しゃくしな漬け好きよん!

しゃくし菜漬は秩父地方の伝統的な漬物です。でもやっぱりタコが好き!
ほんで、タコ焼き作りまんねん♪

【初音ミク】般若心経ポップ【PVつき】

2013-03-25 23:31:43 | 日記
【初音ミク】般若心経ポップ【PVつき】


超スゲェ楽になれる方法を知りたいか?誰でも幸せに生きる方法のヒントだ。もっと力を抜いて楽になるんだ。苦しみも辛さも全てはいい加減な幻さ。安心しろよ。

この世は空しいモンだ。痛みも悲しみも最初から空っぽなのさ。この世は変わり行くモンだ。苦を楽に変える事だって出来る。汚れることもありゃ背負い込む事だってある。だから抱え込んだモンを捨てちまう事も出来るはずだ。

この世がどれだけいい加減か分ったか?苦しみとか病とか。そんなモンにこだわるなよ。見えてるものにこだわるな。聞こえるものにしがみつくな。味や香りなんて人それぞれだろ?何のアテにもなりゃしない。揺らぐ心にこだわっちゃダメさ。それが『無』ってやつさ。生きてりゃ色々あるさ。辛いモノを見ないようにするのは難しい。でも、そんなもんその場に置いていけよ。

先の事は誰にも見えねぇ。無理して照らそうとしなくていいのさ。見えない事を愉しめばいいだろ。それが生きてる実感ってヤツなんだよ。正しく生きるのは確かに難しいかもな。
でも、明るく生きるのは誰にだって出来るんだよ。
菩薩として生きるコツがあるんだ。苦しんで生きる必要なんてねえよ。愉しんで生きる菩薩になれよ。全く恐れを知らなくなったらロクな事にならねえけどな。適度な恐怖だって生きていくのに役立つモンさ。

勘違いするなよ。非情になれって言ってるんじゃねえ。夢や空想や慈悲の心を忘れるな。それができりゃ涅槃はどこにだってある。
生き方は何も変わらねえ。ただ受け止め方が変わるのさ。心の余裕を持てば誰でもブッダになれるんだぜ。

この般若を覚えとけ。短い言葉だ。意味なんて知らなくていい。細けぇことはいいんだよ。苦しみが小さくなったらそれで上等だろ。
嘘もデタラメも全て認めちまえば苦しみは無くなる。そういうモンなのさ。今までの前置きは全部忘れても良いぜ。でも、これだけは覚えとけ。

気が向いたら呟いてみろ。心の中で唱えるだけでもいいんだぜ。いいか、耳かっぽじってよく聞けよ?
『唱えよ、心は消え、魂は静まり、全ては此処にあり、全てを越えたものなり。』
『悟りはその時叶うだろう。全てはこの真言に成就する。』心配すんな。大丈夫だ。




Deva Premal - Om Namo Bhagavate

2013-03-25 18:51:15 | 日記
Deva Premal - Om Namo Bhagavate


ヴェーダ、マントラの旋律を歌う歌姫デヴァ・プレマール(Deva Premal)。デヴァ・プレマールは喜びそのものの存在で、その歌声は私達の心に大きく響き、世界中で多くのリスナーに高く評価されています。デヴァプレマールは葛藤無く純粋に喜びの中に生きており、まさにマントラを詠うために生まれてきたように感じるサウンドです。 彼女の歌声は喜びそのものです。ちなみに、マントラとはインド地方で5,000年以上前から口承されてきたヴェーダという叡智のサンスクリット語で書かれた言葉で、その中に意図されたエネルギーが詰まっていると伝えられ、今日でも様々な文化や神秘家の間で活用されています。

彼女はドイツの家庭で育ち、霊的な探求をしていた父親からマントラを使ったエクササイズがギフトとなり、マントラを使った音楽の世界を生きることになったようです。デヴァ・プレマールのパートナーであるミテン(Miten)との出会いも彼女の人生を運命付けました。ミテンから音楽のセンスを見出され、彼女のマントラの調べを歌うことが彼女のライフワークとなりました。

