しゃくしな漬け好きよん!

しゃくし菜漬は秩父地方の伝統的な漬物です。でもやっぱりタコが好き!
ほんで、タコ焼き作りまんねん♪

Chicago - 長い夜

2013-03-20 11:00:23 | 日記
Chicago - 25 or 6 to 4(Live in Japan 95)


数年前の静岡講演に行きましたが、

それはもう大変お粗末でガッカリしましたけど、

若い時から大好きな涙涙の楽曲でありんす♪

Everytime You Go Away - Paul Young

2013-03-20 10:51:12 | 日記
Everytime You Go Away - Paul Young


ポール・ヤングの出世作、Every Time You Go Away。もとは、ホール&オーツの曲で、80年のアルバムVoices(邦題「モダンヴォイス」)収録曲として発表されたものを、ポールが85年にカバーし、シングル・ヒットさせました。ホール&オーツのVoicesと言うアルバム、大好きなんですが、彼らの曲はソウルフルなノリと、ロックテイストが混ざった曲に良い曲が多いですね。この曲も往年のソウルバラード、と言う感じで、印象に残っていました。Blue Eyed Soulの名曲でしょう。そしたらポールヤングがカバーし、さらにうまいアレンジを施しましたね。特にイントロが秀逸です。キーのメロディに導かれて続く(フレットレス)ベースラインがたまりません。
 歌詞は、失恋した男目線で女性に気持ちを伝える内容。何度も別離、再会を繰り返した2人なんでしょうね。サビの、

Every time you go away, you take a piece of me with you
(君がいなくなるたび、君は僕の一部を持っていってしまう)

君がa piece of meを持っていってしまう、つまり、君は去っていくけど、僕への思いは引きずっていくんだよ、また戻ってきてくれるだろ、というわけなんでしょうね。でも、最後にI don't care(心配してないさ)といいつつ、Don't leave me alone(一人にしないで)と叫ぶあたり、サビの歌詞は男の強がり、じゃないかな。失恋ソングって、なんで男はこんなのばっかりなんでしょうね。もちろん、思い当たる節はいっーーーーばいありますけどね(苦笑)。

ホテル・ジワタネホの洋楽訳詞ブログThe Cinema Show様より

10cc - I m Not In Love

2013-03-20 10:34:42 | 日記
10cc - I m Not In Love


10cc(テンシーシー)はイギリス・マンチェスター出身の4人組によって結成されたバンドである。

草創期の活動

デビューは1972年8月。しかしオリジナルメンバー4人はその約10年前から音楽業界で下積み活動を行っていた。

共にイギリス・マンチェスター出身の4人は当時流行し始めたビートバンド・ブームの中、それぞれが演奏活動を始める。エリック・スチュワートはいくつかのバンドを経て、1963年6月にウェイン・フォンタナ&ザ・マインドベンダーズのギタリストとしてレコードデビュー。1964年6月、グレアム・グールドマンは自身のバンドThe Whirlwindsのレコード・デビューに際して、B面曲としてライバル・バンドThe Sabresにいた友人のロル・クレームの曲を採用するが、ヒットせずにバンドは解散。グレアムはThe Sabresからドラマーのケヴィン・ゴドレイを引き抜いて新バンドThe Mockingbirdsを結成、1965年2月に改めてレコードデビュー。デビュー曲としてグレアムは「フォー・ユア・ラブ」を作曲するがレコード会社に拒否され、代わりに“That's How (It's Gonna Stay)”をレコーディングする。「フォー・ユア・ラブ」はその後ヤードバーズがレコード化、全英3位の大ヒットとなる。一方The Mockingbirdsのレコードは不発に終わり、その後レコード会社を移籍しつつ4枚のシングルを発表したもののヒットを生み出せずに解散。

