こんにちは、師匠も走る月、師走の到来です。
この時期になると弊社も繁忙期に突入です。
夏場は麦茶など冷たい飲料が親しまれていますが、
寒い季節はやはり緑茶ですよね・・・・今まで茶人に纏わるお話をさせて頂きましたが
今回は最後の方に茶人が登場します。
いま一度、思考を変えてブログ記事を綴ってみました。
家族の団欒で、是非、ネタにして頂けると幸いです。
先ずは「お茶の歴史」についてです。
お茶は遣唐使の時代。永忠(えいちゅう)という僧侶が中国からお茶を持ち帰り、嵯峨天皇に献上したという説が残されています。
当時のお茶は非常に貴重な飲み物だったため、僧侶や貴族などごく一部の身分の人たちだけが口にすることができたと記されています。
さらに、お茶を栽培することはできないかと考え、延暦寺のある比叡山のふもとに栽培していたという記録もあります。
しかし、一部の人しか飲めなかったり、遣唐史も廃止されたりしたことにより栽培は長くは続かなかったようで、お茶の栽培の発展はもっと先になりました。
鎌倉時代になると「抹茶法」が成立、臨済宗の開祖である栄西は、修業先であった宋(中国)からお茶の種子を持ち帰ります。
そして、現代のお茶の点て方に通じていると言われている「抹茶法」を記した著書『喫茶養生記』を1211年に発表します。
『喫茶養生記』にはお茶の種類や効能などが書かれており、日本でお茶を飲む習慣が根付くようになりました。
その後、栄西から「抹茶法」を引き継いだ明恵上人が、京都の栂尾(とがのお)にある高山寺や宇治でお茶の栽培を始めました。ここが日本最古のお茶の栽培地と言われています。
京都・宇治がお茶の名産地になった室町時代〜南北朝時代
室町時代、3代目将軍の足利義満によって、宇治にある茶園が特別な待遇を受けることになりました。
これがきっかけとなり、京都の宇治はお茶の名産地として発展してきたと言います。
宇治から始まったお茶の産地は伊賀や伊勢などへじわじわと広がっていき、同時に喫茶の文化も馴染んでいきました。
この時代は武士が好んでお茶を飲んでおり、喫茶は武士のブームでした。
安土桃山時代になると千利休が登場します。
千利休は豪華さを削り、静かな部屋でしっぽりとお茶を飲んで楽しむ「侘茶(わび茶)」を大成させました。
これは、日本の伝統として今も受け継がれています。
千利休は織田信長や豊臣秀吉にも仕えながらお茶の良さを広め、豊臣秀吉主催の北野大茶会の茶頭役なども務めました。弟子も育てながらお茶の発展に力を注いだとされています。
なんと現在のお茶は緑色ですが、昔は茶色だったようです。
現在のお茶は緑色が定番となっていますが、その製法が誕生したのが
江戸時代の事なんです。ご存じでしたか?
江戸時代に宇治の農民で茶業家であった永谷宗円が、15年の歳月をかけて、茶色から緑色の色が出せる製茶法(宇治製法)を確立させました。
この技術は今現在も受け継がれています。
この製茶法がきっかけとなり日本全国でお茶文化が親しまれるようになりました。
これまでは茶葉を煎じた茶色いお茶が市民に親しまれていましたが、製茶法で作られた緑茶は、香りも味もグッと引き出され非常に人気がありました。
江戸時代後期には、江戸の茶商・山本嘉兵衛によって、今までのお茶からより高級感のある玉露が誕生。
これも徐々に日本中に広まっていくことになりました。
急須の登場で家庭でもお茶が楽しめるようになった大正〜昭和時代~平成~令和となっています。
日に日に寒さが厳しくなりますが、温かいお茶でお体を温めつつ元気に年末年始をお迎えください。
また次回、お会いしましょう・・・
菱和園 山田仁子
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