しゃくしな漬け好きよん!

しゃくし菜漬は秩父地方の伝統的な漬物です。でもやっぱりタコが好き!
ほんで、タコ焼き作りまんねん♪

子猫を拾いました

2013-03-18 23:50:59 | 日記
子猫を拾いました


近所で鳴いていた子猫です。生後一ヶ月くらいの元気な女の子?。
新しく里親も見つかり、引き取られていきました。よかったよかった。
とのことです!ヨカッタ~(^_^)

沢村忠の真実

2013-03-18 23:40:34 | 日記
沢村忠の真実


沢村 忠(さわむら ただし、男性、1943年(昭和18年)1月5日 - )は、日本の元キックボクサー。剛柔流空手道参段。満州出身。本名は白羽 秀樹(しらは ひでき)。娘はタレントの白羽玲子。半生を描いた漫画やアニメの『キックの鬼』の影響により、世間からは「キックの鬼」と呼ばれていた。

幼少より祖父から剛柔流空手道を習う。法政大学第一高等学校(現:法政大学高等学校)を経て、日本大学芸術学部映画科を卒業。大学在学中には全日本学生選手権で優勝し、60戦無敗であった。野口修はその実力を評価し、キックボクシングに勧誘した。

1966年(昭和41年)4月に日本キックボクシング協会が旗揚げされ、リングネームを“沢村忠”として参戦。大阪府立体育会館で行われたデビュー戦は“空手vs.ムエタイ”と銘打たれた試合で、ラークレイ・シーハーマンを2RKO勝利した。6月にはリキパレスで、ムエタイのルンピニーフェザー級8位のサマンソー・アディソンと対戦したが、16度のダウン(19の報道もあり)を奪われ25ヶ所以上の打撲を負い、4RKO負けを喫した。

しかし、この敗北を機に特訓を積み、当時、YKKアワー キックボクシング中継の実況をしていた石川顕が命名した真空飛び膝蹴りや飛び前蹴りを武器にKOを重ね、活躍。1973年には三冠を達成した読売ジャイアンツの王貞治を抑え、日本プロスポーツ大賞を獲得した。1976年(昭和51年)7月2日に最終試合を行い、翌年の10月10日に引退式を行った。最終成績は、241戦232勝(228KO)5敗4分(一説には500戦以上戦歴があるともされている)であった。

梅宮辰夫と結婚・スピード離婚した銀座「姫」のホステス・大門節子と婚約はしたものの結婚はしなかったようである。現在は、自動車の修理販売業を営むかたわら、子供達に空手を教えている。パチンコ台販売会社・セイブシステムリンクの常務取締役でもある。

「快傑ハリマオの歌 ・アラフラの真珠編」

2013-03-18 23:27:07 | 日記
「快傑ハリマオの歌 ・アラフラの真珠編」


『快傑ハリマオ』(かいけつハリマオ)は、1960年4月5日 - 1961年6月27日まで日本テレビ系ほかで放送されていた日本のテレビ映画である。

抑圧される東南アジア(第4部を除く)の人々を解放すべく、正義の使者ハリマオが活躍する。森下仁丹の一社提供番組で、夕食を終えた一家が仁丹を飲んで快傑ハリマオを楽しむというカウキャッチャーCMが放送されていた。

制作は宣弘社で5部構成の全65話。太平洋戦争直前前後にマレー半島で日本軍に協力したマレーの虎と言われた谷豊をモデルに山田克郎の『魔の城』を原作として制作された。第2部以降のオープニングに「ハリマオとは? マレー語で 虎のことである」というテロップが表示された。

第1話 - 5話のみ試験的にカラーで制作された、日本初のカラーテレビ映画でもある(ただし、当時カラー受像機自体が市販される以前で、カラーで見た視聴者がいたかどうかは不明)。また、カンボジアのアンコールワットでロケを行い日本のテレビ史上初の海外ロケとなった。だが、現地の人に誤解され軍に拘束されかけたのを、偶然に日本語を話す人がいて事なきをえたという。

