倭人語のすすめ

倭人の言葉が残されていた。古事記の神々の多くは、秘文とされた文書を基にしていた。一音一義の倭人語を解き明かしたいと思う。

弓前文書(委細心得)4/5

2024-12-17 09:42:26 | 弓前文書(委細心得)

【不比等御雷珠都招。茲鹿島司分霊奉都上。】
 藤原不比等はピカの珠を都に祀ることにした。この知らせを受けた香取神宮のユマニは鹿島神宮の代理を引き受けている神官にピカの分霊を奉じて都に上るように命令した。


※不比等(659~720)は天智天皇から中臣鎌足(614~669)の子。鎌足は、乙巳の変(645)、大化の改新の中心人物、臨終に際し、藤原姓をもらった。
※黒田―常磐―可多能古―御食子―鎌足―不比等、この系統が代々のナカツミになるのだろう。
※コヤネからナカツミはピカの珠を祀れと言われている。都に上って国の大君に仕え、中臣となり藤原と名は変わってもナカツミであることに違いはない。鹿島神宮を不在にしていたが、ようやくピカの珠を祀る準備が出来たのだろう。
※奈良・平城京に遷都された和銅3年(710年)、藤原不比等が藤原氏の氏神である鹿島神(武甕槌命)を春日の御蓋山(三笠山)に遷して祀り、春日神と称したのとする説があるが、この記事の裏付けとなるだろう。


【弓和今尾比凝時詔。弓和布土珠奉上。尾比凝中身称鹿島宮、人麻呂弓和為分霊奉都上。藤原姓賜今和位春日山麓御雷布土珠共鎮。】
(春日大社の創建)
 ユマニが今尾比凝(イマ オヒコ)のとき、ユマニはプツの珠を持って都に来なさいと、天皇の命令があった。
 香取神宮のユマニの今尾比凝は自分自身で都に行くのを避けるため自らナカツミと称して鹿島神宮に身を移した。自分の代りに今人麻呂をユマニにしてプツの分霊を奉じて都へ行かせた。
 今人麻呂は藤原の姓を授かり、ユマニとして春日山の麓の社にピカの珠とともにプツの珠を祀った。


※「弓前(ゆま)」を「今(いま)」という姓に変えたのは、770年に失脚した日本三悪人の一人とされる弓削道鏡と弓前の名が被るのを嫌っためだろう。
※ナカツミは弓前値成のころから都で仕えている。つまり鹿島にナカツミは不在。値成が香取に加え鹿島も面倒をみた。その後、ナカツミの藤原不比等は鹿島のピカの珠を都に持ってこさせた。今度は、香取のプツの珠を都に持ってきたうえ、ユマニも都でプツの珠を祀れと言うのだ。つまり、ナカツミもユマニも都に居てピカとプツの珠を祀ることになる。結果として、鹿島にナカツミ無く、香取にユマニがいない状態となる。その為、尾比凝は鹿島香取を守るため、ユマニの身分を人麻呂に譲り上京させ、香取のユマニであった自分が香取に居るわけにはゆかないので、自らナカツミであると称して鹿島に移ったのだろう。
※春日大社では、神護景雲2年(768年)に藤原永手(不比等の孫)が鹿島の武甕槌命、香取の経津主命と、枚岡(ひらおか)神社に祀られていた天児屋根命・比売神を併せ、御蓋山の麓の四殿の社殿を造営したのをもって春日大社のはじまりとしている。


【自是国表藤原大臣応答質至現。之御祖教順成。】
 都へ来てからは、表に立つナカツミである藤原の大臣のブレーンとなって今に至る。、これは大先祖コヤネの教えに従っている。


※この一文は藤原内実が書き加えたもの。これ以降は内実が書いたもの。大君(天皇)のブレーンでなくても実質トップのブレーンだから、形は変わっても、これは大先祖コヤネの教えに従っていることになるのだと、内実が子孫のために見栄を切ったのだろう。

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