彼は大田で事業をする父親の下で二人の姉と弟と共に成長した。
高等学校の時、父の事業が難しくなり家勢が傾いて、大学の授業料を稼ぐためにライブ カフェを転々として歌を歌った。
その時代から、彼はすでにスターだった。6年間のライブカフェ歌手として活動しながら受けたファンレターが7000通にのぼる。
彼の音楽性は、親に受け継いだ。彼の親は、歌の実力が水準級で、お姉さんたちも子供の頃童謡大会を総なめにした。
彼の親は、シン・スンフンを見に、孫を見に2週間ごとに、ソウルを訪問する。
彼に尋ねた。経験の限界から来るコンプレックスはないのか。
「間接的な経験をものすごくたくさんします。映画もたくさん見て、他の人の話もたくさん聞きます。映画は、ロマンスからホラー、独立した短編映画などジャンルを問わず様々なようです。
また、どのような場所でも、どんなにつまらない話でも最後まで聞いてください。
我慢して聞くならば得るものがあります」
シン・スンフンが、インタビューしながら一番多く使った言葉は、"真正性"だ。
「この頃とても忙しいが、私の"真正性"が、ファンに通じるようで全然大変ではない。光州ゲリラコンサートの時、他の歌手たちは通常、三、四曲歌うが、私が1時間20分のコンサートをしたのは、ファンが私の"真正性"を知っていてくれた事に対する感謝の気持ちだった」
「5集まで初恋の歌を歌うことができたのも、"真正性"から湧き出たものだった」と。このような話もした。「デビュー21年目の責任感は、真正性の別の名前だ」と。
デビュー以来ずっとトップを守ってきたシン・スンフン。彼には大きな宿題が残った。"大衆が好きな名曲"を書く事だ。
「人々は"見えない愛"が名曲だと云うけれど、一緒に付いて歌いにくければ、名曲ではないです。
大衆の感性にあまねくアピールしながらも、どの席でもふさわしく、易しく従って歌うことができる歌を作りたいです。
春夏秋冬の"bravo my life"のように」
シンスンフンは、墓碑銘も考えていた。 "歌を歌うことが出来た歌手、ここに埋められる。”彼は説明した。 「'歌が上手な歌手'でなく'歌を歌うことが出来た歌手'です。」
終わり
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