タイトルの「快傑」は怪傑からの造語で、後に『快傑ライオン丸』『快傑ズバット』などにも用いられた。


放送当時、石森章太郎(後の石ノ森章太郎)がコミカライズ版を『週刊少年マガジン』の1960年4月17日号から連載した。

原作はテレビと同じく山田克郎と表記されていたが、連載からしばらくは、手塚治虫が鉛筆で下書きをして構成を行い、名前を出さない形で漫画版の事実上の原作を担当していた。手塚は『週刊少年サンデー』の小学館から専属契約の申し出を受けていたため、『少年マガジン』からの連載依頼を断ったものの、漫画を描かない形でならと原作で協力することになったのだという。石森の起用も手塚による推挙によるものであった。

1971年に虫プロ商事の虫コミックスで単行本化される際に原稿が紛失していたため、『少年マガジン』の掲載分からトレスして原稿を作り直す作業が必要となった。このときに石森プロの関係などで細井雄二、すがやみつる、菅野誠、土山よしきがトレスを行なった。その後、彼らは多忙な石森に代わり『仮面ライダー』など石森原作のテレビ作品の漫画化やキャラクター商品の絵描きを担当することになる。



Bob Dylan - One Too Many Mornings (Rolling Thunder Tour)

2013-03-18 23:10:36 | 日記
Bob Dylan - One Too Many Mornings (Rolling Thunder Tour)


ボブ・ディラン
(Bob Dylan、1941年5月24日 - )は、アメリカのミュージシャン。
出生名はロバート・アレン・ジマーマン(Robert Allen Zimmerman)
だが後に自ら法律上の本名もボブ・ディランに改名している。

「風に吹かれて」、「時代は変る」、「ミスター・タンブリン・マン」、
「ライク・ア・ローリング・ストーン」、「見張塔からずっと」、
「天国への扉」他多数の楽曲により、
1962年のレコードデビュー以来半世紀にわたり多大なる影響を人々に与えてきた。
現在でも、「ネヴァー・エンディング・ツアー」
と呼ばれる年間100公演ほどのライブ活動を中心にして活躍している。

グラミー賞やアカデミー賞をはじめ数々を受賞し、ロックの殿堂入りも果たしている。
また長年の活動により、2012年に大統領自由勲章を受章している。
そのほか詩人としてノーベル文学賞の候補者に名前が上がっているほか、
2008年には「卓越した詩の力による作詞がポピュラー・ミュージックとアメリカ文化に大きな影響与えた」
としてピューリッツァー賞特別賞を受賞した。

「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第7位。

Pat Metheny & Charlie Haden - Burghausen (2003)

2013-03-18 18:33:38 | 日記
Pat Metheny & Charlie Haden - Burghausen (2003)


パット・メセニー(Pat Metheny、1954年8月12日 - )はアメリカ人ジャズギタリストでパット・メセニー・グループのリーダーである。ミズーリ州リーズサミット出身。兄にジャズトランペッターのマイク・メセニーがいる。