その後グレアム自身はソングライターとして次々にヒット曲を生み出し、またピーター・カワップやジョン・ポール・ジョーンズたちとのバンド活動を経て、1968年7月には自作曲のセルフカバーアルバム『ザ・グレアム・グールドマン・シング』を発表している。The Mockingbirds解散後ケヴィンは再びロルとコンビを結成、組み立て絵本などのデザイナーで生計を立てる一方、グレアムのマネージメントで1967年Yellow Bellow Room Boom名義でシングル“Seeing Things Green”を発表している。ウェイン・フォンタナ&ザ・マインドベンダーズは1965年1月の6thシングル「ゲーム・オブ・ラブ」が全英2位/全米1位の大ヒットを記録するが、その後低迷しリーダーでヴォーカルのウェインがソロ・アーティストとして独立する。残ったバンドメンバーはエリックをヴォーカルに据えザ・マインドベンダーズとして再出発を図る。1965年12月に発売された1stシングル「恋はごきげん」は全英2位全米2位の大ヒット、その後“Ashes To Ashes”もヒットするなど順調な活動が続く。1967年にはシドニー・ポワチエ主演の映画『いつも心に太陽を』に曲を提供、バンド自身もゲスト出演している。1967年11月のシングル“Schoolgirl”はグレアムの作曲・プロデュース。このレコーディングでエリックと意気投合したグレアムは、後に脱退したベースの代わりにバンドに正式参加しシングル“Uncle Joe The Ice Cream Man”ではリードヴォーカルをとっている。バンドはこのシングルを最後に解散、エリックはグレアムを誘い、レコーディング・スタジオ"ストロベリースタジオ"の共同出資者となる。グレアムはロルとケヴィンをスタジオミュージシャンとして誘い、やがてエリック、グレアム、ロル、ケヴィンの4人でバンド活動を開始する。

新たな歩み

1969年9月ヤードバーズのマネージャー、ジョルジオ・ゴメルスキーの設立したレーベル "Marmalade"より、Frabjoy & Runcible Spoon名義でシングル“I'm Beside Myself”をリリース。ケヴィンの「ヘブンリー・ヴォイス」に惚れ込んだゴメルスキーがケヴィンとロルを「第二のサイモン&ガーファンクル」とすることを目指したと言われている。アルバム制作も着手されたがレーベルの経営が悪化したために頓挫。同じ頃グレアムに対して、米国バブルガム・ミュージックの総本山カセネッツ=カッツ・プロダクションから作曲の依頼が届く。渡米したグレアムは作曲契約と同時に彼らの傘下アーティスト用楽曲レコーディングのため3ヶ月間ストロベリー・スタジオを貸し出す契約を結ぶ事に成功する。

その留守中新たに届いた4トラック・レコーダーの試験録音用に3人が冗談で録音した「ネアンデルタール・マン」がたまたまその場にいた旧知のレコード会社社員の耳に入り、1970年6月ホットレッグス名義でリリースされる。このシングルは全世界で200万枚以上を売り上げるヒットを記録するが、その急激なヒットに怖じ気づいた3人は避暑地に逃亡してしまい、結果スターへの道を自ら棒に振ってしまう。アルバム『シンクス:スクール・スティンクス』が発売されたのは9ヶ月後の1971年3月。頓挫した"Frabjoy & Runcible Spoonアルバム"の楽曲を中心に構成されたというそのアルバムは、英米盤でそれぞれ別ミックスを収録するなど意欲的な作品だったが、既に"ネアンデルタール・マン"ブームは終了していて不発に終わる。その後も4人はDoctor Father、Fighter Squadron、Amazon Trust、The New Wave Bandなどとバンド名を変えながらシングルをリリース。その前後スタジオミュージシャンとして、ハーマンズ・ハーミッツ、オハイオ・エキスプレス、ラマセスなど数多くのアーティストのレコーディングを行った。特にニール・セダカとのレコーディングはアルバム2枚(『ソリテアー』『ピース・アンド・ラブ』)に及び、後のセダカ復活の礎として一部で高評価を得ている。

