風景の「いい話」に移る。しかし32作ではいい気分になった和尚(松村達雄)までこの歌を歌っていた。高梁のテーマソングにしてもよさそうだ。また8作は、初代おいちゃん(森川信)が登場した最後の映画だった。
なお高梁には、たかはしフィルム・コミッションがあり、寅さん映画がいちばん古いほうで、その後「八つ墓村」(77年版、96年版)、「東方見聞録」(96)、「県庁の星(2005)、「バッテリー(06)、「釣りバカ日誌18(07)、「ルパンの奇厳城(10)、「アニメ:愛・天地無用!(14)などの映画のロケ地に選ばれた。

次に津山を訪れた。48作のロケ地といってもメイン・ロケはリリーが暮らす奄美大島で、津山はプロローグの美作滝尾の駅舎での「尋ね人」の新聞広告とタイトルバックの津山祭りを含めても10分程度しかない。しかし48作全体のストーリー上では、大きな意味をもつ。満男がダスティン・ホフマンになりきり、泉の結婚式をぶち壊すのだから重要なロケ地だ。
まず満男のレンタカーが新郎新婦の車を妨害する場所を探した。津山の城東地区には東西方向に3筋の通りがある。箕作阮甫旧宅・造り酒屋・旅館など伝統的建造物が並ぶ南の旧出雲往来、少し坂を上がった通り、そして妙津寺、津山祭りの大隅神社、蓮光寺、千年寺、大信寺などが並ぶいちばん山側(北側)の通りだ。観光客のほとんどは南の道を歩いている。満男の車が停車したのは真ん中の通りで、大信寺への参詣道との交差点付近ということになっている。車に立てこもった満男が外に出て「泉ちゃん、結婚なんかやめろ!」と叫んだのは、写真のあたりかと思われる。だがロケから25年もたち、建て替えた家も多いと思われる。入道坂から2度ほど往復してみたが、はっきりはわからない。ただ軽自動車でもすれ違えない一車線の狭い道路であることは変わらないはずだ。自転車と車でもどちらかが譲り、脇道によけないと無理だった。

美作滝尾の駅にも行きたかったが、片道10キロ以上あり時間的にムリそうだった。電車で往復とか片道はバス利用も考えたが、本数が少なすぎて難しい。あきらめて、代わりに泉の夫になるはずだった若い医師の実家に行くことにした。瓜生原という地名はわかっていたが、範囲が広く、自宅で距離を測ったときはいちばん近いところをみたのか片道2㎞くらいと思い込んでいた。しかし実際には目的地まで片道7㎞近くあった。集落のあるあたりを歩いてみたが、わからない。たまたま畑で農作業している方をみかけ、お聞きすると「あの白壁のお宅」と教えていただけた。たしかに立派な門のひときわ立派なお宅があった。屋敷の庭で記念写真を撮り、白無垢姿の泉が出てきた門だ。
戻ってから今度は城西地区を回った。江見写真館、作州民芸館(旧土居銀行津山支店)、城西浪漫館(旧中島病院本院)、津山高校旧本館(旧津山尋常中学旧本館)など洋風建築が多い。明治村に来たようだ。
商店街の出口のあたりでお茶屋の店の方に道を聞いたとき「西の毛利の侵入を恐れ、入口を寺町にし、寺の物蔭からズドンと鉄砲を撃てる街づくりにした。藩主・森家の菩提寺・本源寺は他の寺より少しはずれ奥まったところにつくった」と歴史的な町づくりの経緯まで解説していただけた。「東京から旅に」というと、その方も長く東京で働いた体験があるとのことで、少し話すと近い業界におられたことがわかり話が弾んだ。その他、津山観光センターのスタッフ、城東の作州城東屋敷のスタッフもともにていねいで親切だった。