使用機材
アイバニーズ・パット・メセニーモデル 幾多の試作品の製作を経て実現したシグネイチャーモデル。パットのプレイスタイルに合わせ、フルアコースティックボディでありながらダブルカッタウェイを採用する等、ユニークな仕様となっている。当初はハムバッカーがフロントのみの一種類だけであったが、後にボディが若干薄い2ピックアップのタイプが追加されている。なお、彼はアイバニーズにミニサイズのギターをオーダーし、ピッコロギターとしてレコーディングで使用している。 ギブソンES-175 長年にわたり活躍してきた、パット・メセニーのトレードマークとも言えるギターである。ベトナム戦争に出征したまま帰らなかった兵士の愛器を譲り受けたというギター。本来フロント・ピックアップのみの仕様のはずだが、リアにハムバッカーを装着した痕跡がある(現在はガムテープで穴が塞がれている)。ボディ向かって右のFホールの右側にもポットを装着した跡が2カ所あり、同様に右のカッタウェイ部分にもピックアップ・セレクタ跡とおぼしき穴がある(これは木材で埋められている)。ボディサイドにも割れた跡があるが、ガムテープで補修している。 ヘッドストック部も本来は無いはずのセルバインディングがあるなど、通常のES-175とはかなり異なる個体である。ボディエンドのストラップ・ピンが欠落している為、テイルピースに靴磨きブラシのようなものを介してストラップが結びつけられている。これはたまたまステージに出る直前に破損してしまった為に、応急処置として楽屋にたまたま手元にあった歯ブラシを使って強引に括り付けたもので、以後そのままにしている事から、彼のトレードマークとなっていた。現在は殆どステージでは使用していないが、レコーディングでは今もなお使用している。 ブリッジは本来の仕様であるローズウッドから、60年代前半のチューン・O・マチックに変更されている。トラスロッド・カバーも本来のものではなく「CUSTOM」と書かれた別機種のものが装着されている。 ブリッジ付近にギターシンセサイザー用MIDIピックアップが装着されていることも多い。 ローランドG303 ローランドのギターシンセサイザー。3本所有。ボディにシンクラヴィアのギターシンセサイザー・コントローラーをボディを組み込んだ個体、トレモロユニットを装着され、ネックも換装された個体など、いずれも大幅な改造を受けている。彼はこの音色を大変気に入っており、今でも見つけ次第すぐに手に入れているという。 サドウスキー・エレクトリック・ガット サドウスキー製のソリッド・エレクトリック・ガットギター。テレキャスター型ボディにメイプルネック、ローズウッド指板、22フレット。「シークレット・ストーリー」ツアーなどで使用。 リンダ・マンザー作アコースティック・ギター カナダのビルダー、リンダ・マンザーが製作したスティール弦アコースティック・ギター。パットは複数台所有しているが、オーソドックスな「ザ・マンザー」モデルは「モア・トラヴェルズ」などでライル・メイズとデュオ演奏をした際に使用された。4本のネックを持つ(6弦×1、12弦×3)「ピカソ・ギター」なる特注品も存在しており、パット本人曰く、この個体1本で「As Falls Wichita, So Falls Wichita Falls」を演奏出来るのだという。この他にもバリトンギターやシタールギター等、数種類のギターをオーダーしている。 オヴェイション・1763クラシック 70年代後半から80年代前半の個体。 コーラル・エレクトリック・シタール 「ラスト・トレイン・ホーム」のメロディを弾くには不可欠。ピックアップが交換される改造が施されている。この曲を開発者であるダンエレクトロ社のヴィンセント・ベルに聞かせたところ、この曲を絶賛し、パットに試作品のエレクトリック・シタールをプレゼントしたという。

数年前、青山のブルーノートで初めて彼に会いました。パットメセニーグループ。すべてが素晴らしくて最高の思い出です。

吉井和哉 - LOVE & PEACE (Full Ver.)

2013-03-18 14:46:21 | 日記
吉井和哉 - LOVE & PEACE (Full Ver.)