UKレコード時代

1972年、4人はスタジオミュージシャンとしての活動で自分たちの才能と時間が浪費されすぎていると考え、真剣に自分たちのバンドに力を入れることを誓い合う。エリックの10年来の友人だった人気歌手ジョナサン・キングが自分のレコード会社UKレコードを設立したことを聞いた4人は新たに作曲した「ドナ」を持参して契約にこぎ着ける。キングは夢で見た"世界最高のバンド名"の"10cc"を彼らに与え、1972年8月4日にシングル「ドナ」を発売する。この曲はフランク・ザッパのドゥーワップの影響を受け、ビートルズの「オー!ダーリン」に似た曲調のシングルだった。これが全英2位の大ヒットとなり、以降バンドの活動は10cc名義が中心となっていく(74年以降は10ccに固定)。1973年3月に発売された3枚目のシングル「ラバー・ブレッツ」で全英1位を獲得、同年7月に発売された1stアルバム『10cc』も全英36位のヒットとなった。このアルバムはロルのファルセット・ヴォイス中心のコミカルな楽曲が多く、ある種コミックバンド的な評価を得るが、同時にその演奏技術の高さも評価されていた。1974年5月には2ndアルバム『シート・ミュージック』をリリース。全英9位のほか全米でも81位にランクインする。エリックがリードヴォーカルのシングル「ウォール・ストリート・シャッフル」を始め、コミカルさが後退、代わりに良質なポップミュージックが前面に現れたアルバムとなった。バンドはアルバムのヒットを受けて初の全米ツアーを行う。

バンドとしての絶頂期

1975年、米国での更なる成功を狙うためにフォノグラム(マーキュリー)レコードに移籍する。同年3月に3rdアルバム『オリジナル・サウンドトラック』をリリースし、全英4位・全米15位の大ヒットを記録する。シングルカットされた「アイム・ノット・イン・ラブ」は全英1位・全米2位を記録、現在でもバンドの代表曲として知られている。同年冬に2ヶ月間行われた全米ツアーも成功を収め、バンドとして絶頂期を迎える。1976年1月に4thアルバム『びっくり電話』をリリース。このアルバムも全英5位・全米47位を記録するが、各楽曲においてメンバー間の音楽性の違いが明確に表れていた。当時のレコーディングでは、誰が作曲してもメンバー間の賛意がない限りレコーディングに入らないというルールを課していたこともあって、お互いの音楽性の違いが人間関係をも消耗させる原因になっていた。またバンドとしてツアー活動も重要視するエリック、グレアム組とスタジオ制作に集中したいケヴィン、ロル組で意見の対立が激化、レコード制作は4人で行うが、ツアーはエリックとグレアムだけで行うという暫定合意がなされる。ケヴィン、ロル組は、自分たちがマンチェスター工科大学の協力で開発したギター・アタッチメント"ギズモ"のデモンストレーション・アルバムに取りかかる。同時に10ccの5thアルバムのためのレコーディングがスタートするが、エリック、グレアム組が用意したラブ・ソング「恋人たちのこと」を拒絶したケヴィンがロルを連れて脱退してしまう。同年10月末に公表された二人の脱退理由は"ギズモの開発とデモアルバムのレコーディングのため"となっていた。ケヴィンとロルはその後"ゴドレイ&クレーム"としてレコードをリリースする一方、1980年からはプロモーションビデオの監督業をスタート、高い評価を受ける。

エリックとグレアムはその後も10ccとして活動を続け、ドラムに以前からツアーでのサポート・ドラマーだったポール・バージェスをゲストに迎え、5thアルバム『愛ゆえに』を完成させる。1977年4月にリリースされた同アルバムは全英3位全米31位を記録、先行シングルの「愛ゆえに」も全英6位全米5位の大ヒットとなり、分裂で生じた悪評を完全に払拭する。その勢いを得て二人はツアーを開始、ポールに加えリック・フェン(ギター)、スチュアート・トッシュ(ドラムス)、トニー・オマーリー(キーボード)の4人をサポートメンバーとして加入させている。英国・豪州・初公演の日本を回った後、同年12月には英国のライブを収録した6thアルバム『イン・コンサート』をリリース、全英14位を記録する。ツアーの後トニーに代わりダンカン・マッケイを加えたサポートメンバー4人を正式にバンドメンバーとすることを決め、10ccは6人組のバンドとなる。この時、4人編成から6人編成になった事から、「10ccが15ccになった」とも揶揄されていた。 1978年9月にリリースした7thアルバム『ブラッディ・ツーリスト』は全英3位・全米69位を記録し、続けて始まった英国・北米ツアーも成功を収めた。レゲエのリズムを取り入れたシングル「ドレッドロック・ホリデイ」は全英1位・全米44位を記録するが、これが彼らにとって最後のヒット曲となった。

