しゃくしな漬け好きよん!

しゃくし菜漬は秩父地方の伝統的な漬物です。でもやっぱりタコが好き!
ほんで、タコ焼き作りまんねん♪

Jeff Beck live at Ronnie Scott's - Full show

2013-03-26 12:35:04 | 日記
Jeff Beck live at Ronnie Scott's - Full show


ジェフリー・アーノルド“ジェフ”ベック(Geoffery Arnold "Jeff" Beck, 1944年6月24日 - )は、 イギリス、サリー、ウォリントン出身のギタリスト。

1944年、ロンドン南方のウォリントンで中流家庭に生まれる。一家は両親と姉の四人暮らしであった。(姉のエセルとは双子の姉弟)ジェフは地元の私立小学校に入学。この頃から母親によるピアノのレッスンを受ける[1]。12歳になるとジュニア・アート・スクールに通い始める。ロックン・ロール、ロカビリーに興味を持ったベックは、友人から弦が三本しか張られていないガット・ギターを手に入れる。それに満足できなくなると、ベニヤ板を使い黄色いペンキを塗ったギターを作り上げた。ギターにのめり込むベックの姿を見て、母親は25ポンドのグヤトーンを買い与えた。

16歳になるとウィンブルドン・カレッジ・オブ・アートに入学する。ベックは学友達と最初のバンド、ナイト・シフトを結成し、地元のクラブへの出演を果たすようになる。1962年、エプソム・アート・スクールに通っていた姉から、同校に在籍していたジミー・ペイジのことを知らされ、意気投合する。まもなくベックはアート・スクールを退学、ナイト・シフトを解散し新たなバンド、トライデンツを結成する。トライデンツで活動する傍ら、セッション・ギタリストとして様々なセッションにも参加している。トライデンツでの音源はアルバム『ベッコロジー(Beckology)』に三曲が収録されている。

1965年、スタジオ・ミュージシャンとしてセッションワークで多忙だったペイジに紹介される形で、エリック・クラプトン脱退直後のヤードバーズに参加する。ヤードバーズは1966年、ベースのポール・サミュエル・スミスが脱退、その後任としてペイジがベーシストとして加入。やがてベースをクリス・ドレヤと交代したペイジは、ベックと二人でリード・ギターを担当、ヤードバーズはツイン・リード編成で活動、シングル「Happenings Ten Years Time Ago / Psycho Daises」が発表した。この時期にバンドはミケランジェロ・アントニオーニ監督の『欲望』に出演、この映画でベックはギターを破壊している。さまざまな活動やツアーを行いながらも次第にメンバー間の確執が表面化し、ついにはアメリカ・ツアー時にベックはステージを放棄し、12月中旬に健康上の問題を理由に脱退することとなる。

ジェフ・ベック・グループ


ウドーミュージックフェスティバル、2006年7月22日
ヤードバーズ脱退後、ベックはミッキー・モストとプロデュース契約を結び、ソロ・シングル「Hi Ho Silver Lining / Beck's Bolero」を発表する。この「Hi Ho Silver Lining」は大ヒットし、NME誌のチャートで17位を記録する。

その後ベックは自身の新たなバンドを結成する。このバンドは一般には「ジェフ・ベック・グループ」と呼ばれている。ボーカルにはショットガン・エクスプレスに所属していたロッド・スチュアート、ベーシストがロン・ウッド、ピアニストがニッキー・ホプキンス、ドラマーがエインズレイ・ダンバーであった。バンドはこのラインアップでシングル「Tallyman / Rock My Plimsoul」を発表するが、ほどなくエインズレイが脱退、代わってミック・ウォーラー(Micky Waller)が加入し、アルバム『トゥルース』を録音する。その後、メンバーの確執が表面化、1969年になってロン・ウッドとミッキー・ウォーラーが脱退。代ってドラムスがトニー・ニューマン(Tony Newman)に、ベースがダグラス・ブレイクに交代したが、ダグラス・ブレイクは短期間で解雇され、ロン・ウッドが再び加入した[1]。セカンド・アルバム『ベック・オラ』の発表と前後してニッキー・ホプキンスが脱退。さらにロン・ウッドがフェイセズに加入するため脱退。ロッド・スチュワートも最終的にロン・ウッドと共にフェイセズに加入する。

