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Billy Joel - Just The Way You Are

2013-03-27 12:37:11 | 日記
Billy Joel - Just The Way You Are


ビリー・ジョエル(Billy Joel, 1949年5月9日 - )は、アメリカのニューヨーク州サウス・ブロンクス出身のロック歌手、ピアニスト、作曲家。本名ウイリアム・マーティン・ジョエル(William Martin Joel)。ポップで親しみやすいメロディ・ラインと、大都会に生活する人々を描いたメッセージ性の強い歌詞で、1970年代後半から1990年代前半にかけてヒットを連発した。全世界で1億枚以上のレコード・セールスを記録し、アメリカでのレコード総売上第6位のアーティストとなっている。代表曲に、「素顔のままで」、「アップタウン・ガール」、日本での人気が高い「ストレンジャー」、「オネスティ」などがある。

デビューに至るまで

ナチスから逃れるためドイツ南部からスイスを経てアメリカに亡命したアシュケナジム系ユダヤ人のハワード・ジョエルを父として、宝石商を営んだイギリス系ユダヤ人のハイマン(HeimanまたはHyman)家の娘を母としてニューヨーク市ブロンクスに生まれ、ロングアイランドの新興住宅地に育つ。

父はクラシック音楽のピアノ演奏に長けており、ビリーも母の要求で幼時にピアノを習い始めた。スポーツより音楽に興味があったため、少年時代はいじめを受け、自衛のためにボクシングを習っていた。短期間、アマチュアのボクサーとして試合に出場し、22勝の戦歴を重ねたこともあるが、24回目の試合で鼻の骨を折られたためにボクシングの道を断念した。

14歳の頃に、エコーズという名のバンドに参加。ヒックスヴィル高校に学んだが、バーでピアニストとして働いていたために英語の単位を落とし、中退を余儀なくされた。「俺はコロンビア大学に行くんじゃなくてコロムビア・レコードに行くんだから高卒の資格なんか必要ない」と言い放ち、最終的には事実コロムビア・レコードと契約した。中退から25年後の1992年、ビリーは同校にエッセイを提出して卒業資格を認定されている。

ミュージシャンとしては、故郷のロングアイランドを拠点に活躍していたハッスルズのメンバーとして活動した後、彼と共にグループ内で活動していたドラマーのジョン・スモールとのユニット、アッティラを結成して2枚のアルバムを発表。しかし、アッティラは鳴かず飛ばずのままで結局解散してしまう。当時ジョエルは鬱病に悩まされており、極度の神経衰弱から精神病院に入院している。

初期

アーティ・リップという人物に才能を見出されて契約を交わし、彼のプロデュースによって制作された1971年のアルバム『コールド・スプリング・ハーバー』で、ビリー・ジョエルはソロ・デビューする。しかしながらこのアルバムは、所属レコード会社による勝手な判断で録音テープの再生速度を上げられてしまい全く別人のような歌声で発表された。不本意な内容の上ヒットにも至らず、人間不信から鬱病が進行し自宅に引き籠りがちになってしまう。発売後にジョエルは、後に妻となるマネージャーのエリザベス・ウェーバーと共にロサンゼルスに移住している。

ビル・マーティンという名前でクラブを中心にライヴ活動を行った彼は、その後コロムビア・レコードと契約を更新。そして、1973年にアルバム『ピアノ・マン』で再デビューを果たす。表題曲が全米トップ30のスマッシュ・ヒットとなったことによってこのアルバムはセールスを伸ばし、彼にとって初となるゴールド・ディスク認定作品となった。『ピアノ・マン』と同じくマイケル・スチュアートがプロデュースを手がけた1974年発表のサード・アルバム、『ストリートライフ・セレナーデ』もゴールド・ディスクに認定されている。

1975年には、4枚目のアルバム『ニューヨーク物語』を制作する。このアルバムは、当初シカゴのプロデューサーだったジェイムズ・ウィリアム・ガルシオがプロデューサーとして携わっていたが、最終的にジョエル1人によって仕上げられた。翌年にリリースされ、彼にとってキャリア中唯一のセルフ・プロデュース作品となったこのアルバムは、後にヒット曲となる「さよならハリウッド」「ニューヨークの想い」などを収録しながらも、商業的には不振に終わっている。