LOVE & PEACE
吉井和哉

作曲?Kazuya Yoshii
作詞?Kazuya Yoshii

歌詞

プリーズ もうこれ以上 悪い出来事が
君と僕とに起きないように
年を重ね 時代が変わっても
ハートのドクロは元気でいる

悲しい未来だけ ただ想像していた
それはそれで悪くはない
でも「愛」とかっていうのはもっと重たい
僕はどっかそう信じてるんだ

途絶えることのない 新しい命
殺しあっても無駄なことさ

願い叶ってもまだ満たされないのは
「生きてる」って証なんだろう
でも「争い」っていうのは終わることはない
僕はずっとそう教わった

冬の兵士のような恐怖心 灼熱の亡骸みたいな恋
さくらの血の塊みたいな
涙拭くほど深くなる まるで秋晴れの空の色みたいに


悲しい思い出の夢で目を覚ました
それはとても怖いことだけど
日曜日の朝が来て歯を磨いたら
ここはまだ平和な場所だ

おはよう おはよう

LOVE&PEACE

KITTEN MEETS HEDGEHOG

2013-03-18 12:58:15 | 日記
KITTEN MEETS HEDGEHOG


床にポツンと丸まったトゲトゲに、これ何かニャ? と慎重に近づく子ネコ。

トゲトゲ、実はハリネズミなのです。怖がりながらも、少し距離が近くなった2匹。

これからもっと仲良しになれるといいね。

So Much In Love - Tatsuro Yamashita

2013-03-18 11:45:43 | 日記
So Much In Love - Tatsuro Yamashita


「SO MUCH IN LOVE」は、アカペラ・アルバム『ON THE STREET CORNER 2』収録曲。オリジナルは1963年にフィラデルフィア出身の黒人ヴォーカル・インストゥルメンタル・グループ、タイムス(The Tymes)の全米No.1ヒットで、グループのトランペット奏者ジョージ・ウイリアムス(George Williams)がロイ・ストレイジス(Roy Straigis)と共作したもの。アカペラへのリアレンジが容易な曲なので、アカペラだけでも相当数のカヴァーが存在する。山下の場合も、ステージのアンコール前などにコーラスのメンバーと一緒に歌ったりしていたが、1982年に発売されたティモシー・B・シュミット(Timothy B. Schmit)のレコード解説に何故か“山下達郎もびっくりの一人多重コーラス”と書かれていたのに触発されて、一人アカペラとして作品化を思い立ったのだという。CMタイアップにあわせて本作に収録されたが、“New Vocal Remix”としてヴォーカルの再録音および、リミックスが行われている。

山下達郎ー「いつか」

2013-03-18 11:36:18 | 日記
山下達郎ー「いつか」



いつか(SOMEDAY) (5:47) Words by 吉田美奈子, Music by 山下達郎 ©1980 SMILE PUBLISHERS INC. 練習スタジオで毎日のようにリズム・パターンを考えている中で、演奏メンバー各人にとっての必然的なフレーズが無理なく組み合わさってできた、お気に入りの一曲だという。

RIDE ON TIME(ライド・オン・タイム)は1980年9月19日に発売された山下達郎通算5作目のスタジオ・アルバム。

アルバム『MOONGLOW』のレコーディング中の1979年夏、山下はオルガン・プレイヤー、ドン・ルイスの来日公演に参加した吉田美奈子から、同じく参加メンバーだった当時まだ22歳のドラマー青山純を紹介された。青山は、佐藤博のグループ“ハイタイムス”で共にメンバーだったベーシスト伊藤広規と、山下のバンドメンバー・オーディションを兼ねたセッションに参加することになった。

青山によれば“とにかくじゃあまずこの曲をやってみよう”と山下から渡された譜面には「ついておいで」とタイトルが書かれていたという。青山は“この曲ならちょっとは知っているし、好きなドラム・パターンだし”と思いその曲に始まりその後、数曲のセッションを終えてもう終わりかと思う頃、山下はその後も次々と譜面を出してきたが、それでも伊藤と共に演奏できない曲はほとんど無かったので助かったという。そんな中、曲名は忘れたというが6/8拍子のおよそロックしかやっていないドラマーだと叩けないようなバラード曲の譜面を出してきた。後に青山は“きっと若造だった我々にはおそらく無かったであろう渋さを試してみようと、達郎氏も期待はそんなにしていなかっただろうと思っていた”というが、当時からその手の音楽が好きだったがゆえ、演奏経験の乏しさは否めないが二人とも何の抵抗も無く、青山は“気持ちいいなぁ”と思いながら演奏を終えた。その直後、山下からかなり怖い顔つきで“ねぇ君、青山君だっけ? あのさぁ、歳いくつなんだっけ?”との問いに“22歳ですけど、何か? まずいッスかねぇ?”と返すと、“何で今やったような曲のドラムも叩けんのよ、おかしいよ、その歳で!”と言われたという。

雑多なパターンの曲を演奏したいという作家志向の強い山下は、それまでは多くのミュージシャンと演奏して来て、曲調に合わせてメンバーを使い分けてきた。スタジオではそれで十分でもライブ・ステージとなるとメンバーの選定によっては演奏できない曲調がどうしても出てしまったが、その点でどんなスタイルも自身の満足するグレードで演奏できるはじめてのコンビだった。彼らとの出会いによって、ライブでの演奏レパートリィが飛躍的に増え、シュガー・ベイブ以来、自身の思い描いていたライブの理想パターンが始めて現実化する見込みが出てきた。