その頃ベックは、ヴァニラ・ファッジのティム・ボガート、カーマイン・アピスと接近、彼らにロッド・スチュワートをボーカリストとして加え、新たなバンドを結成する予定であったが、直前の1969年11月2日にカスタム・メイドのT型フォードを運転中ロンドン南30マイルのメイドストーンで交通事故を起こし重傷を負い、三ヶ月の入院を余儀なくされる。この出来事により、新バンドの構想は白紙となってしまう。

怪我が完治したベックは新たなメンバーを集め、再び自身のリーダーバンドを結成する。このバンドは日本では「第二期ジェフ・ベック・グループ」とも呼ばれている。このグループはベースにクライヴ・チェイマン、キーボードにマックス・ミドルトン、ドラマーにコージー・パウエル、ボーカルにボブ・テンチというメンバーであった。このバンドはジャズやモータウンといったブラック・ミュージックからの影響を大きく受けており、それまでのブルース路線とは異なるものだった。

1971年に『ラフ・アンド・レディ』、翌年『ジェフ・ベック・グループ』を発表し、その活動も好調に行われたものの、ベックは再びカクタスで活動していたティム・ボガートおよびカーマイン・アピスと接触。8月のアメリカ・ツアーで突如メンバーを変更して、第二期ジェフ・ベック・グループは空中分解してしまう。

バンドに残ったボガートとアピスに加えボーカリストとしてポール・ロジャース招聘を図るもこれは失敗し、結局ベック・ボガート・アンド・アピスとして活動することとなる。ベック・ボガート・アンド・アピスは二枚のアルバムを残し、1974年にはベックとボガートの対立から自然消滅する。

なお、1974年4月のパリ公演後にディープ・パープルを脱退(公式発表は6月)したリッチー・ブラックモアの後釜として候補に挙がっているが、実際にはオーディションに至らなかったと言う経緯がある。

フュージョン期

翌1975年、ビートルズのレコーディングプロデューサーでもあったジョージ・マーティンをプロデューサーに迎え、当時流行していたフュージョン色の濃い初のインストゥルメンタル・アルバム『ブロウ・バイ・ブロウ』を発表。インストゥルメンタル・アルバムとしては珍しく、アメリカでゴールドディスクを獲得し、セールス面でも成功を収めた。

『ブロウ・バイ・ブロウ』発表の1年後、ナラダ・マイケル・ウォルデン(ドラム)やヤン・ハマー(キーボード)らを起用し、またしても全編インストゥルメンタルの『ワイアード』を発表。ジャズ・ロック的な要素を全面に出したアルバムとなった。

1980年代に入ると、同じくヤードバーズ出身のジミー・ペイジ、エリック・クラプトンと共に、A.R.M.Sコンサートに参加し、三人が共演。クラプトンと共に、シークレットポリスマン・コンサートで共演。アルバム、「ハニードリッパーズ(The Honeydrippers)」に参加し、ジミー・ペイジ、ロバート・プラントと共演した。

1985年にアルバム『フラッシュ』をリリースする。このアルバムではそれまでのスタイルから転換を図り、ナイル・ロジャースやアーサー・ベイカーをプロデューサーに迎え、ボーカル入りの曲を主体にして制作したアルバムである。収録曲「エスケープ」がグラミー賞の最優秀ロック・インストゥルメンタル賞を受賞し、また、「ピープル・ゲット・レディ」での旧友ロッド・スチュワートとの共演がMTVなどで話題になった。