『ストレンジャー』の成功

1977年に発表された5枚目のアルバム『ストレンジャー』は、彼を一躍スターダムへとのし上がる大きな成功を収めた。ポール・サイモンのグラミー賞受賞作『時の流れに』などを手がけたフィル・ラモーンをプロデューサーに起用して制作されたこのアルバムは、全米2位まで上昇する大ヒットを記録[10]。アメリカでは、2003年に各フォーマット総合で1,000万枚以上も売り上げ、ダイアモンドディスクに認定された。

「ストレンジャー」は、日本の70年代のディスコブームで、統一振り付けでそろって踊られた。曲冒頭の口笛が特徴的である。

出世作となった『ストレンジャー』にも収められていたのが、全米3位を記録した「素顔のままで」である。この曲は、1978年度のグラミー賞で最優秀楽曲賞と最優秀レコード賞を受賞し、彼にとって30年以上のキャリアの中で最大級のヒット曲となっている。

1978年には、アルバム『ニューヨーク52番街』を発表。このアルバムで、彼は初の全米チャート1位を獲得しただけでなく、同年度のビルボードの年間アルバムチャートでも首位を記録した。グラミー賞の最優秀アルバム賞と最優秀ポップ・ヴォーカル・パフォーマンス賞の二部門を受賞するなど、その内容も高く評価されたこのアルバムは、1982年に世界で初めてコンパクト・ディスクとして発売された音楽作品としても知られている。

2枚のアルバムの成功を受け、1978年初来日公演が実現、翌年の来日公演では日本武道館2日間と日本で彼の人気が爆発した。

1980年代前半

『ストレンジャー』『ニューヨーク52番街』の成功の後、1980年には『グラス・ハウス』が発表された。これまでのジャズを基調とした洒脱な作風から路線変更し、よりソリッドなサウンドに徹したこのアルバムでジョエルはグラミー賞の最優秀ロック・ヴォーカル・パフォーマンス賞を受賞する。3年連続で同賞を受賞した彼は常連の候補者となり、以後1983年の『イノセント・マン』まで連続してノミネートされている。また、『グラス・ハウス』からは5曲がシングルカットされたが、そのうち「ロックンロールが最高さ」は、彼にとって初の全米シングルチャート1位記録曲となった。

1981年には、初のライヴ盤『ソングズ・イン・ジ・アティック』をリリース。ブレイク前の初期の作品のライヴテイクを集めたこのアルバムは、アメリカと日本でトップ10ヒットとなり、ライヴ盤としては極めて大規模な成功を収めた。

『ストレンジャー』のヒット以降順調に活躍していたジョエルにとって、1982年は数多くのトラブルに見舞われた年となった。『ナイロン・カーテン』の制作を開始した4月にはオートバイ事故を起こし、左手首に重傷を負う。1か月の入院を要した彼はアルバムのレコーディングを一時休止せざるを得なくなった。また、マネージャーとしてもジョエルを支え続けてきた妻のエリザベス・ウェーバーとの夫婦仲も拗れていた。結局、ジョエルの財産の半分を慰謝料として受け取ることを条件に、彼とウェーバーは1983年7月に離婚に至っている。これらの私生活での様々なトラブルが影響してか、1982年の9月にリリースされた『ナイロン・カーテン』は、アメリカが当時抱えていた社会問題をテーマにした、極めてシリアスな作品となっている。

数々の災難が続いた彼だが、1982年に行われたツアー後のオフで滞在したサン・バルテルミ島で出会ったスーパーモデル、クリスティ・ブリンクリーと交際を始める。彼女がプロモーション・ビデオにも出演して話題となった1983年のシングル「アップタウン・ガール」は、これまで彼にとって主要なマーケットではなかったイギリスで大ヒットし、初の全英チャート首位に輝いた。この曲は、2001年にはウエストライフによってカヴァーされ、再びイギリスのヒットチャートの1位を記録している。

「アップタウン・ガール」が収められた1983年の『イノセント・マン』は、彼が10代の頃に慣れ親しんだ1950年代から60年代にかけてのオールディーズを基盤とした楽曲を中心に構成された極めてポップな作品である。このアルバムからは収録曲の半分以上の6曲がシングルカットされ、すべて全米トップ40ヒットになっている。『イノセント・マン』は、アメリカや「アップタウン・ガール」で人気に火がついたイギリス、日本などを中心にセールスを伸ばし、最終的に全世界で800万枚以上を売り上げる大ヒットとなった。

