倭人語のすすめ

倭人の言葉が残されていた。古事記の神々の多くは、秘文とされた文書を基にしていた。一音一義の倭人語を解き明かしたいと思う。

邪馬壹国(18蘇奴国、19呼邑国、20華奴蘇奴国)

2024-10-14 08:36:14 | 邪馬壹国

18蘇奴國:サナ[爽成sa na]

 朝倉市が該当する。
 平塚川遺跡、一木遺跡がある。
 図17
 上古音では(sag nagサグ ナグ)、従来の読み方は「そな」
 [爽sa]何もない・神聖[成na]秩序整然
 遺跡の東側に佐田(さた)川が流れている。
 「サ」が一致する。サの奴国。
 神聖な奴国ということか。


20呼邑國:ゴエ[子重xou yai]

 福岡県朝倉市が該当する。
 古毛遺跡、下古毛遺跡遺跡がある。
 図18
 上古音では(hag ・Iəpハグ イアプ)、従来の読み方は「こお」
 [子xou]子ども[重yai]幾重にも
 福岡県朝倉市古毛(こも)は古くは古毛久重(こもひさしげ)村と称した。
 ユマ仮名の[子xou]は喉音でホともコとも聞こえる音。卑弥呼の呼と同じ。
 [重yai]は索引の発音では「エ」としているがイェとかイエイのような発音に近い。
 古毛の毛に対応する音が抜けているかも知れない。補うとしたらモ[萌mou]だろう。物質増殖の意味がある。
 [子萌重xou mou yai]で、子が増え幾久しくという意味になるだろう。
 [xou mou]に当て字で古毛、[yai]の意味から、久しく重ねる、久重としたのではないか。


20華奴蘇奴國:ワナサナ[渡成爽成wa na sa na]

 福岡県久留米市のうち筑後川の北側が該当する。
 良積遺跡がある。
 図19

 上古音では(ɦuag nag sag nagフアグ ナグ サグ ナグ)、従来の読み方は「かなそな」。
 [渡wa]行き渡る[成na]秩序整然 [爽sa]何もない・神聖[成na]秩序整然
 良積遺跡は縄文時代の終わりから鎌倉までの墓地がある。遺跡の中心は弥生時代前期から古墳時代前期の遺構で、甕棺墓があり環濠集落だった。
 佐田川の西側に17對蘇国、18蘇奴国、20華奴蘇奴国がある。「蘇」がつく国が固まっている。
 これらの国は一体的にサ[爽sa]の地と呼ばれていたのではないか。意味は何もない土地。それが転じて神聖な土地になったかも知れない。開拓が進むにつれ、それぞれの国になったように思う。
 ワ[渡wa]には水平の広がりの最大形の意味もあり、広い平地であったのかもしれない。
 佐田川の上流に18蘇奴国があり、下流に20華奴蘇奴国がある。
 蘇奴国が2回使われていて関係が無いはずがない。


邪馬壹国(21鬼国22爲吾国23鬼奴国24邪馬国)

2024-10-14 08:35:49 | 邪馬壹国

21鬼國:キ[貴kiu ]

 久留米市、うきは市が該当する。
 水分遺跡、秋成・亀王遺跡、塚堂遺跡などがある。
 図20

 上古音は(kIu?r キウア)、従来の読み方は「き」。
 [貴kiu ]目に見えない変化
 「景行天皇」の記事における「的邑(いくはのむら)」の解説
 皇軍がある場所で食事をした際、膳夫(料理人)が盞(うき、杯)を忘れてしまった。そこでこの盞(うき)を忘れた場所を浮羽(うきは)といい、訛って的邑(いくはのむら)という。後に生葉郡(いくはぐん)と改められた。
 「うきは」が訛って的邑(いくはのむら)になったというのだ。
 その後、的邑(いくはのむら)→?生葉(いくは)郡?→?浮羽(うきは)郡?→?うきは市 と変遷してきた。「き」にこだわっているのは確かだろう。
 実は鬼国は理由付けが大変困った。
 該当する地名が見つからない。
 当初「うきは」は新しく、古くは「いくは」といった記事をみつけた。「うきは」が先だったらよかったのにと思った。そこに、この伝説を発見した。「いくは」の前は「うきは」だったというのだ。うきはの「き」の同一性から、鬼国と特定する。


