しゃくしな漬け好きよん!

しゃくし菜漬は秩父地方の伝統的な漬物です。でもやっぱりタコが好き!
ほんで、タコ焼き作りまんねん♪

Electric Light Orchestra (ELO) "Telephone Line" (music video)

2013-03-22 11:35:56 | 日記
Electric Light Orchestra (ELO) "Telephone Line" (music video)


ELO テレフォンライン 


やぁ、元気?君は上手くやってる?
一人で夜を迎えるようになってからの
寂しくてつまらない話がしたかったんだ。
君が電話に出てくれたらの話しだけどね。

やぁ、調子はどう?何か変わった事は?
二人が愛し合った時間が、
夢なんかじゃないって、考えられるようになった?
あの時の事が薄れて行くなんて信じられないんだ。

[あぁ、憂鬱な日が夜を真っ暗にしている。]
あぁ、ボクは、空を見上げているだけ。
[君が今求めている愛は、本当の愛じゃない]
そして、ボクは何となくわかるんだ。
[ボクの鳴らすベルに気が付いてくれるはず]

あぁ、テレフォン・ライン。
お願いだ、繋がって。
ずっと落ち込んだままなんだ。
あぁ、テレフォン・ライン。
お願いだ、繋がって。
ずっと落ち込んだままなんだ。

O.K. 気が付かないだけなんだ。
君が気付くまで、
ずっと、ずっと、ずっと、かけていてもいいよね。
まるで夜の影のようにじっとしているよ。
君が気が付くまで、ずっとかけているよ。

[あぁ、憂鬱な日が夜を真っ暗にしている。]
あぁ、ボクは、空を見上げているだけ。
[君が今求めている愛は、本当の愛じゃない]
そして、ボクは何となくわかるんだ。
[ボクの鳴らすベルに気が付いてくれるはず]

あぁ、テレフォン・ライン。
お願いだ、繋がって。
ずっと落ち込んだままなんだ。
あぁ、テレフォン・ライン。
お願いだ、繋がって。
ずっと落ち込んだままなんだ。



エレクトリック・ライト・オーケストラ (Electric Light Orchestra) は、イギリスのバーミンガム出身のロックバンド。ザ・ムーブからの発展という形で1970年に活動を開始、1971年にレコードデビュー。1970年代から1980年代にかけて世界的な人気を博した。1970年代のアメリカで最も多くの(ビルボード40位以内の)ヒット曲を持つバンドであり[1]、「ビートルズよりもビートルズらしい曲を持ったバンド」とも言われた。[要出典]略称ELO(イー・エル・オー)。「ロックとクラシックの融合」を目ざし、全盛期には「世界、最小で最高のオーケストラ」と言う称号を得た。

Telephone Line(テレフォン・ライン) 1976年発売。『A New World Record/オーロラの救世主』収録。全世界で大ヒットしたELOの代名詞的ヒット曲。重厚なオーケストラとコーラスを配した「ELO的POPバラード」の代表作との評価が高い(1977年、Bliiboard POP Single Chart最高位7位)。

Alan Parsons Project - Sirius Eye in the Sky (Live 1995)

2013-03-22 11:30:09 | 日記
Alan Parsons Project - Sirius Eye in the Sky (Live 1995)


アランパーソンズプロジェクト  シリウス、アイインザスカイ


簡単に誤ればいいだなんて思わないで
だからって開き直ってテーブルを変えようなんてしないで
君にはチャンスがたくさんあったかもしれない
でもボクにはこれ以上そんなチャンスはやれないよ
何も言わないで
そうしなくちゃいけないんだ
だってボクの一部は君が何を考えているか知ってるのだから

後悔しているなんて言葉口にしないで
そんなにかっかとしたりしないで
ずいぶん言い訳ばかり聞かされたね
だからボクはもうそんなことはさせないよ
本当さ
君の瞳の太陽が
そんな嘘の数々を信じさせようとしたってね