備中高梁は伯備線、津山は津山線で行った。どちらも岡山駅が基点である。
渥美清つながりでもうひとつ、岡山が舞台の「拝啓天皇陛下様(野村芳太郎監督 松竹)という映画がある。1963年の映画なので、渥美がまだ35歳のときの映画だ。NHKの「夢であいましょう」「若い季節」で全国的に有名になって2年後の映画である。
岡山の歩兵第10連隊や中島遊郭が出てくる。連隊の跡地は岡山大学津島キャンパスとのことだったが、北に遠そうなので行っていない。中島遊郭跡地は通り過ぎたが、少しだけ残る古い木造家屋の2階の窓などに面影らしいものがみられただけで、いまは普通の住宅街だった。映画としては、渥美の1年後輩の新兵役・藤山寛美の演技がすばらしい。渥美はこの映画でもマドンナ・高千穂ひづるに振られる役だった。

また岡山市は、今年4月8日まで放送された朝ドラ「カムカムエヴリバディ」の第一部・岡山編の舞台である。里帰りしたときと最終週に孫のひなたと祖母・安子がダッシュしていた商店街に行ってみた。天満屋デパートから100mほど南へ行った栄町商店街からさらに100mほど先の紙屋町商店街、そして角を左折して西大寺町へと向かうルートだ。
ドラマを連想させることというと、わずか50-60mの範囲に大森楽器店、服部管楽器、長谷川楽器と楽器店が3店もあることだ。ジャズ喫茶はみつからなかったが、外観が似たような店はあった。ただしサンドイッチとピザの店だった。帰京してからネット検索したちばなのモデルのひとつ、翁軒もすぐ近くにあった。店の前を通過したはずなので惜しいことをしたと思った。
総合グラウンドにある偕行社へも行った。外観はドラマのままだったが、屋内のホールをみようとすると、喫茶しかなく、あれはテレビスタジオのセットだという話だった。なおグラウンドは旧陸軍の演習場だったということなので「拝啓天皇陛下様」で昭和天皇が白馬で閲兵した場所なのかもしれない。
そのあと安子と稔が自転車の練習をしていた後楽園近くの緑地にも行ってみた。相生橋を渡ったところから歩き始めた。河原に下り「水辺のももくん」を探した。対岸の中州にあると気づかず、かなり上流まで歩き渡橋をみつけるまで不安だった(といっても往復500mくらいでたいした距離ではないのだが)。
「たちばな」で思い出した。るいが京都の植物園近くで営んでいた店は「大月」だった。回転焼きが名物かどうかはわからないが、回転焼きも置いている和菓子店で「鼓月」というチェーン店がある。ただし読み方は「こづき」でなく「こげつ」である。それほど古い店ではなく、敗戦直後の1945年10月創業、53年1月に鼓月と店名改称。わたしは京都の北のほうの店だと思い込んでいたがネット検索して本店が中京区西ノ京、千本丸太町の南西500mくらいにあることを知った。

津山城のさくらまつり
岡山はどこも、桜満開から散り初めの旅だった。とくに津山ではたまたま「さくらまつり」開催中で津山城(鶴山公園)の夜桜はみごとだった。長年蓄積したライトアップ技術の集大成だったと思われる。また地元の方の話では、例年雨に降られることが多いそうだが、今年は快晴かつ温暖で人出も多かったそうだ。
今回は3つの街ともレンタサイクルで回った。メリットは時間的効率がよいこと、デメリットはバス旅行同様、目的スポットのみ少しだけつまみ食いしすぐ次のスポットへ移動という旅になりがちなことだ。今回は高梁が2時間半、津山が昼間は4時間半のみとそもそも時間的にムリがあるスケジュールで、そういう感が強かった。それから地方ではどこも同じだろうが、自動車交通が当たり前で、狭い道やカーブでも車が結構なスピードで走っていて引っかけられないか不安を感じること、そして歩行者が稀で道を聞く人をみつけにくいことだ。なお岡山市はレンタサイクルのシステムもしっかりしていて、かつ自転車で走りやすい道路になっており、助かった。
徒歩にしても自転車にしても、いちばん心に残るのは地元の方とのふれあいだ。これは時代も場所も違っても、学生時代の旅からずっと同じ感想だ。岡山はどの町でも、観光案内所スタッフはもちろん、店の人も、通行の中年女性、作業中の男性、女子高生などみな親切でホスピタリティにあふれていた。たとえば岡山駅西口で測量作業のようなことをしていた方に、この方なら詳しそうだと道を尋ねた。するとその人もこの場所に来るのは初めてでわたしと同じ立場の人ということがわかったが、親切にスマホで現在地を確認し教えていただいた。方向音痴のわたしなので、180度間違った方向に走っていたことが判明した。