 もう一つ見つけて置いた地名がある。亀王(かめお)村。亀の王様とは一体何だ。意味がよくわからない。朝鮮から来た一族のキョ(橋)さんをキオと呼びならわし、亀王と漢字を当てはめたのではないか。そして、後にカメオと読むようになったのだろうという物語を作った。亀王天満宮が久留米市田主丸町秋成にあり、亀王村の地名は消えてしまったが、その地域を代表する名前であったのだろうと思う。




22爲吾國:イネ[囲根wi nai]

 久留米市が該当する。
 南薫本村遺跡、市ノ上遺跡、安国時甕棺墓群などがある。
 図21


 上古音は( ?iuar ?agヒワー ナーグ)、従来の読み方は「いご」
 [囲wi]局部[根nai]秩序変換
 これら遺跡の北側に御井郡御井町がある。かつてこの地域にあった井戸の呼び名である「御井戸」が「御井」に変化したと言われている。
 この井戸のイがユマ仮名のイ[囲wi]に対応するすのではないか。
 [囲wi]の意味を全部書き出すと、局部・局部の現象・囲まれる。
 井戸という意味にとってもよさそうである。
 井戸によって秩序変換することはありうると思う。ユマ仮名のネ[根nai]の意味も生きて来る。水利が改善したら大幅に収穫が増えるだろうから。
 筑後川からの高低差により取水は難しいかったのかも知れない。この地域の河川を見てみると、か細い河川や、直角に曲がる河川つまり人工的な河川が多い。すぐ北側は2から3キロくらいで高良山になる。水利が悪いから井戸を掘ったのかも知れない。その為、地名になるほどのありがたいものであったに違いない。
 以上の事をふまえて、ここが爲吾国と推定する。


23鬼奴國:キナ[貴成kiu na]

 久留米市の西側が該当する。
 久保遺跡、高三潴遺跡、道蔵遺跡などがある。
 図22

 上古音は( 上古音:キウア ナグ kIu?r nag)、従来の読み方は「きな」
 [貴kiu]目に見えない変化[成na]秩序整然
 三潴(みずま・みづま)地域は、3?4世紀には有明海の海岸線が現在よりもっと近く、洪水を繰り返していた。筑後川から溢れた水が、たくさんの沼を作った湿地帯だったことから、「水の沼」と書いて「みぬま」と呼ばれていた。これがなまって鎌倉時代頃から「みずま」と呼ばれるようになった。
 海が近いとどうなるか。霧が頻繁に発生する。倭人語で霧はキリ[貴座kiu ri]。[貴ki](目に見えない変化、その動詞)[座ri](完了形。動作が終わった)、夜明けが近付くと目の前が次第に見えないもので包まれて行く。これが現在でも使われている霧だ。
 霧の奴国でキの奴国、鬼奴国と推定する。



24邪馬國:ヤマ[因゛増yau mau]

 福岡県みやま市(瀬高町)を中心に柳川市・筑後市・大川市・大牟田市など沢山の弥生遺跡が存在する。
 図23

 上古音は(?iag magニヤグ マーグ)、※従来の読み方は「やま」。
 [因゛yau]いよいよ、更に[増mau]増加する
 [因゛増]は熟語で、山の意味となる。
 この地域は、遺跡の分布状況から、海が入り込んでいて島状だったと思われる。
 ヤマ国はヤマト国が省略されたものだと思う。本来はヤマト[因゛増保yau mau to]だろう。ト[保to]とは蓄える意味だが、戸締りの戸の意味もある。
 山の戸、山門。邪馬壹国成立以前から、ここはヤマトと呼ばれていたと思う。
 魏志倭人伝には「南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月」とある。海周りで有明海から来ると10日、築紫平野を歩いて来たら1カ月の所。築紫平野の南端、大牟田市あたりが境界となるだろう。「女王の都する所」とは女王に属するすべての所という意味だ。「都」には全部という意味がある。この場合は都市とか、女王国を意味するのではないと思う。
 「其南有狗奴國(省略)不屬女王」その南は狗奴国で女王に属していない。邪馬壹国の女王の統制には従っていない。南にあるのは熊本だ。
 残りの国は別の所を探さなければならない。