エレクトロニカ、テクノロックサウンドに接近

1989年のアルバム『ギター・ショップ』は、グラミー賞の最優秀ロック・インストゥルメンタル賞を受賞。その後は、ビッグ・タウン・プレイボーイズとのコラボレーション作『クレイジー・レッグス』の発表や、「フランキーズ・ハウス」のサウンドトラック制作、セッション・プレイヤーとしての活動はあったものの、オリジナル・アルバムはしばらく発表しなかった。そして、10年の間隔を経て1999年に『フー・エルス!』をリリース。サイドギターにジェニファー・バトゥンを起用し、打ち込みを多用したテクノサウンドがメインのアルバムとなった。本アルバム発表に併せて来日ツアーを行う。

『フー・エルス!』のリリースの1年後、テクノロック路線をさらに押し進めた『ユー・ハド・イット・カミング』をリリース。前年に引き続き来日ツアーを実施。来日時に久米宏がメインキャスターであったニュースステーションにも生出演し、「ナディア」(オリジナルはニティン・ソウニー)を演奏している(ただし演奏は本番前に収録したものであった)。

さらに2003年、自身の名前を冠した『ジェフ』をリリース。プロツールスを使用した大胆なドラムンベースを大幅に導入したアルバムとなった。

2003年には9月にロイヤル・アルバート・ホールでのデビュー40周年記念コンサートを行う。また同年インターネット上でのみ「オフィシャルブートレグ」というかたちで、ライブ・アルバム『Live at BB King Blues Club』を販売。この作品は2005年の来日に併せて『ライブ・ベック!』のタイトルで一般発売されている。1977年以来のライブ・アルバムとなり、「フリーウェイ・ジャム」や「スキャッターブレイン」といった往年の曲も収録されている。

2006年は世界ツアーを行い、日本ではウドー・ミュージック・フェスティバルに参加。会場で発売されていたライブ・アルバムが後に『ライブ・ベック'06』として発売された。

2008年に3枚続けてのライブアルバムである『ライヴ・ベック3』-Performing This Week... Live at Ronnie Scott'sを発売。2009年には、同じステージの様子を収録したDVD[7]も発売された。

2010年、久しぶりのスタジオレコーディングによるアルバム『エモーション・アンド・コモーション』を発表した。穏やかな曲調が主体で、Joss StoneやImelda May,Olivia Safeの歌心が堪能できるアルバムである。

Billy Joel & Paul McCartney - I Saw Her Standing There (Live At Shea 2008)

2013-03-26 06:45:06 | 日記
Billy Joel & Paul McCartney - I Saw Her Standing There (Live At Shea 2008)


1965年8月15日にニューヨークのシェイ・スタジアムにおいて開催されたコンサートの観客人数は55600人に上っている。これは当時としては世界最大の観客動員数であり、またビートルズが演奏旅行期間中に開催した全てのコンサートの中でも最大数である。
2008年、そこにポールが帰ってきて再びビートルズの曲を歌ったのでありました。

Bee Gees, Staying alive

2013-03-26 06:28:54 | 日記
Bee Gees, Staying alive


ビージーズ(英: Bee Gees)は、英国王領マン島生まれのイギリス人の三人兄弟を中心に構成された、男性ボーカルグループ。1963年にオーストラリアよりレコードデビューし、1973年からは米国を中心に活動。1955年から2003年まで息の長い活動を続け、「Massachusetts」「Holiday」「How Deep Is Your Love」「Stayin' Alive」「Night Fever」など、数多くのヒット曲を発表した。2003年、メンバーのモーリス・ギブが急逝し、グループとしての活動に終止符を打ったが、2009年から活動を再開した[1]。2012年5月20日、ロビン・ギブが死去。

ギブ兄弟は、オートバイレースで著名な英国マン島に生まれた。1946年9月1日にバリー、1949年12月22日にロビンとモーリスが二卵性双生児として誕生。1950年に父の故郷、イングランド、マンチェスターに移る。