1979年1月に起きたエリックの交通事故によって、二度目の来日公演を含むワールドツアーはキャンセルされる。エリック復帰までの間、グレアムはメンバーたちと一緒に映画『サンバーン』の主題歌やアニメ"Animalympics"のサントラをレコーディングして過ごす。半年後復帰したエリックは手始めにフランス映画『ガールズ/恋の初体験』のサウンドトラックのレコーディングを行う。1980年3月8thアルバム『ルック!ヒア!!』をリリース。エリック、グレアム以外のメンバーが作曲した曲も組み込んだ意欲作だったが全英35位・全米180位に留まった。本アルバムの米国盤はジャケットデザインが異なっている。同年4月バンドは欧州ツアーを行う。

バンド解散へ

1981年ダンカン・マッケイの脱退を機にエリックとグレアムは10ccを再びデュオ形式に戻し、他にサッド・カフェのヴィク・エマースンやレニー・クルックス、マーク・ジョーダン、サイモン・フィリップスらがレコーディングに参加した。同年11月にリリースした9thアルバム『ミステリー・ホテル』はAOR路線に磨きがかかったが、時代的なニーズとは合わずにチャート的には全く振るわずに終わった。1982年2月結成10周年記念ツアーを英国で行う。同年3月、プロデュース・作曲に米国のソングライター、アンドリュー・ゴールドが参加したシングル「ザ・パワー・オブ・ラブ」をリリース。前年米国ではリリースされなかった『ミステリー・ホテル』は、この「ザ・パワー・オブ・ラブ」を始めアンドリュー・ゴールドが参加した3曲と別の1曲が差し替えられてようやく米国でリリースされた。同年8月にはエリックの2ndソロアルバム"Frooty Rooties"がリリースされる。1983年春の全英ツアーを経て、9月に10thアルバム『都市探検』をリリース。リック・フェンやスチュアート・トッシュのほかスティーヴ・ガッド(ドラム)やメル・コリンズ(サックス)らをサポートメンバーに迎えている。今作もAOR路線を踏襲したためか全英70位と不調に終わる、シングルカットされた「君に夢中」のプロモビデオの監督にゴドレイ&クレーム(ゴドリー&クリーム)を起用したことが話題となった。リリース直後に始まった全英ツアーも不調に終わったことから、二人は10年に及ぶバンド活動を停止する。

10cc解散後、エリックは旧友のポール・マッカートニーのレコーディングに参加。1986年の『プレス・トゥ・プレイ』ではアルバムの半数以上の曲で共同作曲も手がけている。1984年、グレアムはアンドリュー・ゴールドとWorld In Actionという名のユニットを結成。すぐにCommon Knowledgeと改名し計2枚のシングルをリリースする。その後1985年にレコード会社を移籍した際にワックスと改名、翌1986年6月には1stアルバム『マグネチック・ヘブン』をリリースする。同年3月にリリースされた先行シングル「ライト・ビトウィーン・ジ・アイズ」は全英60位全米43位のヒットを記録。ワックスは続けて1987年9月に2ndアルバム『アメリカン・イングリッシュ』を、1989年9月には3rdアルバム『100,000フレッシュ・ノーツ』をリリースしている。その後も断続的に活動を続け1990年代後半にも新曲を含んだベスト盤『ザ・ワックス・ファイル』(1997年)やCommon Knowledge.com(1998年)などをリリースしている。