 ここで、ちょっと話は脱線するが、福岡平野築紫平野の地図を見ていると、やたらと牟田とか古賀という地名が出て来る。どうしてだろう。漢字の意味としては良くわからない。
 ユマ仮名を当てはめてみた。
 ム[醸mu]増殖が進む。発展する。生物の繁茂、繁殖。
 タ[垂ta]溢れ出る。田んぼ、たわわ、たくさん、垂れる、足す・・・のタ
 牟田とは新田、新田開発のことだと思う。
 コ[凝kou コゥ]塊。形成する。固まる。
 カ[狩xa クァ]獲得する。刈り取る。
 xaは喉音であり、喉から音をだすと、カという綺麗な音ではなく、クァとかガに近い音となるのだろう。それで「賀」が当てられたのではないか。
 古賀とは、穀物(米)を刈り取って集積した場所のことを言うのではないか。米は保存がきく。雨風に対応した座、動物に食べられないように管理する必要がある。
 これで、各地にやたらと牟田や古賀があることに納得できた。

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邪馬壹国(25躬臣国26巴利国27支惟国28烏奴国29奴国30狗奴国)

2024-10-14 08:35:14 | 邪馬壹国

25躬臣國:ギゲ[刻食xi xai ]

 大分県日田市の日田盆地が該当する。
 小迫辻原遺跡、吹上遺跡などがある。
 図24


 上古音では(kIoŋ ghienキオング ギエン)、従来の読み方では「くし」
 [刻xiクィ]形を整える、刻む[食xaiクェ]食事、食べ物
 花月川(かげつがわ)は筑後川水系の支流で、大分県日田市を流れる1級河川である。小迫辻原遺跡、吹上遺跡の南側に花月川がある。
 [xai]は喉音なのでクェよりも濁って「ゲ」に近い音となるのではないだろうか。
 「クィゲ」を漢字に当てはめて、花月。
 発音の類似性により躬臣国と推定する。


26巴利國:パリ[晴゜座pa ri]

 福岡県筑紫野市が該当する。
 峯畑遺跡、道場山遺跡、隈・西小田地区遺跡群がある。
 図25


 上古音は(pag lIedパグ リアド)、※従来の読み方は「はり」
 [晴゜pa]大自然の意志と力[晴゜座pa ri]現在形・~している。
 筑紫野市針摺に針摺(はりすり)遺跡というのがある。
 針摺遺跡は弥生時代の遺跡とはされていないが、旧石器時代のナイフが出てきいる。つまり、弥生時代以前から存在していて、弥生時代に地名として残っていておかしくないし、また、現代まで地名が残っている。
 名称の同一性により、巴利国と推定する。
 [晴゜座]は大自然の意志と力が存在しているところ、という意味だろう。


27支惟國:キグ[岐哈ki xu]

 福岡県大野城市、太宰府市が該当する。
 上大利遺跡がある。
 図26


 上古音は( kieg diuərキエグ ディウア)、従来の読みは「きい」
 [岐哈ki xu]際立つ[岐哈ki xu]くっつく・食う。
 福岡平野から築紫平野に抜けるには、山が迫って狭くなったここを通るしかない。交通の要所であったと思う。
 [岐哈ki xu]際立ってくっついている所の意味と考えた。
 [哈 xu]は喉音であり、クともフとも聞こえる音。ギュとも聞こえるかもしれない。ギュッと狭まっているという意味だったかも知れない。
 


28烏奴国:アナ[会成au na ]