1955年、ギブ兄弟は教会の合唱団に所属しキャリアをスタートさせる。自宅の近所には、後にハーマンズ・ハーミッツのリード・ヴォーカルとして英米で大人気を博すピーター・ヌーン一家が居り、ギブ一家とは家族ぐるみの付き合いをしていた。1958年、父の仕事の都合に因り家族7人(両親、バリー、ロビン、モーリス、姉のレスリー、末っ子アンディ)でオーストラリアのクイーンズランド州ブリスベンに移住。一番下の弟、アンディ(1958年3月5日-1988年3月10日)はマンチェスターで生まれたばかりだった。ここで兄弟は、小遣い稼ぎに唄うようになる。最初のグループ名はラトルスネークス(Rattlesnakes)、その後、ウィー・ジョニー・ヘインズ&ザ・ブルーキャッツ(Wee Johnny Hayes & the Bluecats) になった。

そして3人はラジオのDJ、ビル・ゲイツ(Bill Gates,マイクロソフト創業者とは別人)に紹介される。紹介者は、レーサーのビル・グード(Bill Goode)。ゲイツは、自分とグードのイニシャル(BG)から彼らのグループ名をBee Geesとつける。1960年に入るとテレビとラジオのレギュラー番組を持つようになり、1963年にフェスティバル・レコードより『三つのキッス』でレコードデビューする運びとなり、以後は国民的規模の人気を博すこととなる。 英米ミュージシャンの多くは黒人音楽に少なからずも影響を受けたが、ビージーズはエヴァリー・ブラザースからの影響を強く受けた。


『ニューヨーク炭鉱の悲劇』でレコード・デビュー。アメリカでの発売元であるアトコ・レコード(アトランティック・レコードの子会社)が、新人では前代未聞の25万ドルで契約し、話題騒然となる。

以後、「ラヴ・サムバディ」、「ホリディ」、「マサチューセッツ」(全米11位)、「ワールド」、1968年に「ワーズ」、「ジャンボー」、「獄中の手紙」(初の全米TOP10入り)「ジョーク」(同じく全米TOP10ヒット)、同年末にヴィンスがプロデュサー業に転向するため正式に脱退、翌1969年春、3rdアルバム『オデッサ』、シングル「若葉のころ」を発売間もなくロビンがソロ・シンガーになるべく独立(シングル「救いの鐘」は英国のみでヒット)、同年夏シングル「トゥモロウ・トゥモロウ」を最後にバリーとモーリスが一方的にコリンを解雇してしまう、これによって2人となったビージーズは「想い出を胸に」を全英TOP10に送り込むも、翌1970年春先にシングル「I・O・I・O」、アルバム『キューカンバー・キャッスル』発売直後の兄弟喧嘩に因って空中分解。その後、それぞれソロ・シングルを発表するも芳しい結果は出せず、同年9月にバリー、ロビン、モーリスの3人は固い結束の下に改めてビージーズとして再出発することを誓う。


ディスコで大人気を誇っていたビージーズのナンバーを大きく取り入れた映画『サタデー・ナイト・フィーバー』が、1977年に公開された。1998年にミュージカル版もロンドンで製作され、翌年にはブロードウェー公演も果たし、日本公演は2003年に新宿コマ劇場で行われた。続編である映画『ステイン・アライブ』もヒットする。

全世界で2億3,000万枚を超えるレコードを売り上げているビージーズは、現在に至るまでビートルズ、エルヴィス・プレスリー、マイケル・ジャクソン、ポール・マッカートニーと並んで、歴史上最も成功した上位5ユニットのアーティストに数えられる。彼らの楽曲は古くはエルヴィス、近年はデスティニーズ・チャイルドといった日本においても知名度の高いアーティストらによってカバーされている。1971年から1979年にかけて米国のビルボードチャートに9曲のナンバーワンヒットを送り出した[4]。1978年の3月には、製作に携わった4つの楽曲が上位5位にランクインした。この記録は、ビートルズが1964年の4月に上位5つ全てを独占した記録に次ぐ偉業である。1977年の最終週から1978年の8月までの32週に亘り、携わった楽曲が常に1位の座を独占し続けた。イギリスに於いては、ビートルズの28曲に次ぐ19曲がナンバーワンヒットを記録した。活動期間中に5つのグラミー賞を獲得した。1997年にはメンバー3人全員がアーティストの殿堂、さらにはグループがロックの殿堂、[5]。2001年にはボーカルグループの殿堂、2004年9月20日にダンスミュージックの殿堂入りを果たし、音楽史上初めて4つの殿堂入りを記録した。他にも、「英国の音楽に多大な貢献を行ったアーティスト」の栄誉も受賞した。