1985年には初めてのベスト盤となる『ビリー・ザ・ベスト』をリリース。彼の12年のソロ・アーティストとしての軌跡を総括するこの2枚組アルバムは、アメリカで歴代5位の2,100万枚を売り上げたとされ、AC/DCの『バック・イン・ブラック』とタイ記録である。

1980年代後半 - 1990年代前半

ジョエルとブリンクリーは1985年3月23日に結婚し、同年12月には娘のアレクサ・レイ・ジョエルが誕生した。アレクサのミドルネーム"レイ"は、彼自身の憧れの存在だったレイ・チャールズにあやかってつけたものだった。1986年発表の「ベイビー・グランド」では、そのチャールズとのデュエットで大きな話題を呼んだ。この曲が収録されたアルバム『ザ・ブリッジ』では、ジョエルはほかにもシンディ・ローパーやスティーヴ・ウィンウッドらと共演している。

『ザ・ブリッジ』を最後に、ジョエルは『ストレンジャー』以来ずっとプロデューサーを務めてきたフィル・ラモーンとのタッグを解消する。また、バックバンドのメンバー編成にも新しい顔ぶれを起用し、1987年には新たにコンサート・ツアーを行った。このツアーのハイライトとなったのが6回行われたソ連での公演で、述べ15万人もの観客を動員した。これらの公演を記録したビデオとライヴ・アルバムも発表された。

1988年にはディズニー映画『オリバー ニューヨーク子猫ものがたり』に声優として出演。チャールズ・ディケンズの小説『オリバー・ツイスト』が原作のこの映画で、彼はサントラ盤にも楽曲を提供している。

長年に渡ってジョエルの作品を手がけたラモーンに代わり、ミック・ジョーンズをプロデューサーに起用した彼は、1989年にアルバム『ストーム・フロント』を発表する。このアルバムからシングルカットされた「ハートにファイア」は同年の年間チャートで10位以内に入る大きなヒットを記録し、ジョエルにとっては3曲目となるビルボードのシングルチャート1位獲得作品となった。また、『ストーム・フロント』も彼にとって『グラス・ハウス』以来となる首位を獲得している。

それから4年後の1993年には、ダニー・コーチマーがプロデュースを務めた『リヴァー・オブ・ドリームス』を発表し、前作に続く全米1位を記録。シングル・カットされたタイトル・ソングも英米共にトップ3ヒットとなる。また、このアルバム発表に伴い、1995年には8度目の来日公演を1月19日に大阪城ホールで行うも、この時阪神大震災に遭遇、この日の公演の収益金の全額を、同震災での被災者に対して寄付している。

近年

2006年5月14日、シラキューズ大学から名誉博士号を授与されるビリー・ジョエル(中央に黒服を着て立っている男性)
『リヴァー・オヴ・ドリームス』発表後、ジョエルは現役ミュージシャンとしての活動からの引退を示唆する。以後、彼の活動はライヴを主体とするものとなった。1997年発表のベスト盤『ビリー・ザ・ベスト3』や1999年の映画『プリティ・ブライド』などに新曲として提供されたカヴァー曲以降、彼自身によるスタジオ録音作品は一切発表されていない。その一方で彼は、ライヴ盤を2作リリースしている。いずれも、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで行われたライヴを記録した2枚組のアルバムで、2000年の『ビリー・ザ・ライヴ』には前年末に行われたカウントダウンライヴの模様が、2006年の『12ガーデンズ・ライヴ』には同年1月から12回に渡って同会場で行われたライヴの抜粋が収録されている。

半引退状態になってからのビリー・ジョエルの代表的な仕事が、1994年に初めて行われたエルトン・ジョンとのジョイント・ツアー「フェイス・トゥ・フェイス」である。長年ジョエルがエルトン・ジョンにオファーし続けていたというこの企画は、その後10年近くに渡って幾度も行われた。なお、2000年以降2人が新曲を録音したという噂もあるが、今のところ発表には至っていない。

ポピュラー音楽からの引退を宣言した一方で、彼はクラシック音楽への路線変更を試み、2001年に初のクラシック作品『ファンタジーズ・アンド・デリューションズ』をリリースした。朝鮮系イギリス人のピアニスト、リチャード・ジューによる演奏をフィーチャーしたこのピアノ曲集は、ビルボードのクラシック専門チャートで18週に渡って首位を記録した。しかしその後は、アルコール依存症や鬱病が原因で入院したり、3度の交通事故を起こしたりと、私生活で数多くのアクシデントに見舞われている。