Heart Of Mine - Bobby Caldwell

2013-03-25 18:23:23 | 日記
Heart Of Mine - Bobby Caldwell


ボビー・コールドウェル(Bobby Caldwell、1951年8月15日 - )は、アメリカのミュージシャン。1970年代から1980年代にかけて流行したAORサウンドを代表するシンガーの一人。

ニューヨーク・マンハッタン生まれ。1978年のデビュー曲「風のシルエット(What You Won't Do for Love)」がヒットし、当時流行していたAORの新星として脚光を浴びる。洗練された音の世界を持ちつつも、多くの初期AORシンガーのようにボーカルスタイルはR&B色が濃く、ブルー・アイド・ソウルの歌手として分類されることもある。また作曲家としてボズ・スキャッグスに「ハート・オブ・マイン(Heart of Mine)」、ピーター・セテラに「ネクスト・タイム(Next Time)」、「ステイ・ウィズ・ミー(STAY WITH ME - 邦題:ステイ・ウィズ・ミー song for KA・GU・YA・姫)」(映画『竹取物語』主題歌)などのヒット曲を提供(いずれも後にセルフカバー)している。

1980年に彼が所属していたTK Recordsが倒産し、本国ではプロモーション活動がままならなかった影響か、1980年代以降はアメリカでは振るわずも、日本では非常に人気が高く、AOR界ではクリストファー・クロスやボズ・スキャッグスと並び立つ存在。1990年代にオンエアされたニューヨークの夜景をバックに「Stay with Me」「Heart of Mine」「Come to Me」が流れるパーラメント(タバコ)のCMは、彼のイメージを象徴する一作でもある。

映画「ゴールデンスランバー」プロモーションビデオ

2013-03-25 17:32:02 | 日記
映画「ゴールデンスランバー」プロモーションビデオ


『ゴールデンスランバー』(A MEMORY) は伊坂幸太郎による日本の小説作品。

首相暗殺の濡れ衣を着せられた男の、2日間に亘る逃亡劇を描いた作品。2008年本屋大賞受賞、第21回山本周五郎賞受賞作品。

著者にとっては2年ぶりの書き下ろし作品である。作品は、全部で五部から構成されており、第四部「事件」が作品の大半を占めている。序盤から多くの伏線がはられ、魅力的な人物が数多く登場し、今までの著者の作品のエッセンスが数多く含まれていることから、現時点で著者の集大成と評されている。

この作品では、主人公の昔の彼女や、大学のサークル仲間といった周りの人たちとの絆が大きな役割を果たしている。これには、人間が生活する上で一番重要なのは、人との繋がりや、信頼なのではないかという作者の考えが込められている。

タイトルはビートルズの同名楽曲から引用されており、作中にも「ヘルプ!」「カム・トゥゲザー」などのビートルズナンバーのタイトルが散見される。

首相公選制が存在する現代。仙台市では金田首相の凱旋パレードが盛大に行われていた。それと時を同じくして、青柳雅春は、数年ぶりに旧友の森田森吾と再会していた。森田の様子がおかしいことを訝しむ青柳に、森田は恐るべきことを告げる。あまりにも巨大すぎる陰謀から、青柳は友達の力を借りて逃亡を始めるが…

2010年1月30日公開。伊坂が原作の映画は以前も一部が仙台市内で撮影されていたが、今回はすべて仙台での撮影となった。

原作の舞台となった仙台市の各所で、2009年5月からロケが行われた。撮影にはせんだい・宮城フィルムコミッションや宮城県警、東日本放送などの協力で同年7月にクランクアップとなった。第2回仙台シネマ認定作品。

2011年3月12日にフジテレビの「土曜プレミアム」で地上波初放送される予定だったが、前日の3月11日に本作の舞台である東北地方で東北地方太平洋沖地震が起こった影響で休止となった。その後、同年10月1日に改めて放送された。

映画「歩いても 歩いても」予告編

2013-03-25 17:24:38 | 日記
映画「歩いても 歩いても」予告編


『歩いても 歩いても』(あるいても あるいても)は、2008年6月28日に公開された日本映画。監督は是枝裕和。主演は阿部寛。

ある夏の終わり。横山良多は妻・ゆかりと息子・あつしを連れて実家を訪れた。開業医だった父と昔からそりの合わない良多は現在失業中ということもあり、気の重い帰郷だ。姉・ちなみの一家も来て、楽しく語らいながら、母は料理の準備に余念がない。その一方で、相変わらず家長としての威厳にこだわる父。今日は、15年前に不慮の事故で亡くなった長男の命日なのだ…。