ボクは空の瞳
君を見つめる目
君の心だって読めるんだ
ボクはルールを決める者
愚かな者を相手にしながら
君を騙すことだってできるんだ
だからもう何も見る必要はないんだ
もうわかったんだから
君の心が読めるんだ (君を見てると)
君の心が読めるんだ (君を見てると)
君の心が読めるんだ (君を見てると)
君の心が読めるんだ


アラン・パーソンズは、元々は、
ビートルズのレコーディングスタジオとして知られる、
アビィロードスタジオのレコーディングエンジニアで、
ポール・マッカートニー&ウィングスのアルバムや、
ピンク・フロイドの「狂気(Dark Side Of The Moon)」を
手掛けたことでミュージシャンからの人気が高く、
一方で、自らの作品づくりに対する欲求も高まっていました。

そんなところへ、スタジオでピアニストとして働いていた、
エリック・ウールフソンから、
「エドガー・アラン・ポーを題材にしたアルバムを作らないか?」
という話が持ちかけられ、

スタジオに現れるミュージシャンたちとともに作り上げたのが、
1976年のファーストアルバム、
「怪奇と幻想の世界~エドガー・アラン・ポーの世界
 (Tales Of Mystery And Imagination - Edgar Allan Poe)」
でした。

このアルバムが話題を呼び、グラミー賞にもノミネートされ、
シングル「タール博士とフェザー教授の療法
(The System Of Dr. Tarr And Prof. Fether)」も、
トップ40入りするなど成功を収めました。

その後も、こういったコンセプトやストーリー性の高い、
プログレッシブロック的な作品を作り続け、
「アイ・ロボット(I Robot)」や、「イブの肖像(Eve)」、
「運命の切り札(The Turn Of A Friendly Card)」などの、
クオリティの高く、ポップな作品を発表しています。

1982年に、この「アイ・イン・ザ・スカイ」が大ヒットし、
1984年の「アンモニア・アベニュー(Anmonia Avenue)」からの
シングル「ドント・アンサー・ミー(Don't Answer Me)」では、
60年代的ポップサウンドと、アメコミを使ったPVが話題となり、
日本でも大変な人気のグループとなりました。

二人以外のメンバーを固定せず、腕の立つミュージシャンを使い、
ボーカルも、エリック中心とはいえ、いろいろなボーカリストを
曲によって使うなど、あくまで作品としてのクオリティにこだわり、
ライブは行われませんでした。



Yes Roundabout Acoustic

2013-03-22 11:26:43 | 日記
Yes Roundabout Acoustic


イエス ラウンドアバウト

僕は“婉曲”となり
その言葉が君を完璧にする
君は一日一日が君の思い通りになる
それを音響間を疾駆して渓谷をうねる
“夜明け(=始まり)”と呼ぼう

音楽やダンスや歌が
子供たちに活気を与える
僕は君と同じように一日一日を過ごす
それを音響間を疾駆して渓谷をうねる
“夜明け”と呼ぼう

湖のあたりにさしかかると
空から飛び出すように山々が現れて
そこにそびえ立っている
あと1マイルちょっとで僕たちはそこにたどり着き
君に会える
僕たちはそこで本物の夏を10回過ごし
笑い合ったりもする
明日にでも君は僕の敬愛を受けて
僕は君と一緒にそこで過ごす

僕は君のことを忘れはしない
君のシルエットが距離感の感覚を変えてしまいそうだ
それを音響間を疾駆して渓谷にまで行く
“夜明け”と呼ぼう

流れ行く雲に沿って
ワシが大地を物色している
渦巻く風を捕らえて進む船に乗った
船乗りが土地の縁を見つける
即座に天候が目まぐるしく変わり
ワシの群れが翼をはためかせて騒ぎ立てる
さらに近づいて大地を掴んでも
砂粒以上のものは感じない
僕たちは自分たちが手にしてはずの多くの答えを
あっという間に失いそうだ
僕たちは君の底深い恐怖を間近にしながら
“永遠”に取り囲まれる



1971年11月リリースの4thアルバム『Fragile』(邦題:こわれもの)に収録。

プログレッシブ・ロック隆盛期に作られたフルコーラス8分半の大作。
アルバムではA面の1曲目を飾っており、翌72年にはシングルカットされそちらもヒットした。
当時の一般的な他ジャンル曲数曲ぶんに相当する長尺であったため、シングルカット時には3分半に再編集された。