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首都圏9音大選抜オケの「ブルックナー」コンサート

2022年04月01日 | 展覧会・コンサート

3月26日(土)午後、ミューザ川崎で「音楽大学フェスティバルオーケストラ」のコンサートを聴いた。
  

このオケは、上野学園、国立、昭和、洗足学園、東京音大、藝大、東邦、桐朋、武蔵野首都圏9音大選抜メンバーで構成されている。メンバー表をみるとたとえばヴァイオリンでは1st、2nd各14人で、9大学各2人で17人(東邦のみ1人)、そのほか、桐朋3、武蔵野3、上野、国立、東京、藝大、昭和各1人、コントラバスは8人だが上野学園を除く各1人と、大学間のバランスに配慮しているようだ。在籍者数でみると、東邦や上野学園のように1学年50人台から洗足学園の600人台、国立の300人台と規模がさまざまなので、なかなか大変だと思われる。演奏者だけでなく、実行委員が各大学から4-6人、ライブラリアンや舞台スタッフも各大学から参加している。 
ただ、演奏指導者5人と練習会場提供は今回は東京音大だった。おそらく回り持ちかと考えられる
指揮は下野竜也さん、桐朋学園やイタリアのキジアーナ音楽院で指揮を学び、28歳より大阪フィル・朝比奈隆のもとで研鑚を積み、31歳でブザンソン国際指揮者コンクール優勝、2017年から広島交響楽団音楽総監督、京都市立芸術大学音楽学部教授という経歴の方だ。わたしが生で聴くのは初めてだ。
曲目は三善晃「祝典序曲」、ブルックナーの交響曲4番「ロマンティック」ハース版の2曲。
三善晃「祝典序曲」はまったく知らない曲だった。1970年3月の大阪万博用につくられ、しかももともと野外演奏(万博のお祭り広場)のつもりで作曲された。
4分ほどの短い作品だが、トランペット6本、ホルン6本、打楽器8人と、かなり派手な曲だった。木琴とティンパニーが大活躍、ラチェットも出てきた。曲が終わってから気づいたが、ハープ、ピアノまで入っていた。
演奏後、下野マエストロの指名賞賛奏者のトップはティンパニーの女性だった。

1曲目と2曲目のあいだに、管・打楽器メンバーが全員入れ替わるため5分ほど間があり、その時間を利用して下野マイスターから解説があった。このコンサートは新型コロナパンデミックで2回中止になった。日本の音大なのに、戦後有名になった日本人作曲家の曲があまり演奏されないので、今回は三善晃の曲にすることにした。当初、交響四部作の最後、「焉歌・波摘み」をセレクトしたが、4曲演奏のプログラムで進めていたのにコロナのため2曲に絞り、かつ休憩なしへと変更になった。ある程度大規模編成ということで「祝典序曲」を演奏することにした。
この曲は三善晃先生が37歳のときの曲で、パリ帰りの先生だが、歌舞伎の音楽や相撲の柝の音(きのね)などジャポニズムのエッセンスも織り込まれている。
マーラーやR.シュトラウスのアルプス交響曲は取り上げられたが、ブルックナーは初めてだ。それどころか下野マエストロが学生に「初めてブルックナーを演奏した人」と、手を上げさせると半分以上のメンバーが手を上げた。団員数が大きいアマオケでもマーラーと並び、ときおり演奏されるので意外だった。
マイスターは「ブルックナーというと、朝比奈隆オイゲン・ヨッフムのようなおじいさん指揮者の曲というイメージがある」「わたしは今年53歳になるが、50代は指揮者としてはまだハナ垂れ」と謙遜し「しかし若い指揮者、若い演奏家のブルックナーの『旅』をするのもよいのではないか」と考えたという。指揮者本人直々にコメントを聴けるとは、得した思いがした。