しゃべれどもしゃべれども

2013-03-25 17:21:23 | 日記
しゃべれどもしゃべれども


『しゃべれどもしゃべれども』は、佐藤多佳子作の小説である。これをもとに漫画、映画が作成された。

情緒あふれる東京の下町を舞台に、1人の落語家のもとに集った口下手な美女、同級生に馴染めない関西弁の少年、毒舌の元野球選手らの人間模様が描かれる。監督は『愛を乞うひと』で日本アカデミー賞を受賞した平山秀幸。主人公の落語家をTOKIOの国分太一が演じる。温かい涙がこぼれるハートウォーミングでさわやかなストーリーが堪能できる。

思うように腕が上がらず、壁にぶち当たって悩む二つ目の落語家・今昔亭三つ葉(国分太一)。そんな彼の教室に、無愛想で口下手な美女・十河五月(香里奈)、大阪から引っ越してきたものの、勝ち気なためにクラスに馴染めない小学生・村林優(森永悠希)、毒舌でいかつい面相の元野球選手・湯河原太一(松重豊)が通い始める。


映画「LEON」(レオン)Trailer

2013-03-25 17:12:01 | 日記
映画「LEON」(レオン)Trailer


『レオン』(原題:Léon、英題:Léon: The Professional)とは、1994年製作のフランス・アメリカ合作映画。リュック・ベッソン監督によるアクション映画。日本公開時のコピーは「凶暴な純愛」。

ニューヨークで孤独に生きるイタリア系移民のレオン(ジャン・レノ)はプロの殺し屋として、表の顔はイタリアレストランの経営者でイタリア系マフィアのボスであるトニー(ダニー・アイエロ)を介した依頼を完璧に遂行する日々を送っていた。ある日、「仕事」帰りのレオンはアパートの隣室に住む少女マチルダ(ナタリー・ポートマン)と、彼女の顔に父親からの暴力の痕があることをきっかけに知り合う。マチルダは実の父親であるジョセフだけではなく、義母のマージと義姉のジョアンからも虐待を受けており、幼い弟マイケル以外の家族に愛されず、閉塞感に満ちたまま日常を送っていた。

だがその翌日、ジョセフが麻薬密売組織の「商品」を横領したことを見抜いたスタンスフィールド(ゲイリー・オールドマン)とその一味がアパートに乱入。ジョセフのみならずマージやジョアンも、そしてわずか4歳のマイケルにいたるまでマチルダの家族は皆殺しにされてしまう。運よく難を逃れたマチルダはとっさに隣室のレオンに助けを求め、レオンはしばし逡巡した後に彼女を保護する。

巧みな駆け引きを駆使し、弟の復讐のため殺しの技術を学ぼうとするマチルダと、殺しの腕は一流ながら学がなく、「根が地面についてないということが自分と同じだ」という理由で、鉢植えの観葉植物だけが友達のレオン。奇妙な同居生活を始めた二人は、やがて互いに心の安らぎを見出すようになり、複雑な感情と信頼を抱いていく。

ある時、マチルダはスタンスフィールドが麻薬取締局の捜査官であることを突き止める。密売組織の背後には、スタンスフィールドを始め、麻薬取締局が絡んでいたのだ。ピザの宅配を装い麻薬取締局に侵入するも、スタンスフィールドに早々に察知され逆に捕まってしまうマチルダ。奇しくも、レオンもマチルダのために、マチルダの一家の殺害に関与した麻薬取締局の捜査官への復讐を始めていた。1人を始末して帰宅したところ、マチルダの置手紙により、マチルダが麻薬取締局にスタンスフィールドを殺害しに行ったことを知る。レオンは早速麻薬取締局へ乗り込み、拘束されていたマチルダを取り返し、一味の内2人を殺害する。

一方スタンスフィールドは、トニー配下の殺し屋が仲間の捜査官を殺害しているのだと目星をつけ、トニーを詰問しに出向く。実はスタンスフィールドこそが、今までトニーを仲介役にレオンに殺しを依頼してきた元締めであった。