はっぴいえんど- 風をあつめて

2013-03-22 11:16:25 | 日記
はっぴいえんど- 風をあつめて


『風街ろまん』(かぜまちろまん)は、日本のロックバンド・はっぴいえんどの2枚目のアルバム。

東京オリンピック以降の開発・近代化で急激に失われゆく「古きよき日本・東京の姿」を「風街」という架空の街にみる、といったテーマが見て取れる。全体的にけだるい空気感がただよう。前作の1st『はっぴいえんど』とくらべると松本隆による詞の世界観、大瀧詠一、細野晴臣、鈴木茂ら作曲陣による楽曲の質ともに洗練されており、はっぴいえんどとしての活動はこのアルバムでほぼ完成したと言っても過言ではない。実際、このアルバムの発表後、グループはほぼ解散状態になっている。

ジャケットは野上眞宏の写真に宮谷一彦が加筆したものである。ちなみに左上から時計回りにメンバーの松本、鈴木、細野、大瀧の顔となっている。また、ジャケットの裏にはサポートメンバーの石浦信三の顔が載っている。野上が撮影した写真は、後にマキシシングルCD「あしたてんきになあれ」のジャケットに使用された。

雑誌等でこのアルバムを紹介する際に「内容の良さとメンバーの豪華さとは裏腹に当時は全く売れなかった」などと書かれることが多々あるが、後に細野晴臣が「『風街~』は当時としては結構売れたみたいなんです。ただ、周辺の人間がみんな売り上げというものに興味がなかったから、正式な売り上げ枚数とかは残っていないみたい」とコメントしている。[要出典]

また、この作品は一連の日本語ロック論争に終止符を打ったとも言われる。

録音は東芝音楽工業を退社した直後の、吉野金次が担当しており、吉野の音作りが少なからずアルバムの作風を決定している。しかし、大瀧ボーカル曲は吉野ではなく、近藤むさしが録音を担当。この近藤むさしとは、当時ビクター音楽産業(現:ビクターエンタテインメント)専属のエンジニアだった梅津達男の事で、ビクター以外での仕事では本名が使えない為、大瀧が近藤勇と宮本武蔵から考えた「近藤むさし」としての参加であった。 大瀧詠一がラジオで山下達郎との「新春放談」で自分がボーカルを執った曲は吉野ではなく梅津さん(梅津達男)が録ったと語っている。山下は、「全曲吉野さんがやっていたんだと思っていた」と言う。山下はその時、梅津が参加していた事を初めて知った。

東京オリンピック以前の失われてしまった東京の風景を懐古的な想像で描いたもの。東京タワー建設前の時代の青山、渋谷、麻布の三角形で囲まれる地域をイメージしている。しかし『風街ろまん』収録の「夏なんです」は松本が少年時代の夏休みに過ごした伊香保(祖父の実家)での思い出を描いており、純粋に東京の風景のみを下敷きにしている訳ではない。

これらの風景は漫画家永島慎二の作品からの影響が大きく、はっぴいえんどとしての初のライブで『春よ来い』を演奏する際に「永島慎二氏に捧げる歌」と大滝詠一がMCをしている。

