しゃくしな漬け好きよん!

しゃくし菜漬は秩父地方の伝統的な漬物です。でもやっぱりタコが好き!
ほんで、タコ焼き作りまんねん♪

水曜どうでしょう - 原付ベトナム縦断 ハノイホチミン1800キロ 第1夜

2013-03-21 21:07:55 | 日記
水曜どうでしょう - 原付ベトナム縦断 ハノイホチミン1800キロ 第1夜


水曜どうでしょうの企画 (海外)では、北海道テレビ放送制作のバラエティ深夜番組『水曜どうでしょう』で放送された企画の中から、「レギュラー放送」時(1996年10月から2002年9月)に海外ロケを中心にして放送された企画について述べる。企画名については番組内で多数の呼び方があるものもあるが、本記事においては正式タイトルはDVD版のものとし、未DVD化企画については暫定的に放送時のタイトルを用いるものとする。

原付ベトナム縦断1800キロ
2002年7月31日 - 9月25日放送、全7夜(最終回は1時間枠)(「リターンズ」「Classic」では最終回は2週に分けて放送されるので、規模的に全8夜)
DVD第1弾『原付ベトナム縦断1800キロ』に収録。

「Last Run」として放送された、水曜どうでしょうのレギュラー放送最終企画。どうでしょう海外企画の定番「縦断」と国内企画の華「カブ」をあわせた、水曜どうでしょう6年間の集大成企画である。なお、行程はハノイからホーチミンであるが、実際にはダーラットを経由したため、2,000km近い距離を走行した。

番組内ではすべてのバイクが「カブ」(ホンダ)と呼ばれている。これは東南アジアでは小型バイク全般をメーカーをとわず「カブ」と呼ばれているためである。カブは手動(足)で変速(自動遠心クラッチ)を要するのに対して鈴井・大泉が乗ったバイクの車種は手動で変速を必要としないホンダの『ドリームll』である。

また、鈴井が一部でヘルメットを着用していない嬉野Dを後ろに乗せて、二人乗りで走っているシーンが映っている。これはロケ当時のベトナムでは一部区間においてバイクのヘルメット無着用運転も合法だったからであり、まさにカブを自転車感覚で乗る文化の象徴であった(現在は着用義務化)。

ロケに参加したのは、鈴井・大泉・藤村D・嬉野Dの4人に加えて、ベトナムからはニャン(どうでしょう班の通訳)・タイン(政府公安)・フン(公安の通訳)・ホアン(現地ドライバー)の4人も参加して、計8人の「大所帯」となった。これはビザ申請の際に「ベトナム政府の公安をロケに同行させる事が絶対条件」とされたためである。[2]。また、終盤では鈴井が紛失したトランシーバーを届けるために鈴井夫人がロケに合流し、声のみで出演した。 ちなみにニャン氏が番組中「ベトナ~ム、ホ~チ~ミン」とうたっていた歌は「Như có Bác Hồ trong ngày vui đại thắng(日本語タイトル:ホーチミン師)」という歌の一部である。 なお、進行方向は逆であるがイギリスのテレビ番組「Top Gear」の激安チャレンジ企画の行程がほぼ同じである。

背中のメッセージ

映像には常にタレントの背中しか映らないため、途中からシャツの背中にメッセージを書いている。
2日目 鈴井「ヴィン→フエ 390km 1918時必着」、大泉「寝るなうれしー」
「寝るなうれしー」は、前日の藤村Dの「明日は(見どころもないので)嬉野君もある程度寝ますし」発言に起因する。

3日目 鈴井「孤独に負けない」、大泉「駄洒落禁止」
「孤独に負けない」は、鈴井がトランシーバーを落として交信不能になったため。
「駄洒落禁止」は、交信できない(マイクはついているので彼のしゃべりは聞こえる)鈴井がダジャレばかり言い始めたから。

4日目 鈴井「4日目 未知の世界へ」 、大泉「カブ天国」
「4日目 未知の世界へ」は、それまでのカブ企画では3日間が最長のロケ日程であったため。

5日目 鈴井「これ以上は無理です TEAM OVER 40」、大泉(現地で購入したTシャツを着用)

6日目 鈴井「激走ハノイ→ホーチミン1800km 妻よありがとう」、大泉「おかえりミスター」
「-妻よありがとう」は、鈴井夫人が日本からわざわざトランシーバーを届けてくれた感謝を込めて。
「おかえりミスター」は、再び大泉やディレクター陣と交信できることを祝って。

最終日 鈴井「Last Run 水曜どうでしょう Never Give Up」、大泉「最終回 つづく」(1枚目)「6年間ありがとう またね」(2枚目)
大泉は当初「最終回」とシャツに記したが、藤村Dから非難されたため、斜線を引き「つづく」と訂正した後、2枚目のシャツに着替えている。


