しゃくしな漬け好きよん!

しゃくし菜漬は秩父地方の伝統的な漬物です。でもやっぱりタコが好き!
ほんで、タコ焼き作りまんねん♪

結詞 井上陽水

2013-03-21 14:31:24 | 日記
結詞 井上陽水



作詞 井上陽水
作曲 井上陽水


浅き夢 淡き恋
遠き道 青き空

今日をかけめぐるも
立ち止るも
青き青き空の下の出来事

迷い雲 白き夏
ひとり旅 永き冬

春を想い出すも
忘れるも
遠き遠き道の途中での事

浅き夢 淡き恋
遠き道 青き空


MIRO(ミロ)が好き

2013-03-21 11:10:20 | 日記

ジョアン・ミロ(ジュアン・ミロ・イ・ファラー, 1893年4月20日 - 1983年12月25日)は20世紀のスペインの画家。カタルーニャ地方出身である。かつてスペインではカスティーリャ語以外の言語は公的には禁止されていたので(フランコ体制下)、カスティーリャ語式の読みでホアン・ミロと書かれることもしばしばある。独裁者フランコの死去(1975年)以降、地方語は復権され、現在言語正常化の途上にある。現在ではカタルーニャ語の原音を尊重して「ジョアン・ミロ」または「ジュアン・ミロ」と表記するのが通例である。

ミロはパリでシュルレアリスムの運動に参加したことから、シュルレアリストに分類されるのが通例だが、彼の描く人物、鳥などを激しくデフォルメした有機的な形態、原色を基調にした激しい色使い、あふれる生命感などは、古典的・写実的描法を用いることが多い他のシュルレアリストの作風とは全く異なり、20世紀美術に独自の地位を築いている。

ミロは1893年、スペイン、カタルーニャ地方の中心都市、バルセロナに生まれる。ちなみに、ガウディ、ダリもカタルーニャの出身である。

ミロは1911年、18歳の時、うつ病と腸チフスを患い、療養のためカタルーニャのモンロッチという村に滞在した。このモンロッチの村の環境がミロの芸術に大きな影響を与えたようである。彼はこの頃から画家を目ざすようになり、翌1912年、バルセロナの美術学校に入学した。1919年にはパリに出、この頃からモンロッチとパリを往復しつつ制作するようになる。パリではピカソら芸術家とも知り合い、また、シュルレアリスム運動の主唱者であるアンドレ・ブルトンと出会う。


Dona i ocell (1982)
ミロの作風は同じシュルレアリストでもマグリットやダリらの古典的・写実的描写法とは全く異なる自由奔放なものであるが、ブルトンは、こうしたミロの絵画こそが真のシュルレアリスムであるとして共鳴し、ミロはシュルレアリストのグループに迎え入れられることとなった。ミロは「画家」という肩書きにこだわって狭い世界に閉じこもることを嫌い、パリでは作家のヘミングウェイやヘンリー・ミラーなどとも交流があった。

1930年代からはバルセロナ、パリ、マリョルカ島(スペイン領)のパルマ・デ・マリョルカにアトリエを持ち制作した。1944年からは陶器や彫刻の制作を始め、作品の幅を広げていく。1956年にはパルマに大規模なアトリエを造り、作品の規模も大きくなっていく。また、このアトリエでは絵画以外の分野の職人との共同制作を行い、陶器、壁画、彫刻などを次々と生み出した。晩年にはコンクリート製の大型彫刻や壁画などのパブリック・アートの大作を数多く残している。1970年には日本万国博覧会(大阪万博)のガス館に陶板壁画『無垢の笑い』を制作するため来日した。1983年、アトリエのあるパルマで死去した。

愛知県美術館には「絵画」(1925)が、福岡市美術館には「ゴシック聖堂でオルガン演奏を聞いている踊り子」(1945)が、岐阜県美術館には「人と月」(1950)が収蔵されている。

写真は僕が描いた模写「空色の黄色」だよん…エヘ(^-^)/




あじろがさ(網代笠)