結局その日のオーディションのようなセッションが一回行われた後、次回からはステージで演奏するためのリハーサルに突入した。彼等は1979年の暮れからライブの正式メンバーとなり、さらに年が明けてからはレコーディングのメンバーにもなっていった。こうして青山 • 伊藤の二人が、『GO AHEAD!』からのメンバーである難波弘之と椎名和夫に合流し、ようやくレコーディングとライブを共通の固定メンバーで行えるようになった。練習スタジオでパターンを練り上げ、スタジオに持って行ってレコーディングを行うという作業もメンバーが固定したこの頃から始まり、様々なリズム・パターンを実践的に試みて曲作りに反映させる方法は、家で一人で考えるそれまでのやり方からは思いつかない多くのアイデアを生み出した。

同じ頃、『MOONGLOW』のロング・セラーに気を良くしていたディレクター小杉理宇造はいよいよ勝負に出る時だと、山下自身がテレビ・コマーシャルに出るという企画のタイ・アップを取ってきた。CM作曲家としてはすでにある程度のキャリアがあった山下にとって、小杉が持ってきたそのプロジェクトのコピーライター • 演出家 • 広告代理店のプロデューサーたちいずれともずっと以前から面識があり、そこをうまく突かれてオファーを承諾してしまった。そこから生まれたシングル「RIDE ON TIME」は、山下にとって初のヒット曲となった。

シングル・ヒットを受けて制作が開始されたアルバムは、音楽的な路線は前作『MOONGLOW』の延長であるものの、一番の違いは制作予算だったとし、ヒットが出たことで売り上げが見込め、スタジオ代を気にせずに違うテイクやアレンジがトライできることが長年の夢で、それがこのときようやく実現できたという。それによってこの時期、数年前とは見違えるように曲が作れるようになったのだともしている。その反面、 「RIDE ON TIME」のヒット後に芸能メディアの酷悪さを垣間見たことから、その反動でこのアルバムは浮き足立ったりせず玄人受けする内容にするのだという意思が強く働いたという。その結果、出来上がった作品に対して当時近しい関係者からさえも“地味だ”などとずいぶん言われたが、今となればこの制作方針で正解だったとつくづく感じるという。山下のミュージシャン人生にとっての幸運は、もっとも大きな音楽的・商業的な転換時期に上り調子のミュージシャンとの出会いと彼らとの最良のコミュニケーションの中でレコーディングとライブを構築できたことだと思えるとしている。

初回盤LPは特殊オビ仕様。また、本アルバムのリマスター盤には2003年2月下旬から3月末まで鈴木英人書き下ろしイラストによる、期間限定スペシャル・パッケージで発売された。

山下達郎 / Dancer

2013-03-18 11:30:31 | 日記
山下達郎 / Dancer


SPACY(スペイシー)は1977年6月25日に発売された山下達郎通算2作目のスタジオ・アルバム。

『CIRCUS TOWN』のニューヨーク録音終了後、チャーリー・カレロは自らの書いたスコアを山下に譲り渡した(職業としてアレンジを行う者にとって、このような行為は他人に自らのノウハウを明かしてしまうことに等しいため、通常は有り得ない)。そのスコアから、ニューヨーク・シーンの最先端のアレンジメントを徹底的に学習した山下は、そのアレンジ手法と、当時の日本で集められる最高水準のミュージシャンとを組み合わせることで、自らの理想とする音楽の制作に挑戦した。

山下の作風は、当時の商業音楽の主流とかけ離れた(あるいは、当時の主流からは進み過ぎていた)ものであったため、このアルバムの制作にあたっては経費や時間への厳しい制限を克服しなければならなかった。ジャケットは、山下の個人的依頼に応じてペーター佐藤がカラーコピー機とアクリルブロックで製作したイラストを使用しているし、録音においても、B面収録曲の多くがほとんど山下一人の手によって演奏されているところに、その影がうかがえる。しかしながら、そのような状況下で制作されたからこそ、その虚飾のないサウンド(「夜に忍び込む曲」と評される[1])は、70年代の山下の音楽が最も率直なかたちで具現化されたものとして、現在に至るまで高く評価されている。古くからのファンの中には、このアルバムをベストとする人も多く、山下本人も自分でよく聞き返すアルバムの一つだと語っている。