全てはレオンの仕業であると確信したスタンスフィールドは、次の日の朝、警察の全部隊を動員してレオンの住むアパートを包囲、突入させた。レオンは激しく抵抗し、その戦いの中マチルダを脱出させることに成功する。マチルダとはトニーの店で落ち合うことにし、レオン自身は負傷した突入部隊員に扮し脱出を試みるもスタンスフィールドに見破られ、あと一歩のところで射たれてしまう。だが虫の息の中、身に着けていた手榴弾のピンを抜き、スタンスフィールドを道連れにレオンは爆死する。

一人残されたマチルダは学校の寄宿舎に戻り、レオンの形見となった観葉植物を学校の庭に植えるのだった。

 「ニキータ」のL・ベッソンが初めてアメリカで製作したバイオレンス・アクション。ニューヨークを舞台に、凄腕の殺し屋レオンと12歳の少女マチルダの純愛と戦いを描く。大都会の片隅で出会った孤独なふたりの葛藤と壮絶なアクション・シーンがほどよくブレンドされた佳作だが、その功績は朴訥だが頼もしいJ・レノと繊細でいてたくましいN・ポートマンの二人の魅力に負うところが大きい。G・オールドマンがキレまくってる麻薬捜査官という悪役を楽しそうに演じているのが印象的でした。



Sting - Shape of My Heart (HQ)

2013-03-25 17:08:35 | 日記
Sting - Shape of My Heart (HQ)


スティング(Sting、本名:ゴードン・マシュー・トーマス・サムナー CBE/Gordon Matthew Thomas Sumner, CBE、1951年10月2日 - )は、イギリスのニューカッスル・アポン・タイン出身のミュージシャンである。1977年にポリスを結成。1978年にA&Mより「ロクサーヌ」でデビュー。ベーシスト兼ボーカルとして活躍した。ポリス自体は1984年に活動休止し、ソロ活動をしていたが、2011年に復活し、東京と大阪を含むワールド・ツアーを決行した。

代表曲に「Every Breath You Take」(ポリス時代)、「Roxanne」(ポリス時代)、「Fields of Gold」、「Fragile」、「Englishman in New York」、「Shape of My Heart」(映画『レオン』主題歌)等がある。映画の主題歌や挿入歌に使用される事が多く、それらの一部を集めた、全17曲のアルバム「Sting at the Movies」(1997)がある。その後、同アルバムは、映画「阿修羅城の瞳」公開時に使用された「My Funny Valentine」を収録し、半分近くを差し替えた「My Funny Valentine at the Movies」(2005)へと更新されている。

SAILING

2013-03-25 17:01:24 | 日記
SAILING


クリストファー・クロス(Christopher Geppert Cross、1951年5月3日 - )は、アメリカ合衆国 テキサス州 サンアントニオ生まれのシンガーソングライター。 トレードマークはフラミンゴ。

1979年、アルバム『Christopher Cross』(邦題『南から来た男』)でデビュー。デビュー時はコンサートもせず、素顔を公開していなかった。これはクリストファー自身の意向によるものであった。 天使のようなハイトーンボイスで一躍AORを代表する歌手となる。 同アルバムとシングル『Sailing(セイリング)』は1980年のグラミー賞の5部門を独占。この曲は、ビルボード(Billboard)誌で1980年8月30日に週間ランキング第1位を獲得。1980年ビルボード誌年間ランキングでは、第32位。翌年にはスティーブ・ゴードン(Steve Gordn)監督・脚本の映画「ミスター・アーサー(Arthur)」の主題歌「ニューヨーク・シティ・セレナーデ(Arthur's Theme (Best That You Can Do))」でアカデミー歌曲賞をバート・バカラック、キャロル・ベイヤー・セイガー、ピーター・アレンとともに受賞。「ニューヨーク・シティ・セレナーデ」は、ビルボード(Billboard)誌で1981年10月17日に週間ランキング第1位を獲得。1981年ビルボード誌年間ランキングでは、第12位。この曲は日本でも馴染みの深いナンバーである。