はっぴいえんどの作品はすべてこの風街につながっているといえよう。代表作である『風街ろまん』では「風をあつめて」等の中で特に風街の様子を詳しく歌いこんでいる。

Junk - Paul McCartney

2013-03-22 10:57:17 | 日記
Junk - Paul McCartney


ジャンク     作詞・作曲 ポール・マッカートニー  訳 マーヤ

車、ハンドル、二人のための自転車
心傷ついた祝典
パラシュート、軍隊用のブーツ
二人のための寝袋
センチメンタルな宴会

店の窓の看板が「さよなら」と呟いている
庭のがらくたが「どうして、どうして?」と囁いている

燭台、建物のレンガ、
古いものと新しい物
君と僕の思い出

店の窓の看板が「さよなら」と呟いている
庭のがらくたが「どうして、どうして?」と囁いている



1970年、ビートルズが解散、ポール・マッカートニーがソロデビューした年。

70年代の洋楽の世界の新たな展開が始まりました。

ビートルズに「キンフォーンズ・デモ」というのがあります。

1968年5月末、サリー州エシャーにあるジョージ・ハリスンの家に四人が集まり、「ホワイト・アルバム」用のデモの録音をしたそうです。

「Junk」もその中の作品で、後にポールのアルバム「ラム」に入った曲で、とっても好きでやんす。


渡辺貞夫マイディアライフ ビートルズ特集3 IF I FELL

2013-03-22 10:49:08 | 日記
渡辺貞夫マイディアライフ ビートルズ特集3 IF I FELL


1973年11月17日FM東京 
MG5サウンドトリップ(提供:東京銀座・資生堂)
渡辺貞夫マイディアライフから
ビートルズ特集1夜 #3 「IF I FELL」
ビブラフォーン、口笛、ボーカルを渡辺貞夫が、、、


小学生の時、クリスマスプレゼントで母に買ってもらった小さなラジオで初めて聞いたのが「ナベサダとジャズ」という番組だった。

考えるな、感じろ

2013-03-22 10:32:03 | 日記
考えるな、感じろ


Bruce Lee(李 小龍、リー・シャオロン、レイ・シウロン、1940年11月27日 - 1973年7月20日)は、サンフランシスコ生まれの中国人、中国武術家、武道家、香港の俳優、脚本家、映画プロデューサーである。身長163cm。截拳道(ジークンドー)を創始したマーシャルアーティストとしても知られる。墓碑銘は「FOUNDER OF JEET KUNE DO」。息子はブランドン・リー。

1966年に、アメリカの「ロングビーチ国際空手選手権大会」で詠春拳の演武をしたフィルムが、TVプロデューサーの目に止まり、TVシリーズ『グリーン・ホーネット』の準主役に抜擢される。正義のヒーロー「グリーン・ホーネット」の助手兼運転手として、目の周辺だけを隠すマスクをつけた日系アメリカ人のカトー役を演じ、派手なアクションで人気を博す。

これをきっかけに、ロサンゼルスでハリウッドの俳優やプロデューサーを顧客に武術の個人指導をするようになり、TVや映画などのゲスト出演を重ねる。『グリーン・ホーネット』の後、アメリカの連続テレビドラマ『燃えよ!カンフー』を企画し、自ら主演を願った。しかし、東洋人であることなどを理由に、主演の望みは叶わなかった。

1970年に、香港の大手映画会社のショウ・ブラザーズ(邵氏兄弟有限公司)から独立したレイモンド・チョウ(鄒文懐)が設立したばかりのゴールデン・ハーベスト(嘉禾娯楽事業有限公司)と1本1万香港ドルで2本の映画出演の契約をする。翌1971年に、成人後の初主演映画『ドラゴン危機一発』が公開され、香港の歴代興行記録を塗り替える大ヒットになった。リーは、一躍、香港のトップスターに躍り出る。

主演第2作の『ドラゴン怒りの鉄拳』(1972年)では主演と武術指導を担当し、3作目の『ドラゴンへの道』(1972年)では、自ら「コンコルド・プロダクション」(協和電影公司、ゴールデン・ハーベストとの共同出資)を設立し、製作・監督・脚本・主演の四役を担った。この3作によって、リーは香港で不動のトップスターの地位を築き、ゴールデン・ハーベストは興行収入で香港最大の映画会社となった。

1972年秋から、リーの2作目の監督映画『死亡遊戯』の撮影がスタートする。ところが、ハリウッドのワーナー・ブラザーズとコンコルド・プロダクションとの合作映画の企画が持ち上がり、『死亡遊戯』の製作は中断される。

1973年1月から、アメリカと香港の合作映画『燃えよドラゴン』(ロバート・クローズ監督)の撮影が始まる。かつて、『燃えよ!カンフー』の主演が叶わなかったリーの意気込みは並々ならぬものがあり、エキストラへの武術指導に始まり、脚本や撮影にも詳細な意見を出した。