1987年8月にリリースされた10ccとゴドレイ&クレームの合同ベスト盤『チェンジング・フェイセズ(ベスト・オブ・10cc/ゴドレイ&クレーム)』がプラチナ・アルバムとなったことから、レコード会社のポリドールがオリジナル・メンバーに対して再結成を打診、結果エリックとグレアムによる10cc再結成アルバム『ミーンホワイル』が1992年5月にリリースされる。このアルバムにはケヴィンとロルもゲスト参加している。収録曲の「スターズ・ディドゥント・ショウ」ではケヴィンがリードヴォーカルを担当した。二人のゲスト参加は、アルバム制作契約が残っているにもかかわらず1988年にコンビを解消した事で発生したペナルティ回避のためと言われている。セールスは日本以外では芳しくなかった。1993年に16年ぶりの日本ツアーの後全英ツアーを行う。日本ツアーの模様は1993年7月にライブアルバム『アライヴ』としてリリースされた。

1995年3月エイベックス(カッティング・エッジ)から再結成第二弾アルバム『ミラー・ミラー』をリリース。新録された「アイム・ノット・イン・ラブ」のほかは、エリックとグレアムがそれぞれ別々にレコーディングした楽曲を交互に配列した構成となっている(ただし日本盤と英国盤と米国盤はそれぞれ楽曲収録数が異なる)。アルバムリリースに合わせて英国、日本、オランダでライブを行うが、それを最後に再びバンド活動を停止する。

2000年10月にグレアムの2ndソロアルバム『And Another Thing』がリリースされた。2002年、グレアムは10cc結成30周年を記念して元10ccのリック・フェンとポール・バージェス、それにマイク・スティーヴンスとミック・ウィルソンを加えたメンバーでツアーを行った。2003年4月にはエリックの3rdソロアルバム『Do Not Bend』がリリースされた。2004年には英国アイヴァー・ノヴェロ賞を受賞。公の場で久々にエリック、ロル、グレアムが一緒に姿を見せた。2005年7月にはグレアムが"10cc - Graham Gouldman and friends"名義で日本公演を行った。また2006年7月からは30年ぶりにケヴィンと共作した6曲をネット上でダウンロード販売している。エリックは2009年1月に4thアルバム『Viva La Difference』を発表した。

2011年4月6日にウェールズのスワンジー・グランド・シアターにてコンサートを開催し、その模様を収録した映像が同年7月2日にイギリスでテレビ放送された。2012年にはグレアム、リック・フェン、ポール・バージェス、マイク・スティーヴンス、ミック・ウィルソンの5人により10ccの40周年ツアーが行われた。

名前の由来

「10cc」というバンド名の由来について、男性が一回に出す精液の量×4人分がだいたい「10cc」という事でつけられたと言われる都市伝説があるが、これは正しくはない。実際は、バンドの所属レコード会社の社長、ジョナサン・キングが看板に「世界で最も偉大なバンド、10cc」と書いてある夢を見て、「これは神のお告げかもしれない。」と考え名付けた。

有名な楽曲

アイム・ノット・イン・ラヴ 1970年代の彼らを代表する曲。日本のCMでもたびたび使用される。1991年にウィル・トゥ・パワーがカヴァーし、こちらもヒットしている。もともとは「架空の映画のサウンドトラック」というコンセプトでリリースされた『オリジナル・サウンドトラック』中の1曲。アメリカのFMのDJ達がこの曲を流したことに気を良くしたレコード会社がすぐにシングルカットをメンバーに要求したが、「ライヴであの楽曲のクオリティーを表現出来ない」として最後までメンバーはシングルカットに難色を示していた。この曲はビルボード・週間シングルチャートで3週連続第2位(1975年7月26日付~8月9日付)。1位を阻んだのはヴァン・マッコイ&ソウル・シティ・シンフォニーの「ザ・ハッスル」、次いでイーグルスの「呪われた夜」、最後に、当時4年ぶりの全米No.1獲得となったビー・ジーズの「ジャイヴ・トーキン」であった。なお全英ではNo.1になっている。バックに流れる幻想的なコーラスはグレアム、ケヴィン、ロルの3人の声をテープ編集により624人分(3人×13音階×16トラック)に増幅して作成された(エリックはミキシングを担当)。またこの曲にはギズモは使用されていない。 電話を切らないで 4人時代にリリースされた最後のアルバム『びっくり電話』の中の1曲。曲の最後は電話を切られたように突然終わる。この曲はドラムのゴドリーがボーカルを務める。 愛ゆえに ゴドレイとクレームが抜けた後「これじゃ10ccじゃなくて5ccだ」などと揶揄されたが、残ったエリックとグレアムはメンバー補充でグループを建て直し、2人の共作による「愛ゆえに」をリリース。この曲は1977年に全米第5位を記録している。