 福岡市早良区、西区が該当する。
 有田遺跡群、吉武高木遺跡、野方遺跡などがある。
 図27


 上古音は(ag nagアーグ ナグ)、従来の読み方は「うな」
 [会au]出会う[成na]秩序整然
 有田のアから、アの奴国、烏奴国と推定する。
 アリタの倭人語の地名はアタ[会垂au ta]ではないかと予想している。意味は、「辺り」とか「当たり」。
 これらの遺跡は大規模である。倭人伝の遠絶の地を紹介している中に入っているが、遠絶の地という意味ではなく、書き洩らしていた国だから最後の方に記載したに過ぎないと思う。倭人伝では伊都国から奴国への過程が書かれているが、わざわざその途中の烏奴国の名を中継地として記載する必要が無かったのだ、と思う。
 


29奴国:ナ[成na]

 福岡県福岡市、春日市が該当する。
 博多遺跡群、板付遺跡、須久岡本遺跡などがある。
 図28


 上古音は(nag ナグ)、従来の読み方は「な」、[成na]の意味は秩序整然。
 現在の博多駅周辺は島だったかも知れない。
 伊都国烏奴国奴国不彌国の弥生時代の遺跡をマッピングすると、海がかなり入り込んでいたように思う。
 6奴国で説明した通り、博多席田地区(福岡空港など)の区域が女王国だと思う。そしてその女王国は29奴国にも含まれると思う。女王という漢字は倭人語ではない。中国語だ。國の名前に倭人語が使われていないのは女王国だけだ。女王国とは女王の居る地域の意味だと思う。倭人伝では國という字を使っているが、それぞれの国に官、副官がいる。役人、知事のようなものだろう。倭国大乱の頃には各国に王がいたかも知れないが、卑弥呼の時代にはいなかったのではないだろうか。
 私は曽て邪馬壹国は連合王国だと思っていたが、今はそう思っていない。各国は邪馬壹国の女王に属する構成国(藩、地域、都道府県のようなもの)だと思っている。
 博多は倭人語ではパカタル[晴゜威垂活pa ka ta ru]、威風辺りを払うという意味。生命エネルギー、活気が溢れて、周りに影響を与えている、ということだろう。



30狗奴國:クナ[奇成ku na]

 熊本県が該当する。
 黒髪町遺跡がある。
 図29


  上古音は(kug nagクグ ナグ)、従来の読み方は「くな」
 黒髪遺跡は熊本大学構内にある。飽託(ほうたく)郡黒髪村の「黒髪」の由来は立田山の旧称である黒髪山から名付けられた。さらに黒髪山の「クロカミ」は、クラオカミの神という龍神の名が由来でる。口伝えされている内に徐々に訛り、クラオカミ山、クロカミ山 へと変化した。「黒髪」の表記は後世になって発音に合わせた当て字である。
 クの奴国、狗奴国。意味は奇しき奴国となるだろうか。
 熊本は古事記では熊襲(くまそ)とヤマトタケルの征伐の対象となった。
 ユマ仮名で熊襲はクマソ[奇増虚ku mau so]となるだろう。
 [奇ku]不思議なる変化[増mau][虚so]何もない
 「増」仲間の倭人を象徴する音と考えられるので、倭人(天族の仲間)がいない不思議な国の意味だと思う。
 倭人伝には「其南有狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗不屬女王」と書かれていて、狗奴國は女王に属していないとなっている。
 私は狗奴国は女王の統制下にはないが、邪馬壹国の構成国には入っていると思う。たとえ反乱軍だったとしても領土としては邪馬壹国のものだと主張するだろう。現代でも、日本の統制下に無い北方領土も日本の領土に入っていると主張している。台湾は中国のものだと中国は主張している。

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邪馬壹国のその後

2024-10-01 15:22:08 | 邪馬壹国

 邪馬壹(壱)と邪馬臺(台)と邪馬台について思っていることを書きたいと思う。
 邪馬壹(壱)と記載されているのは魏志倭人伝のみ。魏誌より先に書かれた「後漢書」を始め、魏志以後の歴史書は邪馬臺(台)と記載されている。
 中国語の時代ごとの発音を比べてみよう。
壹(壱):上古音 ・iet(ィェッ)
     中古音 iĕt(イェッ)
     現代音 i(イ)
臺(台):上古音 də(ダー)
     中古音 dɒi(ドイ)
     現代音 tái(タイ)