1973年7月20日に、リーは、『死亡遊戯』で共演予定の女優、ベティ・ティン・ペイ(丁珮) の香港の自宅で頭痛を訴え、鎮痛剤(アスピリンを含むEquagesic)を飲んでベッドに横になった。しかし、そのまま昏睡状態に陥ったため、ティン・ペイはレイモンド・チョウを呼び、そのままクィーン・エリザベス病院へ搬送されたが、死亡が確認された。32歳であった。

葬儀は香港とシアトルで行われた。香港では数万人のファンが葬儀に押し寄せ、シアトルの葬儀にはリーの弟子だったジェームズ・コバーンやスティーブ・マックイーンも参列した。遺体はシアトルのダウンタウン近くのレイクビュー墓地に埋葬された。

リーの死後、彼が待望していた主演作『燃えよドラゴン』がアメリカを皮切りに世界各地で公開され、ヒットした。しかし、地元香港では、前作『ドラゴンへの道』の興行収入を大きく下回った。

『燃えよドラゴン』でアクションスターとして世界的に知名度が上昇した時、すでにリーは亡くなっていた。死後、『ドラゴン危機一発』などの過去の映画が世界中に配給された。

大学受験時に「燃えよドラゴン」のロードショー中だったため、試験が終わると連日、新宿ピカデリーで見てましたっケ「アチョー」(笑)


志ん朝  『そば清』   rakugo

2013-03-22 02:30:14 | 日記
志ん朝  『そば清』   rakugo


古今亭 志ん朝(ここんてい しんちょう)は、東京の落語家の名跡。3代目の死去に伴い、現在は空席。3代目は志ん朝の名跡を大きくしたため、一般的に志ん朝と言えば3代目を指す。

この名前は5代目古今亭志ん生門下より生まれた名前であり、これまで名乗った3人は全員5代目志ん生を師匠に持っていた(初代と3代目は実子)。
初代古今亭志ん朝 - 後の10代目金原亭馬生。3代目志ん朝は実弟。
2代目古今亭志ん朝(生没年不詳) - 戦後まもなく志ん生に入門し古今亭志ん一から1948年3月に志ん朝と改名。1949年5月まで落語協会の名簿に見えるが7月にはなくその頃廃業したと思われる。通称「魚屋の志ん朝」。本名は金田 睦男。一部資料ではこの志ん朝については触れず、美濃部強次の志ん朝を2代目とすることもある。
3代目古今亭志ん朝。本項にて詳述。初代志ん朝こと10代目馬生は実兄。

3代目 古今亭 志ん朝(ここんてい しんちょう、1938年3月10日 - 2001年10月1日)は、東京都文京区本駒込出身の落語家である。本名、美濃部 強次(みのべ きょうじ)。5代目古今亭志ん生の次男で、10代目金原亭馬生の弟、姪は女優池波志乃(義甥は俳優中尾彬)。出囃子は『老松』。定紋は『鬼蔦』。

7代目立川談志、5代目三遊亭圓楽、5代目春風亭柳朝(柳朝が病に倒れた後は8代目橘家圓蔵が称されることも)と共に、『江戸落語四天王』と呼ばれた。他に、同世代噺家の中では『東の志ん朝、西の枝雀』とも称される。


強次(きょうじ)の名は一時期の父の師匠初代柳家三語楼が出生日の陸軍記念日に因んで命名したとされている。

獨協高等学校でドイツ語を学んだ。当初は外交官になるという夢があり、毎年、弟子を連れて大好きなドイツへ旅行に行った。亡くなるまでドイツ語の辞書を大事に所持しており、棺にも納められたという逸話もある。

父の志ん生に入門してから5年目という異例のスピードで真打に昇進し、主に8代目桂文楽の演じ方を基調としながら、のちに上方噺家の6代目笑福亭松鶴に心酔して豪胆さを修学し、押しも押されもせぬ「江戸落語の名人」として名実共に人気を博した。若い頃はテレビ出演も多く、喜劇俳優としての仕事もあったが、寄席を何よりも重んじた。独演会のチケットはすぐに完売するほどであり、古典芸能の住吉踊りを復興させたことでも有名である。