2013-03-21 10:46:49 | 日記

網代笠(あじろがさ)・行脚や托鉢のときに用いる。


一椀の自鉢を持ち、ただ一人諸方を托鉢行脚して食を乞い一人歩く修行者として

の境涯をいうが、一軒一軒周りながら小さな恵みを受けながら、おかげを受けながら

生かされていることの有り難さを味わう。


これは単に僧侶の行としてのみの言葉であると考えては

禅語としての味わいは無い。たとえば営業マンとして、

一軒一軒のお客様を回り物を売るなど、地道な努力がいる

ものである。多くの顧客に支えられて自らの成績は上がり、

会社は成り立つ。一社のみとの大きな取引も有り難いが、

共倒れ等の危険も含む。むしろ小さな多くの取引のお客に

支えられていることのほうがより安定した会社経営となる

ものである。昔、銀行の頭取がこの「一鉢千家飯」の語を

用いて社員へ対して、大取引先ばかりに目を向けるのでなく、

一人一人の小さなお客様を大切にして回ることを訓示と

していたという。


托鉢はいわゆる行乞であり、乞食の行で古代インドから伝わる出家修行者の

生活の糧であると共に、修行手段でもあった。大徳寺の開山・大燈国師さまも

五条の橋の下で乞食の仲間に身を投じて下座乞食行をされている。純粋に人様

の恵みを受ける上においては己を虚しくなければ出来難い行でもある。


日本においては網代笠(あじろがさ)を深くかぶるのが普通

であるが、それには、三輪清浄(さんりんしょうじょう)の精神が

生かされているのだ。三輪清浄とは「施す人」と「施される人」

と「施しされる物」、その三者には互いに何の執着も利害関係

を持たない清浄な関係と云う意味である。だから行乞にでる

とき修行者は深く網代笠かぶり、顔を隠して施す人と施しを

受ける人が顔を見合わせることを防いできたことである。

見合わせなければ、誰からもらったとか、誰にやったとか

いう利害関係は生じない、純粋な施しがなされるからである。


布施は恵み施す行為であり、相手を思いやる心であり、無償の行為で、見返り

や何かの功徳を求める気持ちがあってはならない。自ら施しの行を通して、施しの

喜びを味わい、また執着、物欲からの解放されていく大事な仏行である。


http://www.jyofukuji.com/index.html




加藤和彦と北山修 あの素晴しい愛をもう一度(ライヴ)

2013-03-21 09:05:34 | 日記
加藤和彦と北山修 あの素晴しい愛をもう一度(ライヴ)


命かけてと 誓った日から
すてきな想い出 残してきたのに
あの時 同じ花を見て
美しいと言った二人の
心と心が 今はもう通わない
あの素晴らしい愛をもう一度
あの素晴らしい愛をもう一度

赤トンボの唄を 歌った空は
なんにも変わって いないけれど
あの時 ずっと夕焼けを
追いかけていった二人の
心と心が 今はもう通わない
あの素晴らしい愛をもう一度
あの素晴らしい愛をもう一度

広い荒野に ぽつんといるよで
涙が知らずに あふれてくるのさ
あの時 風が流れても
変わらないと言った二人の
心と心が 今はもう通わない
あの素晴らしい愛をもう一度
あの素晴らしい愛をもう一度

忘れません

2013-03-21 08:57:16 | 日記
高山厳 忘れません


忘れません

作詞 高山厳
作曲 高山厳

覚えていますか 貴方は夜の遅くまで
僕らの為に編み物していたね

忘れません貴方の愛の深さは
いつまでも僕らの心のともしびとして

妹達もずい分大人になって
一人で生きて来たと思い違いするけど

忘れていません貴方が育ててくれた
今でも時々夢の中で会える人

誰も知らない 誰にも教えたくない かなしさ

知っていますか 兄きも嫁をもらい
すべてが変わってゆくけど 貴方は居ない

今では会えない母よ貴方は
何処で見ていてくれるのだろうか

誰も知らない 誰にも教えたくない かなしさ