最初の日本公演、中野サンプラザ、とにかく音の良さ(レコードと同じ音)に感動したのを今でもはっきり覚えているよ。PAの故障で少し遅れたっケ。

Fleetwood Mac - Dreams - 1977 (original studio version)

2013-03-20 00:20:09 | 日記
Fleetwood Mac - Dreams - 1977 (original studio version)


ドリームス(Dreams)はスティーヴィー・ニックスが彼女の所属するグループ、フリートウッド・マックの1977年アルバム、『噂』のために書き下ろした曲である。曲はアメリカにおいて唯一のナンバーワンを獲得しており、フリートウッド・マックの最も有名な曲であり続けている。歌詞中において、恋愛が終わったことによる寂しさで狂いかけている男性に女性が警告している。

フリートウッド・マックのメンバーは『噂』の録音中、感情の大きなゆれを経験していた。ドラマーのミック・フリートウッドは離婚中であった。ベース奏者のジョン・マクヴィーは妻であるキーボード奏者のクリスティン・マクヴィーと別れている最中であった。ギタリストのリンジー・バッキンガムとニックスは8年に及ぶ関係を終わらせていた。この状況は「ドリームス」の制作を触発した。

僕は東京公演の武道館ライブに行きました。前座は柳ジョージとレイニーウッド。柳さんのギターはグレコのフライングVだった。

フリートウッド・マックはレコードと比べるとちょっとヘタッピーでしたね。それも良い思い出です♪

The Band ... the Weight 1969 @ woodstock live

2013-03-20 00:04:56 | 日記
The Band ... the Weight 1969 @ woodstock live


1959年、アメリカのロックンローラー、ロニー・ホーキンスは彼のバック・バンド、ザ・ホークスを連れロックンロールが落ち目になりつつあったアメリカを離れカナダへと活動の中心を移した。しかし、次第にドラムスのリヴォン・ヘルム以外のメンバーがホームシックにかかり脱退したため、現地カナダの若者をメンバーに加入させる。その際集まったメンバーが、ギターのロビー・ロバートソン、ベースのリック・ダンコ、ピアノのリチャード・マニュエル、ガース・ハドソン、後のザ・バンドのメンバーである。1963年までロニー・ホーキンス (Ronnie Hawkins) のバックバンドとして活動していた。

1964年、ロニーと意見の相違から別れたザ・ホークスは、「リヴォン&ザ・ホークス」と名乗りカナダとアメリカで地道なライブ活動を続ける。やがて、ボブ・ディランのマネージャーのアルバート・グロスマンの目に留まり、ブルース・シンガーのジョン・ハモンド(ディランを世に出したプロデューサーのジョン・ハモンドの同名の息子)の推薦もあって、彼らはボブ・ディランのバックバンドとして抜擢されることとなった。折しも、ディランがアコースティックギターの弾き語りによるフォーク路線から、エレキギターを使用したフォークロック路線へと転換する時期であり、電気楽器を嫌う従来のフォークファンからは壮絶なブーイングを受けた。しかしこれが逆にバンドの知名度を高めることになる。

ディランとホークスとのコンサートツアーは全米、オーストラリア、ヨーロッパと続き、行く先々で賛否両論を巻き起こす。この様子はディランのライブ・アルバム『ロイヤル・アルバート・ホール(ブートレッグ・シリーズ第4集)』(1998年)に記録されている。ツアー半ばで、保守的な観客のブーイングに嫌気が差したリヴォン・ヘルムが脱退し、後任にはミッキー・ジョーンズが一時的に参加した。