5歳~9歳の幼少期に、軍医だった父親の仕事の関係で日本(東京代々木に)住んでいたことがある。


Hotel California 訳詞付- The Eagles

2013-03-25 16:45:37 | 日記
Hotel California 訳詞付- The Eagles


イーグルス(英語:Eagles)は、1971年にデビューしたアメリカのロック・バンド。アメリカ西海岸を拠点に活動しながら世界的人気を誇り、トータルセールスは1億2000万枚を超える。

主な代表曲は、「テイク・イット・イージー」「ならず者」「呪われた夜」「ホテル・カリフォルニア」など。

イーグルス結成の先駆けとなったのは、1971年にリンダ・ロンシュタットのバックバンド(Linda Ronstadt & Her Band )編成のためにミュージシャンが集められた機会であった。これにグレン・フライ、ドン・ヘンリー、ランディ・マイズナー、バーニー・レドンの4名が顔をあわせ、後に彼らは独立して、1971年8月にバンドを結成することを思いつき、ロンシュタットが所属していたアサイラム・レコード(拠点・ロサンゼルス)からイーグルスとしてデビューした。

メンバーのグレン・フライが、当時同一のアパートに居住していたシンガー・ソングライターのジャクソン・ブラウンと共作した「テイク・イット・イージー」が、1972年にデビュー曲でいきなりシングル・ヒットを記録。続く「魔女のささやき」も全米ヒットとなった。デビュー当初は一般にはカントリー・ロックのイメージが強かった。

マルチプレイヤーであったレドンが演奏するテレキャスター、バンジョー、スティール・ギター、マンドリンのサウンドが、バンドのイメージを決定付けていた。特に、バンジョーをフィーチャーした「早起き鳥」などの楽曲にみられるブルーグラス要素をロックのダイナミズムと融合させた点は斬新であった。

プロデューサーはグリン・ジョンズで、すでにローリング・ストーンズの『ベガーズ・バンケット』やレッド・ツェッペリンのデビュー・アルバムなど、ロック指向の強い多くの作品にエンジニアとして関わっていた経験を持つベテランだったが、同作のレコーディング時にはイーグルスをバラード・グループと見なして「君たちはロックンロールに向いていない」などと発言し、またどの程度カントリー的要素をブレンドするかといった意見について、しばしば衝突を繰り返したとされる。

2枚目のアルバム『ならず者』はコンセプト・アルバムで、基本的にはファースト・アルバムと同様のサウンド構成に留まり、バーニー・レドンのカラーが強いブルーグラス的な楽曲と、ロック的な要素の曲が共存しているものの、その音楽的成熟度としては格段の向上を見せた。タイトル曲の哀愁を帯びたバラード「ならず者」は、後にリンダ・ロンシュタットやカーペンターズに至るまで、数多くのアーティストたちにカバーされるスタンダード・ナンバーとなっている。

元々の音楽的ルーツとしてカントリー・ロック志向が強い4人であったため、前作のレコーディングとプロモーションにはかなりの労力が注がれたが、セールス的には失敗といえる有様であった。そのため、3枚目の『オン・ザ・ボーダー』においては、よりロック的なアルバムにすべく、2曲を収録したところでプロデューサーがロック志向の強いビル・シムジク に替わった。同アルバムには、「オール・レディ・ゴーン」と「ジェームス・ディーン」という2曲の佳作が収録されている。また、バーニー・レドンの紹介で、彼の親友でアマチュア時代のバンドメイトであったフロリダ出身のギタリスト、元フロウ(Flow )のドン・フェルダーが収録曲中2曲において参加し、ロック的色彩を強めることとなった。ドン・フェルダーは後にメンバーとして正式加入しており、ツアーではカントリー的な楽曲ではレドン、ロック的な楽曲ではフェルダーがリード・ギターを主に担った。

ロックのスターダム、絶頂期へ

1975年、大ヒット・アルバム『呪われた夜』を発表。タイトル曲「呪われた夜」をはじめとし、グラミー賞、ベストポップボーカル賞を獲得した「いつわりの瞳」、ランディー・マイズナーがボーカルをとる「テイク・イット・トゥ・ザ・リミット」と3つのヒット曲を生んだ。オリジナル・メンバーの音楽的なルーツであるカントリー色の濃い楽曲も依然見られるものの、全体としてはよりロック色を強め、またタイトル曲ではAORやファンク、ダンス・ミュージック的要素を盛り込むなど、音楽的な幅はさらに広がった。セールス的にも前作に続き大きな成功を収めている。