 上古音は周代・漢代、中古音は南北朝(439~589)後期から隋・唐・五代・宋初だという。よって、卑弥呼の時代は上古音になる。
 邪馬臺(台)はヤマダーと発音していたことになる。
 時代によって読み方を変えていたとしたら、ヤマドイ、ヤマタイと読んでいたことになる。今、邪馬台国と書いてヤマタイコクと読むのは現代音で読んでることになる。
 外国である中国が、ヤマダとかヤマドイとかヤマタイと読むのは構わない。発音の構造も違い自国では発音しやすいように発音するのが普通だろう。翻訳ソフトで今の発音を聞くと、「シーマータイコー」と発音しているようだ。
 日本の研究者がヤマタイと読んだのはおそらく壹(壱)の現代音がイなので、魏志倭人伝の邪馬壹(壱)はヤマイとしか読めなかったのではないだろうか。それでは、全くヤマトにつながらない。そこで、壹(壱)の字は間違えて書いたものだとして、他の文献では臺(台)が使われているので邪馬臺(台)をヤマタイと読めば、まだヤマトにつながる発音になると考えたのではないだろうか。さらに壹(壱)と臺(台)の違いを指摘されないように台の字を使って邪馬台国としてヤマタイコクと読むようにしたのではないか。
 私はヤマタイコクと読むのは構わないと思う。時代によってはやりの読み方があるから。壹(壱)與を台与と変えるのも同一性により良いと思う。ところが台与の読み方をトヨまたは壱与としてイヨと読むのは同一性、統一性に欠けて、変だと思う。邪馬台国をヤマタイコクと読むなら台与はタイヨと読むべきだ。
 私は、魏志倭人伝では倭人語の収集に重きを置いていると思う。各国の名、人名など倭人語の発音を沢山の漢字を当てて記載している。その一貫として、後漢書に書かれている邪馬臺(台)を変更して邪馬壹(壱)と書いているのは臺(台)də(ダー)よりも壹(壱)・iet(ィェッ)の方が発音として近いと感じたからではないだろうか。
 現代音ではt音が抜けているが、上古音の(壱)・iet(ィェッ)にはt音がある。ヤマトの発音につながるt音がある。
 邪馬壹(壱)はヤマィェッ、もうちょっと日本語っぽく読めばヤマイット。It is a penをカタカナで書けばイット イズ ア ペンなので妥当だと思う。日本語は全て開口音の母音で終わるので子音だけのtに対するカタカナは無い。ッで代用しているが、実際はツもtuだから子音を表しているとは言えない。日本語で書くならヤマイットでいいのではないか。壹(壱)與はイットヨ。そしてヤマイットはヤマトになり、イットヨはトヨにつながるのだ、としたら同一性、統一性があり納得できるのではないかと思う。


 池田秀穂の「日本曙史話」及び「弥生の言葉と思想が伝承された家」に基づき、自分なりにまとめてみた。
 倭人天族は五島列島を本拠として活動していた。そして、そこをヤマイト[因゛増親充yau mou iu tou]と呼んでいた。山の仲間という意味だ。
 彼等は海上物流に乗り出し、力をつけていった。博多や任那に拠点を作り、朝鮮の洛東江などの農民を日本各地に移民させて、米作りを進めていった。
 博多を中心に開拓が進むと、中国に朝貢し「漢委奴国王印」を貰った。何のために外交に乗り出したのか、それは、米作りの移民を円滑にするためだったに違いない。勝手に外国人を連れて来たら戦争になってしまうだろう。
 北九州を中心に始めた米作りを日本各地にも広めていった。
 米作りが盛んになった北九州では収量も増え、人口も増えていった。人が増えると争いが起こる。北九州で倭国大乱が始まった。水利争いだということだ。
 争いが続いては商売あがったりの天族としては、大乱を収める必要があった。最先端の彼等は軍事力を行使して、大乱を収めた。30地域ほどある邪馬壹国を作り、女王をたてた。
 邪馬壹国とは彼等のふるさとヤマイトと同じだ。おそらく魏の使いはイトの間に若干の間を見出し、ヤマイットと聞き取ったのではないだろうか。
 彼等は邪馬壹国を成立に大いにかかわったが、邪馬壹国ではない。魏志倭人伝に大倭として記載されている組織だ。(自分達で大倭と称しているわけでは無いが、ここでは大倭としてく。)
 倭人伝には次のように記されている。