2004年の10月にはテレビなどで活動する23歳のタレント、ケイティ・リーと再婚、話題を呼んだ(2009年に離婚)。 2005年に未発表曲やレア曲を中心としたコンピレーションBOX『マイ・ライヴ』をリリースし、それに合わせ本格的なライヴ活動を再開、マディソン・スクエア・ガーデンでは12公演連続ソールドアウトの新記録を打ち立てた。以降、欧州、南アフリカ、オーストラリアツアーを経て2006年11月より8年振り10度目の日本公演に臨み、全盛期と変わらぬパフォーマンスを繰り広げてファンを熱狂させた。 2007年2月27日、クラシック作品を除けば14年ぶりとなるオリジナル曲「All My Life」をリリース、3月17日付のビルボード・シングルセールスチャートで初登場1位を記録した。

2008年7月、取り壊しが決まったニューヨークの野球場シェイ・スタジアムの幕締めコンサートを実施した。シェイ・スタジアムで最初にコンサートをしたビートルズのポール・マッカートニーがゲスト参加した。この模様はDVD/Blu-rayで発売された。

Elton John "Your Song" '71 clip

2013-03-27 12:27:17 | 日記
Elton John "Your Song" '71 clip




ちょっとおかしいんだ。 この胸の奥の感じ。
ボクは感情がすぐに顔に出るタチでね。

ボクは金なんてあまりないけど もしあったら
大きな家を買うよ。 二人が住めるような家をね。

もしボクが彫刻家なら なんて思うけど無理だよね。
それとも旅回りの薬売りだったら―。

大した物じゃないのはわかっているけど これで精一杯なんだ。
ボクの贈り物はボクが作ったこの歌。 君にあげよう。

みんなに言っていいんだよ。 「これは俺の歌だ」って。
えらく簡単な歌かもしれないけど できたてさ。

気にしないでくれよ。
気にしないでくれよ。 こんなこと書きとめたけど。

なんて人生は素晴らしいんだ 君がこの世にいるのなら。

ボクは屋根に座って 苔をけちらした。
詞の2,3行は 気に入らないけれど

日和は穏やかだった この歌を書いてる間―。
この歌は君みたいに ずっと気に入ってくれる人のために作ったんだ。 

で 忘れてごめん。 ボクが忘れてしまったそいつが,ね。
ほら 思い出せないんだ。 それがグリーンなのかブルーなのか。

ともかく 大事なのはボクの本気の言葉。
君の目のような優しい目を 今まで見たこと

みんなに言っていいんだよ。  「これは俺の歌だ」って。
えらく簡単な歌かもしれないけど できたてさ。

気にしないでくれよ。
気にしないでくれよ。 こんなこと書きとめたけど。

なんて人生は素晴らしいんだ 君がこの世にいるのなら。


悲しき天使/メリー・ホプキン Those Were The Days/Mary Hopkin

2013-03-27 10:29:12 | 日記
悲しき天使/メリー・ホプキン Those Were The Days/Mary Hopkin


メリー・ホプキン(Mary Hopkin, 1950年5月3日 - )は、英国の歌手。


ウェールズ出身でウェールズ語を母語に育ち、民謡歌手として音楽活動に入る。地元のインディーズ・レーベルでいくつか録音を残した後、ツイッギーに見出されて、ビートルズのアップル・レコードと契約する。アップル所属時代は、その容姿や美声から「アップルの歌姫」と呼ばれた。

ポール・マッカートニーがプロデュースしたシングル《悲しき天使 (Those Were the Days )》は、1968年8月30日にイギリスで発表され、有名なスター、サンディ・ショーと競作する格好となったにもかかわらず、彼女の録音が全英シングル・チャートの首位に輝き、全米シングル・チャートでも第2位を射止めた。

1969年2月21日に、やはりマッカートニーのプロデュースによるアルバム第1作『ポストカード』を発表。アルバム・セッションに参加したドノヴァンから3曲をカヴァーしているほか、ジョージ・マーティンやハリー・ニルソンの作品も1曲ずつカバーしている。

シングル第2作は、レノン=マッカートニー作詞・作曲(実際はマッカートニー単独の作品)の《グッドバイ (Goodbye)で、1969年3月28日に発表され、全英シングルチャートで第2位に輝く(当時の第1位はビートルズの「ゲット・バック」であった)。「グッドバイ」はビートルズの海賊盤で出回ったことがあるものの、公式にビートルズが発表したことはなかった。