ツアー終了直後の1966年7月、ディランは交通事故で負傷。仕事を失っていたメンバーはディランに誘われ、彼の隠遁地であるニューヨーク郊外のウッドストックに住みつく。このころリヴォンも復帰する。彼等の家はピンクのペンキで塗られており、「ビッグ・ピンク」と名付けられた。ここではディランとのセッションが行われ、その音源は長く未発表であったが、1975年に『地下室(ザ・ベースメント・テープス)』としてリリースとなった。

1968年、ホークスはバンド名をザ・バンドとし、『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』でデビューする。「ザ・ウェイト」は映画「イージー・ライダー」にも使われヒットした。ロックにカントリー、フォーク、R&Bといったルーツ・ミュージックの要素を色濃く反映させた音楽性は非常に高い評価を獲得し、当時の多くのミュージシャンたちに大きな影響を与えた。

1969年8月17日にはウッドストックコンサートに出演。同じ8月末にはディランとともにワイト島フェスティバルに参加。このワイト島出演の際ザ・ビートルズのジョン・レノン、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スターと親交を深めた。

その後も1969年に第2作のアルバム『ザ・バンド』を発表、1970年『ステージ・フライト』と、引き続き高い人気を博す。1971年には野心作『カフーツ』でアラン・トゥーサンを招き、ホーンセクションを取り入れるが、このころからメンバー間に摩擦が生じ曲作りもスランプに陥る。そんな中でも、ライブ演奏は積極的に行われ、トップクラスのライブバンドとしての名声を確保した。

1973年にはカバーアルバム『ムーンドッグ・マチネー』をリリース。エルヴィス・プレスリーのナンバー『ミステリー・トレイン』や映画音楽『第3の男』を演奏するなど話題を集める。1974年にはディランと共にツアーを行い、興行的にはその年で一番といわれるほどの大成功を収めた。このときの様子はアルバム『偉大なる復活』(1974年)で聴くことができる。また、1972年に発表されたライブアルバム『ロック・オブ・エイジズ』は、スタジオ録音と変わらない演奏スタイルで話題を呼んだ。このあたりから、ロバートソンがバンドのイニシアチブを取るようになり、ヘルムとの関係が微妙になる。

以後も、リンゴ・スターやエリック・クラプトン、マディ・ウォーターズのアルバム制作に参加、1975年アルバム『南十字星』発表する。だが、バンド内ではツアー活動よりアルバム制作を重視すべきとの意見をもつロバートソンと、ツアー活動にこだわるメンバーとの対立が激しくなったり、マニュエルが疲労とストレスから酒とドラッグに溺れ体調を崩すなどの問題を抱える。こうして音楽活動が行き詰まる中、ロバートソンは1976年にライヴ活動の停止を発表する。ロバートソンは解散して新たなステップを目指していたが、ヘルムは解散・ライブ活動停止には反対であった。またロバートソン以外のメンバーも解散を望んでいなかった。そのような中、11月24日にサンフランシスコのウインターランドでラスト・コンサートを行なう。(実質的に解散コンサートとなる。)コンサートには多数の大物ミュージシャンが参加した。ホーキンス、ディラン、ニール・ヤング、ジョニ・ミッチェル、マディ・ウォーターズ、ドクター・ジョン、ヴァン・モリソン、リンゴ・スター、エリック・クラプトン、ロン・ウッド、ポール・バターフィールド、ニール・ダイヤモンドら、そうそうたる顔ぶれである。この模様はマーティン・スコセッシの手により撮影され、映画「ラスト・ワルツ (The Last Waltz)」として公開、3枚組サントラ盤もリリースされた。

1976年、キャピトルとの契約が残っていた関係上(「ラスト・ワルツ (The Last Waltz)」のサントラをワーナーブラザーズから発表するため)アルバム『アイランド』をリリースするが、最早往年の出来映えは見られず不評に終わる。結局これを最後にザ・バンドとしての活動に終止符が打たれる。