國國有市交易有無使大倭監之。自女王國以北特置一大率檢察諸國畏憚之常治伊都國於國中有如刺史。王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國皆臨津搜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯
国々には市場があって、人々は物資を交換している。大倭にこれを監督させている。
女王国の北には、特に「一大率」を設置し、諸国を検察させ、国々は畏れ憚っている。常に伊都国に置かれており、中国の「刺史」のようである。
王が使節を、洛陽や帯方郡または諸韓国に派遣する場合や、帯方郡の使節が来た場合は、それらの使節は港で文書や賜物をあらため、女王への錯綜が起らないようにする。


 この文章を読むと、大倭が経済、軍事、警察、外交に大きくかかわっていることが分かる。
 国家の経済・警察・外交を担っているとしたら、ほとんどの国の機能を大倭が握っていることになるのではないか。女王卑弥呼は巫女であり神のお告げを聞いて争い事を納める裁判官のような立場だということだ。
 しかし、大倭は国ではない。現代で考えればアマゾンのようなものか。経済力で他を圧倒するが、国ではなく、各国と商売している。拠点はあるが領土・領民はない。社員はいる。
 中国と外交を行うには国と国でなければならないのだろう。
 私は、その外交の際に、大倭はきっと古墳作りのノウハウを得たに違いないと想像している。なぜなら、魏との外交以後すぐに弥生時代から古墳時代に移行しているから。
 高層ビルを作るのと同じで、誰もが高層ビルを作れるわけではない。そのノウハウが必要だ。大倭が古墳作りのノウハウを得て、日本の古墳作りを請け負って莫大な利益を上げていったのだろう。
 
 時代は進み、大倭のマネをして、大倭の利益を脅かすものが出てきた。三輪国だ。
 三輪国は大倭から武器や鉄器を買って、高い利ザヤで他に転売し、儲けていった。古墳作りもできるようになって、更に、利益を増やしていった。
 大倭にとって、最初はいいお客さんだったの三輪国は、自分たちの利益を横取りする、自分達の商圏を脅かす存在になり始めた。
 三輪国の商圏を得るべく、大倭は決意した。始めは交渉だったが最後は圧倒的な軍事力で征服した。そして、三輪国の王位を譲ってもらう形をとった。
 これが古事記の国譲りのモデル、天つ神と国つ神のモデルである。
 崇神の東征は、神武の前半生として書かれ、崇神については後半生のみが古事記には書かれている。


 王位を譲られた崇神は、それまでの三輪の王を先祖として祀った。例えば、M&Aで社長交代したようなものだ。縁もゆかりもない人が第○代の社長となったようなもの。
 但し、崇神は初代だけは変更した。自分達大倭の創始者をである神武を初代にした。古事記の神武以後の欠史八代などは三輪の王のことだろう。
 国ではなく、総合物流商事とでもいうべき大倭は、二つの国となった。西の国(天のおおきみ)、東の国(国のおおきみ)。


 西の国は九州で朝鮮・外交を担当していたが、白村江の戦いに敗れ朝鮮の権益を失い、存在価値がなくなった。西の国は、東の国に統一された。


 弓前値成は文字が無い倭人に口伝で伝えられて来た倭人天族の哲学と言うべきものを、漢字と漢字を基にした特殊文字を使って文字に書き起こした。また、それについての後継者が知るべきこと、秘文とすること書いた。これが弓前文書の神文と委細心得である。秘文とされた弓前文書は平成になり池田秀穂が公開した。
 委細心得には日本国成立の秘話が書かれている。その中に自分たちは元「山人島々在」、山人の島々に居た。と書かれている。ふるさとであるヤマイトを山人と表記している。このころにはヤマトと言っていたのだろう。


 古事記の編纂に当たり、西の国は無かったことにされた。東西の国は、万世一系の天皇の国となった。

 後に大倭の字を変えて大和にして、ヤマトと読むようになった。ふるさとの地名を使い続けているのだ。