さてブルックナーの1楽章、冒頭ホルンがとても安定したソロを吹いた。トランペットもうまい。チューバの響きもすばらしい。フルートも安定した演奏だった。
2楽章は、コントラバスのピチカートやダイナミックな演奏が印象に残った。木管の掛け合いや、ヴィオラの澄んだ音もよかった。わたしは1階の6列目、舞台に向かってやや左に座っていたので、ヴィオラの音が耳にまっすぐに飛び込んでくる。弦のハーモニーをつくるうえでこんな重要な役割を担っていることをはじめて体感した。
ホルンのソロにクラリネットやヴィオラがかぶさる部分も聴きごたえがあった。
3楽章のホルンとトランペットにもシビれた。
4楽章は弦のトレモロ、ティンパニーの連打、ヴィオラのさわやかな合奏、管のハーモニー、そしてホルンがこの楽章でも、やはりすばらしかった。
1時間以上の大曲だが、あきることなく、音楽に酔いしれた。
プログラムに「次代を担う若い音楽家のドリームチーム」と書かれていた。性格上、この2日間のために編成された「一期一会」の特別なチームだと思う。何度くらい全体合奏できたのかわからないが、管打分奏指導の水野信行さん(東京音楽大学教授)はじめ、分奏指導の5人の先生方の力が大きかったのかもしれない。
下野さんは、立っているとき周囲の弦楽器の女性たちと比べても小柄な方で、上半身がしっかりし下半身が細く小さかった。指揮台での立ち姿がとても「絵」になる方だった。端正な指揮だが、鋭いところはとても鋭く、統率力が優れている。いまでも有名人だが、今後10年、20年、ますます期待したくなる指揮者であると思った。
終演後、拍手が鳴りやまなかった。歓声は上げられないが、2階席で「Bravo」の横断幕を掲げ振っている人がいた。カーテンコールも何度あったかわからない。指名賞賛奏者1番は予想どおりホルンのトップの女性だった。
祝典序曲もブルックナーも女性、ヴァイオリンのトップ、コンサートミストレスも女性、というかどのパートも7-9割は女性メンバーだった。まあ、そういう時代なのだろう。
日本のオーケストラの今後は明るい、と感じるコンサートだった。

ミューザ川崎の通路
このフェスは1999年にスタート、一時中断を経て2009年再開、今回は第11回だった。会場のミューザ川崎は2004年7月オープン、約2000席のホールで、サントリーホールのように舞台を360度取り囲む客席になっている。3階や4階はともかく、下の座席の音響はとてもよかった。パイプオルガンも設置されている。通路の壁の高いところに加工した写真が何枚か展示されている。おそらく、かつての川崎の風景だと思われる。どこかに解説板がありそうなので、次回来たときに探してみよう。

☆帰りに、東口・京急川崎駅から5分ほどの「立飲み 天下」に立ち寄った。ミューザの帰りはこの店へという定番ルートができてしまった。
マスターがたいへん低姿勢 「ごめんなさい」が枕詞のようにつく。こちらも自然に穏やかな気持ちになる。立飲みだが、けんちん汁(310円)、しゅうまい(250円)といった料理もある。酒と白ワインを2杯のみ、いい気持ちになった。
客は男性ばかり5人くらい。テレビでは巨人―中日戦の中継中で、8回ちょうど巨人が大量5点を取り、逆転しているところだった。そのまま試合が終了すると、大相撲14日目に切り換えられた。  
わたしは浜田さんのブログで知ったみせだが、たしかにいい店だ。

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