前述の経費・時間不足のため、B面の曲のいくつかは、自らの演奏するピアノ・シンセに多重録音のコーラスを重ねたかたちで録音されているが、これが後に山下の真骨頂とされる「一人多重録音」という制作形式の先駆けになった。

タイトルは現在の米俗語では「現実味のない、ぼーっとした」というような意味を持つが、山下は自らの造語としてつけたと語っている。

DANCER 山下が、村上の16ビートのドラムを活かすことを企図して書いた曲。歌詞は、都立竹早高校在学時に北朝鮮に帰国したブラスバンドの先輩を思って書いたという。村上による独特な16ビートのパターンに、山下のアレンジによるストリングスとFender Rhodesが奏でるクロースな和音が乗ることで、奇妙な閉塞感に包まれたサウンドが構築されている。

大村憲司 『春がいっぱい♪』 (好音質)

2013-03-18 11:25:41 | 日記
大村憲司 『春がいっぱい♪』 (好音質)


セッションギタリストとても有名な大村憲司さん。
「お酒と寿命をどっちを取るのか」と悪魔に聞かれ、
お酒を取ってしまった大村さん。
そして、しし座流星群の極大の日に星になってしまった大村さん。

大村さんのギターサウンドは決して忘れない。。。



ファンタジア - 土岐麻子

2013-03-18 11:12:22 | 日記
ファンタジア - 土岐麻子



土岐麻子

ファンタジア
作詞:土岐麻子
作曲:川口大輔

無口に流れる
まどろんだ街
ラジオからララバイ
にじむ街路樹

吹き消せばほのお
ほのかに残す
不機嫌そうな面影
不思議さ
どうして
こころ
離れない

きみに恋をした
影は光になる
凍えた街は
極彩の塗り絵に変わる
夜明けのファンタジア

きみに恋をした
星座は雪に変わる
いますべての哀しみ達
静かに 昨日へ帰る

行き場をなくした
言葉の意味も
目覚めをなくした
眠りの森も

封じ込める魔法
ホッチキスのよう
振り向いたその面影
不思議さ
どうして
こころ
離れない

きみに恋をした
クラクション歌に変わる
虫達さえも
オニキスの黒に輝く
夜明けのファンタジア

きみに恋をした
僕は少しくるう
いま目に映るなにもかも
生まれたばかりの世界

ファンタジア…

きみに恋をした
影が光になる
凍えた街は
極彩の揺れる塗り絵と変わる
鮮やかに

きみに恋をした
星座が雪に変わる
いますべての哀しみ達
静かに 昨日へ帰る

そしていま
きみに恋をした
僕は優しくなる
いま目に映るなにもかも
甘く淡い夜明けの
ファンタジアさ







paris match 「DESERT MOON」

2013-03-18 11:07:03 | 日記
paris match 「DESERT MOON」


paris match

DESERT MOON
作詞:Tai Furusawa・Mari Mizuno
作曲:Yosuke Sugiyama

ひどくよれた時代を洗礼う
子供達の歌声が問う

未完成の地図の中 静かにひとり漂い
宝石のような強がりを 流す湖を探していた

冷めたモノトーンに差し込む光の泡から
いつか生まれてくるリズム 私の奥 響いても
どこか優しい雨は何時降る?

眠れず踊る月光に 高ぶる鼓動が答えた
濡れることない砂漠に 枯れてた涙こぼれた

遭逢た 変わる意味を信じて祈りつづけている
冷めたモノトーンに浮かぶ 光の泡が溶けても
夜風優しく 明日を慕う

Downtown Spokane Street Musician Bryson Andres

2013-03-18 02:05:12 | 日記
Downtown Spokane Street Musician Bryson Andres


アラスカ州アンカレッジを中心に活動するミュージシャン、
Bryson Andresの路上でのパフォーマンス映像です。
エレクトリックバイオリンとループペダルを効果的に使い、
楽曲に厚みを持たせつつ、多彩な演奏を披露します。
言葉だけではこの魅力を表現し難しいのですが...、
とりあえず出だしだけでも聴いてみてください。