しかし、『オン・ザ・ボーダー』の頃から続いていたメンバー間の軋轢がこの頃から激化していた。デビュー当時には民主的なグループであったが、実質的に主導権を握ったドン・ヘンリーとグレン・フライの2人の日頃からの高慢な態度にバーニー・レドンは業を煮やし、バンドの音楽的方向性への疑問も重なったことで1975年12月に脱退している。

それまでバンドの音楽的支柱のひとつであったレドンに代わるギタリストを探すのは難航したが、その間に初のベスト・アルバム『グレイテスト・ヒッツ 1971-1975』をリリースした。このアルバムは全米だけでも2,900万枚以上の売り上げを記録し、全米歴代で最も売れたアルバムとして君臨し、プラチナ・ディスク認定第1号ともなった記念碑的作品となるなど、バンドの確固たる地位を築いた。

レドンの後任には、元ジェイムズ・ギャングのメンバーであったジョー・ウォルシュを迎えた。ウォルシュの加入には反対するメンバーもいたが、音楽的には一気にハードロック色を強める結果となった。1976年には、初来日公演を果たしている。

1976年、彼らの代表作となる『ホテル・カリフォルニア』を発表。当時のロック界ひいては都市社会の矛盾を揶揄したかのような歌詞と13本ものギターを重ねた完璧なサウンド・ワークによって、1970年代のアメリカン・ロックを代表する曲のひとつとなったフェルダーの曲にヘンリーが詩をつけたタイトル曲「ホテル・カリフォルニア」、かつての勢いを失いつつあったウェストコースト・ロックの凋落を皮肉るように、田舎町にやって来た新参者へ向けられた地元民の一時的な強い好奇心と彼が飽きられていく様を唱った「ニュー・キッド・イン・タウン」、エゴ社会に警鐘を鳴らすかのように、好き勝手にふるまう無頼者が実は虚勢に満ちており内面に苦悩を持つことを言外ににじませた「駆け足の人生」など、単に人間の性(さが)や振る舞いを唱っているように見えながらも暗に根深い社会問題を提起するような深みのある歌詞を、角度を替えた音響アレンジに乗せて展開した曲に散りばめてバンドとしての頂点を醸成し、全世界的な大セールスを記録し、バンドを押しも押されもせぬロック界の代表格にまで押し上げた。

バンド終焉へ

しかし、メンバー間の軋轢はさらに激しさを増し、ドン・ヘンリーとグレン・フライの高慢な態度の矛先はランディ・マイズナーに向けられるようになっていた。マイズナーは以前に比べて膨大になったツアーのストレスや、音楽的志向の違いも相まって、1977年のコンサート・ツアー中に脱退。マイズナーの後継として、元ポコのティモシー・B・シュミットが加入した。

コンサート・ツアーを終えると、次のアルバム制作に取り掛かる。当初は2枚組で1978年にリリース予定だったが、レコーディングに難航し、1枚組に縮小の上1979年まで掛かった。そしてリリースされた『ロング・ラン』においては、ハードロック、バラードさらにディスコ・チューンにまで多様な音楽性に挑戦するが、製作ヴィジョンが曖昧で展開するサウンドにもっぱら主張や一貫性はないなどと批判された。『ロング・ラン』発売に合わせてコンサート・ツアーを行い、1979年には2度目の来日公演を果たす。

この頃、バンドは人気絶頂期だったものの、相変わらずグレン・フライとドン・フェルダーの不仲や、曲作りのスランプなどからバンドは1980年に活動を停止。そして1982年、正式にバンドの解散が発表された。

バンドの活動停止後は各メンバーが個別の活動に入り、各自のソロ・アルバムを発表したり、繋がりの深いウエストコースト系のアーティストを中心にレコーディングへのゲスト参加などを行っている。グレン・フライは「ユー・ビロング・トゥー・ザ・シティ」や「ヒート・イズ・オン」が大ヒットし、ドン・ヘンリーは「ボーイズ・オブ・サマー」と「エンド・オブ・ジ・イノセンス」でグラミー賞ベスト・ロック・ボーカル部門を受賞し、ソロとしても成功を収めた。