Michel Legrand 映画「おもいでの夏」 Theme from '' The Summer Of '42 ''

2013-03-26 06:17:20 | 日記
Michel Legrand 映画「おもいでの夏」 Theme from '' The Summer Of '42 ''


1971年 思い出の夏

性への好奇心と、美しく優しい年上の女性への思慕の情と、同時に湧き起こる思春期を迎えた少年の微妙な心理をノスタルジックな感覚で描いた作品。製作は29歳の新進気鋭のプロデューサー、リチャード・ロス、監督は「レッド・ムーン」「幸せをもとめて」のロバート・マリガン、脚本はハーマン・ローチャー、撮影は「コレクター」「卒業」のロバート・サーティース、音楽は「シェルブールの雨傘」「華麗なる賭け」のミシェル・ルグラン、編集はフォルマー・ブラングステッドがそれぞれ担当。出演は「リオ・ロボ」のジェニファー・オニール、16歳の新人ゲーリー・グライムス、19歳で俳優志望のジェリー・ハウザー、オリヴァー・コナント、キャサリン・アレンタック、クリストファー・ノリス、ルー・フリッゼルなど。

祭りの準備

2013-03-26 06:12:14 | 日記
祭りの準備


『祭りの準備』(まつりのじゅんび)は、1975年製作・公開の日本映画。

黒木和雄監督、江藤潤主演。綜映社=映画同人社=ATG製作、ATG配給。カラー、ビスタサイズ。

昭和30年代の高知県中村市(現:四万十市)を舞台にした脚本家中島丈博の半自伝的作品。シナリオライターになる夢を胸に秘めつつ町の信用金庫に勤める青年が、地縁・血縁のしがらみの中でもがき苦しみながら旅立ちの日を迎えるまでを描く。

主人公沖楯男は、信用金庫に勤めながら上京してシナリオライターになるのを夢見て毎晩遅くまで筆を握っている。楯男は村の赤裸々な男女関係に悶々としながら日々を過ごしている。母ときよは夫の女道楽に嫌気が指し、楯男と祖父茂義の三人で暮らしている。母の過剰な偏愛に楯男は息苦しさを感じている。そんなとき幼馴染で大阪のキャバレーで働いていたタマミがヒロポン中毒になって村へ帰ってきた。好色な村の青年たちは毎晩浜にいるタマミと関係を持っている。楯男も浜に出たが、なんと祖父の茂義に寝取られてしまう。そして茂義はタマミと暮らし始める。だが妊娠したタマミは出産するとなんと正気に戻っていた。正気に戻ったタマミは、茂義を毛嫌いし、絶望のあまり茂義は首吊り自殺をしてしまう。一方、楯男には涼子という憧れの存在がいた。涼子と結ばれた楯男だが、二人が寝ていた勤め先の宿直室で火事を起こしてしまい、涼子との縁を切り東京へ向かう決心をするのだった(母ときよから猛反対されていた)。 そんな時中村で強盗殺人事件が起こり、その犯人は楯男の悪友(?)中島利広だった。母にも言わず村を飛び出し東京へ向かう朝、駅で偶然利広と出会った楯男に、利広は励ましの言葉をかけ、電車が発車してもバンザイを繰り返し見送るのだった。

中島丈博は本作以外にも、戦時中に小学生のタテオが京都から高知県中村市に疎開し、地元組と疎開組の少年たちの抗争と、性の目覚めを描いた小説「野蛮な詩」(2000年)、中島の製作・脚本・監督で中学時代を描いた映画「郷愁」(1988年、設定は「祭りの準備」と一部異なる)、「祭りの準備」の続編とも言える、東京で昼はシナリオ講座に通い、夜は渋谷のキャバレーのボーイとして働く高知出身の青年を描いた「独身送別会」(1988年、NHK銀河テレビ小説)、中島の母と伯母がモデルに四万十川上流を舞台とした「宵待草」(1983年、NHK銀河テレビ小説)と関連作が多く、2010年には自伝「シナリオ無頼」も出版している。中島は自伝的作品以外にも、双子の絵本作家、田島征彦と田島征三の高知での少年時代を描き、第46回ベルリン国際映画祭で銀熊賞を受賞した「絵の中のぼくの村」(1996年、東陽一監督)がある。


