ここの高瀬川を渡る橋が三条小橋。
見ると、佐久間象山と大村益次郎が襲撃されて遭難した地という碑があった。
一本の石柱に並んで書かれている暗殺事件は、別物なのである。
佐久間象山は、幕末の洋学者、砲術指南など新しい技術の研鑽に努め、開国論者だった。
折から、攘夷論が沸騰していて、元治元年、遂に攘夷論者の襲撃を受けてこの地で落命したのである。
一方の大村益次郎は、佐久間事件の5年後の明治維新直後、廃刀令を決めるなど、近代兵制の確立に努めた。
このことが、封建士族の反感をうけて狙撃され、これがもとで敗血症により死亡したのであった。これは明治2年だった。
(東京の靖国神社には、大村益次郎の銅像が、拝殿正面に、高い台座のうえに建てられている。)
この高瀬川の川筋は、幕末、維新のころ、とかく不穏の事件がうずまく一帯だったのだ。
三条小橋に近く、今も幾松という料理旅館があるが、ここには、桂小五郎が潜伏したという話がある。
長州藩の志士、桂小五郎は、幕末の一時期、長州藩が朝廷からも幕府からも疎まれ、身を隠さなければならぬ羽目になった。
そこで、ここで芸者の幾松に匿われていたというのである。
小五郎は、池田屋で倒幕の志士たちが新撰組の襲撃を受けたとき、辛うじて脱出し、幾松に助けられ、ここかしこと逃げ回った。
鴨川べりの乞食小屋にひそんでいたこともあったらしい。
池田屋は、今もこの近くの木屋町筋かどこかにあるはずである。
彼は、維新の新政府の主要閣僚となり、木戸孝允と改名、幾松は妻、木戸松子になったとのことである。
今、高瀬川は、水深浅いせせらぎとなって、京の風情のアクセントになっている。
左側には、オープンエアのカフェレストランみたいなお店らしいのがあって、時候が良ければここで憩ってみたいなと思う。
森鴎外の小説に高瀬舟というのがあり、この流れを上り、下る舟にて護送される罪人にまつわる物語というが、これは私は読んでいない。
とにかく、高瀬川というの、幾重にも曰く因縁の多い川なのでありました。
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