再結成以降

1994年に、第1期最終メンバーによって再結成。4曲の新曲とライブ収録曲を併収した変則アルバム『ヘル・フリーゼズ・オーヴァー』を発表し、以後世界規模でのツアーを繰り返し展開。この1994年以降を、ここではバンド活動の第2期とする。2004年から2005年にかけては、「Farewell I Tour」(第一回さよならツアー)と題されたツアーが行われたが、「さよなら」というのはジョークであり、その後も米国内外で公演が行われている。このツアーでも相変わらずの高い人気ぶりを見せつけ、各地のコンサートは大成功に終わり、収益面でも年間ランキングに顔を出すほどであった。

1995年に16年振り3度目の来日公演を東京と横浜、兵庫、福岡で行ない成功を収めた。2004年には5大ドームと横浜アリーナにおいて、9年振り4度目の公演が行われた。

1998年に、ママス&パパスやサンタナなどと共にロックの殿堂入りを果たした。

2000年に、ドン・フェルダーが「バンドに対して貢献していない」という理由によって、突然解雇される。彼はこれを不服として、解雇取り下げを求める訴訟をバンド側に対して行う。

2007年10月31日に、久々の新作『ロング・ロード・アウト・オブ・エデン』(19曲+ボーナストラック1曲入り、2枚組)を発売した。この作品は、13年振りとなるスタジオ・アルバムで、新曲のみで構成されたものとしては『ロング・ラン』以来であり、実に28年ぶりの作品となる。なお、前日の10月30日には、アメリカ国内においてウォルマートなどを介した先行リリースが実施された。全世界で爆発的なセールスを記録し、衰えぬ人気を示した。

2011年3月1日から6日にかけて、実に7年ぶりとなる5度目の来日ツアーを東名阪ドームで実施した。

演奏スタイル

名実ともに、音楽の黄金期である70年代を代表するバンドであり、ヒット曲を多数発表しているが、どの曲も美しいコーラスワークを聴かせる。デビュー前、グレン・フライは全員がボーカルを採れるバンドを目指しており、デビュー時のオリジナルメンバーである、グレン・フライ、ドン・ヘンリー、ランディー・マイズナー、バーニー・レドンはファーストアルバムである「イーグルス・ファースト」で4人全員がリードボーカルを採り、またグレンの目指していたコーラスワークもレベルの高いものとなった。その後、メンバーチェンジもあり、ロック色の強いバンドになっていったが、コーラスの美しさは落ちるどころか、さらにレベルアップしていった。

さらに、ドン・フェルダー、ジョー・ウォルシュといったテクニックのあるギタリストが加わってからは演奏能力も格段に上がり、ライヴでもクオリティの高い演奏を見せている。また、ビートルズのレノン=マッカートニーのように、ヘンリー=フライのコンビでヒット曲を連発していった。ただし、レノン=マッカートニーの場合はほぼ完成した楽曲に一方がアレンジを施すなどする関係だったのに対し、ヘンリー=フライのコンビは、主にヘンリーが作詞、フライが作曲を担った。




Ana Vidovic

2013-03-25 16:01:56 | 日記
Ana Vidovic


アナ・ヴィドヴィチ(Ana Vidović, 1980年11月8日生)は、クロアチア出身のクラシックギター奏者。


カルロヴァツに生まれる。兄ヴィクトルの影響で5歳のときにギターを始めた。すでに11歳で国際的に名を知られるようになり、13歳のときに、史上最年少でザグレブ国立音楽院に入学を果たす。イシュトヴァン・ロメルに師事。後に渡米し、2003年にピーボディー音楽院(ボルチモア)を卒業した。

イギリス・バースのアルバート・ オーグスティン国際コンクールや、イタリアのフェルナンド・ソル国際コンクール、マウロ・ジュリアーニ国際コンクール、スペインのフランシスコ・タレルガ国際コンクールなどで優勝。

1988年に初めてステージに立って以来、ヨーロッパや北米の各都市、テルアビブ、ジャカルタ、中国などでのコンサートを含む公演の数は、すでに1000回を超す。