【プロレス】初代タイガーマスク物語【格闘技】

2013-03-21 20:58:27 | 日記
【プロレス】初代タイガーマスク物語【格闘技】


佐山 聡(さやま さとる、1957年11月27日 - )は、日本のプロレスラー。総合格闘技団体・シューティング(現・修斗)の創設者としても知られ、設立当時総合格闘家としても活動していた。2012年現在、本人の設立した武道団体・掣圏真陰流の興義館総監を務め、武道家としても活動している。山口県下関市出身。

覆面レスラー・初代タイガーマスクとして空前のプロレスブーム、社会現象を巻き起こす。その後は、UWFで後にU系と言われる独自のルールと打・投・極による格闘技色の強いプロレススタイルを考案し、更に総合格闘技の元祖となる団体・シューティング(後の修斗)を創設した。現在は掣圏真陰流を創始し、最先端の武道を追及していると共に、自身の団体リアルジャパンプロレスを創設して、プロレスの復権、復興に尽力している。


タイガーマスク誕生前夜

新日本プロレスから「タイガーマスクの映画を撮るので、帰国して欲しい」という連絡を受ける。当時イギリスでサミー・リーとして大変な人気で、マーク・ロコ(後のライバル、初代ブラック・タイガー)とのタイトルマッチを目前に控えていたこともあり帰国を断るが、「1試合だけでいいから、アントニオ猪木の顔を潰さないで欲しい」と説得され帰国。タイガーマスクとしてリングに上がるが、渡されたマスクやコスチュームの出来の悪さに泣きそうになったと、後に回想している(これはデビュー戦の相手を務めたダイナマイト・キッドも同様のコメントを残している)。なお、漫画『プロレススーパースター列伝』では渡されたマスクを手に取り、「悪くない」と発言しているが、これはフィクションである。

タイガーマスク誕生

海外遠征から帰国後、梶原一騎原作の漫画『タイガーマスク』から現実のヒーローとして、新日本プロレスに彗星のごとく登場した。また、この時期テレビ朝日系でアニメ『タイガーマスク二世』の放送が開始され、メディアミックス展開も行っている。初代タイガーマスクとしてのデビュー戦は、1981年4月23日蔵前国技館に於けるダイナマイト・キッド戦。

デビュー戦のマスクは雑な作りの粗悪なもので、マントもまるでシーツのような物であった。佐山自身は物理的な羞恥の他にも、漫画の世界を現実に持ち込むことは「新日本プロレスで浮いた存在」になるのではないかと懸念していたが、数々のオリジナルムーブとフィニッシュのジャーマンスープレックス・ホールドでデビュー戦にして人気をさらった。 新日本プロレス伝統のストロングスタイルをベースに、全米プロ空手流の打撃技と武者修行先で培ったルチャリブレ(メキシコ式プロレス)の空中殺法とを織り交ぜた革新的なレスリングスタイルは、全国的に空前のタイガーマスクブームを巻き起こした。佐山自身はそのファイトスタイルは、実況の古舘伊知郎によって「四次元プロレス」、「四次元殺法」と形容された。

1982年は、1月1日に王座決定戦でダイナマイト・キッドを破りWWFジュニアヘビー級王座を獲得。5月25日にはレス・ソントンからNWA世界ジュニアヘビー級王座を奪取し、WWFとNWAのジュニアヘビー級王座を史上初めて統一した。この時期の代表的な好敵手として、ダイナマイト・キッド、ブレット・ハート、ブラック・タイガー、スティーブ・ライト、小林邦昭などが挙げられる。また、アントニオ猪木や藤波辰巳と組んでの6人タッグマッチにも出場し、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ワフー・マクダニエル、マスクド・スーパースター、ドン・ムラコ、グレッグ・バレンタインなどヘビー級の外国人選手とも対戦した。ジュニアヘビー級王者としてアメリカのWWFにも遠征し、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンやフィラデルフィアのスペクトラムにおいて、ダイナマイト・キッド、カルロス・ホセ・エストラーダ、エディ・ギルバートらを相手に防衛戦を行ったこともある。1982年12月7日にはペンシルベニア州アレンタウンにて、当時WWFを主戦場としていたミスター・サイトーことマサ斎藤と対戦し勝利を収めている。