Earth, Wind & Fire (6/11) - Medley Remember the childeren

2013-03-26 06:02:02 | 日記
Earth, Wind & Fire (6/11) - Medley Remember the childeren


アース・ウィンド・アンド・ファイアー (Earth, Wind & Fire) は、アメリカのファンクミュージック・バンドである。

人気を博した1970年代の全盛期は、モーリス・ホワイトとフィリップ・ベイリーのツインヴォーカルに重厚なホーンセクションが特徴であった。1980年代前半には、他バンドに先駆けてコンピューターを利用した電子音を採り入れ、実験的な曲創りにも取り組んだ。

モーリス・ホワイトは、初期はジャズ・ドラマーとしてラムゼイ・ルイスのバンドに参加していた。彼のバンドを離れた後、1969年にシカゴにて、『ソルティ・ペパーズ』を結成、キャピトルからシングル"La La Time"を残す。

1970年には、活動拠点をロサンゼルスに変え、バンド名もアース・ウィンド・アンド・ファイアー(以後EWF)と改名。占星術によると、モーリスはEarth, Air & Fire(土と空気と火)の要素があるが、馴染みやすく、Earth, Wind & Fire(土,風そして火)と名づけた(当時の人気バンド、ブラッド・スウェット・アンド・ティアーズの模倣という説もある)。ワーナーと契約、モーリスの兄弟のヴァーダインにフレッドを含めた10人の大所帯バンドとなる。2作リリースするがヒットはせず、バンドは一度解散する。

1972年にコロムビア・レコードに移籍、フィリップ・ベイリーやラルフ・ジョンソンが加入。コロムビアには、以後1990年まで在籍する。1973年に、Head To The Sky(『ヘッド・トゥ・ザ・スカイ』)をリリースし、ゴールド・ディスクを獲得する。1975年には、That's the Way of the World(『暗黒への挑戦』)を、同名の映画のサウンドトラックとしてリリースし全米アルバム・チャート第1位を獲得するが、映画はヒットせず。この映画にはモーリスも出演しており、彼等の貴重なライヴ映像も観ることが出来る。

1976年に、モーリスは自己プロダクション、カリンバ・エンタテインメントを設立。モーリスは、"Boogie Wonderland"に参加している「エモーションズ」等をプロデュースしている。1978年には、CBS/コロムビアの元、ARCレコードを設立。レーベルの第一弾としてベスト盤The Best of Earth, Wind & Fire Vol.1をリリース。ヒット曲"September"の初収録アルバムがこれになる。

1980年に、2枚組の大作Faces(『フェイセス』)を発表した頃から、彼らのサービス過剰とも言える音楽性がリスナーに飽きられ始める。1983年に発表したElectric Universe(『エレクトリック・ユニヴァース』)では、ついに大きな売りであったホーンセクションを捨て、電子楽器中心のサウンドを展開させるが、人気の凋落に歯止めを掛けることは出来ず、活動を一時停止、各メンバーはそれぞれソロ活動に移る。この間、フィリップ・ベイリーは1983年にフィル・コリンズのプロデュースでChinese Wallをリリースし、"Easy Lover"をヒットさせる。彼は以後も不定期ながらソロ活動をしている。モーリスも1985年に唯一のソロ・アルバムとなるMaurice Whiteをリリースし、"I Need You"をヒットさせる。