同業者からの評価が非常に高く、毒舌で自尊心の高い7代目立川談志をして「金を払って聞く価値のあるのは志ん朝だけだ」と言わせしめている。また、父志ん生のライバル8代目桂文楽は「圓朝を襲名出来るのはこの人」と志ん生に述べた。圓朝とは江戸後期以後、現在の古典落語を確立した噺家であり、落語界ではこの名は誰も継げない止め名とされており、文楽はそれほど志ん朝の芸を愛したと言われている。また、5年目での真打昇進は文楽の鶴の一声によるものだった。

ファンや後輩芸人からは「朝(チョウ)様」と慕われ、父志ん生の破天荒さとは違う正統派の江戸前落語を得意とした。また、長らく新宿区早稲田鶴巻町に居を構えていたが、その後新宿区矢来町に転居し、以後一部では「矢来町」という呼び名でも親しまれた。

落語家としては初めて高級外車を乗り回したり、豪邸を建てたりしたことで知られる。しかし前者に関しては父志ん生から「車なんざ買うこたぁねぇ」と猛反対され、後者では男性週刊誌記者から「落語家が豪邸を建てるとは何事か」・「長屋住まいを続け金に執着しない8代目林家正蔵(後の林家彦六)を見習え」と非難されたりと風当たりは強かった。しかし彦六の弟子の初代林家木久蔵(現・林家木久扇)は「これからの若手が経済面で手本とすべき存在」と高く評価している。

一方では、名古屋大須観音前の大須演芸場を守る足立席亭の心意気に感じて、1991年から毎年独演会を行った。「日本一客の入らない演芸場」で「日本一客を呼べる落語家」が公演をするという男気は、斯界の美談の一つとされる。

道頓堀の角座に初めて出演した時、落語が受けないので次の日漫談でごまかしたら大いに受けた。気をよくしていたら、支配人から「あんさんは、落語してもらうために呼んだんでっせ」と注意され、以降は落語をきっちり演じるようになった。だが大阪の客に江戸前落語が受け入れられるまで5年かかった。しかし志ん朝は大阪の街を心から愛するようになったという。

落語以外にも、佃煮・ふりかけ「錦松梅」のCMキャラクターとしても有名で、「中身もいいけど、器もいいねえ」というCM中のセリフを、高座では他の色々なものに置き換えて「器はいいけど、中身は・・・」などと一種のセルフパロディに仕立ててよくネタにしていた。この他麦茶や紙おむつのテレビCMに出演。

二ツ目時代に身の回りに不運が続いたため、信心が足りないと母に言われて谷中の寺に守り本尊としている虚空蔵菩薩へのお参りに出向いたところ、その寺の住職に、虚空蔵菩薩の使いは鰻であるので、菩薩の命日である13日は鰻断ちするよう勧められた。しかし、13日だけなんて勝手な話は無いと、以来40年以上に渡り大好物であった鰻を断った。1994年、テレビ朝日「徹子の部屋」出演時に「始めは我慢するのが大変だったが、食べたいと思わなくなった」と語っていたが、晩年「ニュースステーション」に出演の際には(「最後の晩餐」コーナー)、「鰻を死ぬほど食べてみたい」と語っている。癌による死を前に、食べたいものを聞かれたときも「鰻が食べたい」と語ったという。

晩年、時間がないときなどは決まって漫談「山田吾一」を高座にかけていた。自分が俳優山田吾一と間違えられるサゲのこの演目はいわゆる自虐ネタであるが、志ん朝が最後に演じた演目でもあった。

所属団体は落語協会で、若手時代には将来の落語協会の大幹部候補としても嘱望を集めたが、後述する落語協会分裂騒動の際の自身の身の振り方の経緯や、騒動以後は高座に専念し協会内部の政治的なことからは比較的距離を置いていたこともあって、実際のところは58歳から亡くなるまでの5年間副会長職を務めたのみであった。

父、兄同様に酒をこよなく愛し、死の直前まで日本酒を手放さなかったが、最期は肝臓癌のため、家族、弟子に見守られる中、自宅にて眠るように静かに息を引き取った。