タイガーマスクの試合を中継した『ワールドプロレスリング』の視聴率は、ほぼ毎週25%を超え地方興行も空前の大入り満員が続いた。子供たちの間では、新日本プロレスの看板レスラーであるアントニオ猪木を凌ぐほどの人気を獲得していたが、新日本プロレスでの活動には突然終止符が打たれた。1983年8月4日に奇しくもデビュー戦と同じ蔵前国技館で行われた寺西勇戦終了後の8月10日、新日本プロレスに契約の解除を一方的に告げ、突如引退を宣言。その直後、テレビ朝日系のバラエティ番組『欽ちゃんのどこまでやるの!?』にゲスト出演し、自らあっさりとマスクを脱ぎテレビで素顔を公表した。

新日本プロレスでタイガーマスクとして活動した2年4か月間のシングル通算戦績は155勝1敗9分けで、この1敗はダイナマイト・キッドをフェンスアウトさせての反則負けであり、シングルとタッグを含めて一度もフォール負けがない。

SPECTRUM スペクトラム SUNRISE サンライズ

2013-03-21 20:53:46 | 日記
SPECTRUM スペクトラム SUNRISE サンライズ


スペクトラム(SPECTRUM)は、1979年から1981年まで活動した日本のブラス・ロックバンド、ジャズ・フュージョン・グループ。元アミューズ所属。

あいざき進也のバックバンド「ロックンロール・サーカス」から、キャンディーズのバックバンドとなった「MMP(ミュージック・メイツ・プレイヤーズ)」と「ホーン・スペクトラム」が合体したバンドとも言われるが、リーダーの新田によると「MMPの卒業生が主になって作ったという感じ」とのこと。1979年に結成。同年8月25日にデビュー、同時に24時間テレビ 「愛は地球を救う」に出演した。

トランペット奏者の新田一郎が中心になって結成されたバンドであり、全編にブラスの音が鳴り響く力強いファンク・サウンドと、新田のファルセットボーカル、ギタリスト西慎嗣のロック系ボーカル、ベーシスト渡辺直樹のAOR系ボーカルの3人のボーカルが大きな特徴である。

1stアルバム「SPECTRUM」や2ndシングル「IN THE SPACE」により、当初は吹奏楽に携わる若者や洋楽ファンを中心に、徐々にその存在が知れ渡っていった。コンスタントなライブ活動を続けながら、2ndアルバム「OPTICAL SUNRISE」や3rdアルバム「TIME BREAK」を制作。

その一方で、古代ギリシャの戦士を思わせる甲冑や北欧のバイキングをイメージした被りもの付きの派手なコスチュームを着用し、ギター、ベース、トランペット X 2、トロンボーンの5人が最前列に一列に並び、演奏しながら振り付けを合わせて踊るパフォーマンスのインパクトが強く、またメンバーの冗談好きもあって「色物系バンド」と誤解されることもあった。

複雑に絡み合う16ビートのリズムや高度且つ派手なブラスアレンジから「EW&Fもどき」などという批判も起きたが、実際はシカゴやブレッカー・ブラザーズやクール&ザ・ギャングの影響の方が大きいとみられ、特にリーダーの新田は「シカゴの1stアルバム1曲目である『イントロダクション』を聞いて人生が変わった」とラジオ番組で発言していた。

4thシングル「SUNRISE」は、スタン・ハンセンのテーマとして有名であり、いまだに着メロ等の配信がある。

1981年9月22日の武道館ライブを最後に解散。

『NE-ON』 PARACHUTE

2013-03-21 20:39:25 | 日記
『NE-ON』 PARACHUTE


PARACHUTE(パラシュート)

『音楽はスポーツだ』をキャッチフレーズに、当初7人(林立夫、斎藤ノブ、マイク・ダン、松原正樹、今剛、安藤芳彦、小林泉美)のミュージシャンによって1979年に結成される。2ndアルバムでは小林泉美が脱退し6人となったが、そのアルバムにゲストミュージシャンとして参加した井上鑑がその後正式メンバーとして加入する。

3rdアルバム「HAERE MAI」は当初2枚組の予定で録音が開始されたが、レコード会社との意見の食い違いで1枚で発売され収録時間の関係で短くカットされた曲がある。また、同アルバム収録の「カクテルナイト」はメンバー内では「シングルカットして歌番組にも出たい」という意向もあったが、「バンドのイメージと違う」というレコード会社側との意見の対立により流れたと当時のファンクラブ会報に掲載されていた。

その後、海外録音の4thアルバム「Sylvia」の発売後しばらくして活動を停止。正式な解散宣言は無いままだったが、2003年5月の「CROSSOVER JAPAN '03」で21年ぶりにライブを行う。その後は沈黙していたが2012年12月29日に東京国際フォーラムで開催された「LIVE IN TOKYO CROSSOVER NIGHT」で9年ぶりのライブを行う。この時の斉藤ノヴのMCで「パラシュートは解散していません」と発言している。