1987年にTouch the World(『タッチ・ザ・ワールド』)をリリースし、活動を再開。1990年発売のHeritage(『ヘリテッジ』)を最後にコロムビアより離れ、ワーナーへと戻り、1993年にMillennium (『千年伝説』)をリリース。その頃よりモーリスはプロデューサー業を強化するようになり、1994年の全米ツアーには参加せず。モーリスは1995年のライヴ活動もリタイア。1996年に自主レーベル、カリンバ・レコードよりアルバムが制作され、avex traxよりAvatar(『アヴェタ』)のタイトルで日本先行発売された。海外版としては、このアルバムは翌年にIn the Name of Loveとリタイトルと再構成され、ライノより翌年にリリースされる。モーリスはこのアルバムを最後にプロデューサー業に専念するようになり、以後の活動はフィリップが中心となっている。

1997年にモーリスは神経性障害と診断される。「パーキンソン病ではなく、元々神経質であることと、度重なるストレスから、震えが伴うことがある」とモーリスは発言していたが[3]、後にやはりパーキンソン病を患っていたことが明らかになる。2004年の来日公演には同行する。2007年にはスタックス・レコード(コンコード・レコードにより復活)より、EWFのトリビュート・アルバムInterpetationsをリリース。モーリスは、エグゼクティヴ・プロデューサーとしてこのプロジェクトに参加。

2009年12月、4年ぶりの来日が決定。東京と大阪、札幌で行われた。この時、翌2010年は結成40周年目の記念としてモーリスを加えての記念ライヴが行われるとアナウンスされたが、バンドでのライヴは叶わず、日本ではフィリップ・ベイリーのソロライヴのみが行われた。



オール・バイ・マイ・セルフ All By Myself /エリック・カルメンEric Carmen

2013-03-26 05:34:18 | 日記
オール・バイ・マイ・セルフ All By Myself /エリック・カルメンEric Carmen



When I was young
若かったあの頃の私は

I never needed anyone
誰にも頼ろうなんて思わなかった

And makin' love was just for fun
時には愛し合うことを楽しんだりもしたけれど

Those days are gone
そんな日々も遠い昔の話

Livin' alone
独りきりでやり過ごし

I think of all the friends I've known
ふと思い返し、友との思い出を 

But when I dial the telephone
訪ねてはみるけれど

Nobody's home
あの過去たちは帰らない

All by myself Don't wanna be All by myself anymore
**もう 自分自身でなんて

All by self Don't wanna live All by myself anymore
もう独りで 生きようなんて思うことなんてないわ


Hard to be sure
信じることは簡単じゃなくて

Sometimes I feel so insecure
ふと 湧いてくる不安を抑えきれないの

And love so distant and obscure
愛と呼ぶには幼く 不安定で

Remains the cure
どうすればいいのか分からなくなるのよ

All by myself Don't wanna be
全て自分自身でなんて

All by myself Anymore
これ以上耐えられそうにないの


All by myself Don't wanna be All by myself anymore
**もう 自分自身でなんて

All by self Don't wanna live All by myself anymore
もう独りで 生きようなんて思うことなんてないわ


When I was young
若かったあの頃の私は

I never needed anyone
誰にも頼ろうなんて思わなかった

And makin' love was just for fun
時には愛し合うことを楽しんだりもしたけれど

Those days are gone
そんな日々も遠い昔の話


All by myself Don't wanna be
全て自分自身でなんて

All by myself Anymore
これ以上耐えられそうにないの


All by myself Don't wanna live

Oh
Don't wanna live By myself, by myself

Anymore By myself Anymore

Oh
All by myself Don't wanna live

I never, never, never

Needed anyone


山崎まさよし 8月のクリスマス

2013-03-26 05:27:51 | 日記
山崎まさよし 8月のクリスマス


『8月のクリスマス』(はちがつのクリスマス)は、2005年、製作および公開された日本映画。韓国映画『八月のクリスマス』のリメイクで、小さな写真館を営む青年と、小学校の臨時教員の淡い恋を描いた悲恋物語。富山県高岡市で撮影が行われた。

出演

鈴木寿俊 - 山崎まさよし: 写真館を営む青年。
高橋由紀子 - 関めぐみ: 小学校の臨時教員。