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1950年6月25日明け方の4時、北朝鮮軍が38度線を越え南下してきた。この時の砲声が、6.25動乱、朝鮮戦争の始まり、と言われている。
しかしこの事実を、北はアメリカと李スンマン傀儡政権の挑発だ、と今も言っている。
ぼくは小学校2年の時、当時通っていた地元の朝鮮学校閉鎖のあおりで 日本学校に強制編入された。4年間日本学校に在籍した後は、大学卒業まで民族教育を受けて来た。
この期間、アメリカがどの様に戦争を画策してきたか、一時北を占領したときにどのような良民虐殺の蛮行を働いたのかを、繰り返し習ってきた。
恐らく今でもそう教えているであろう。在日の一部では疑念を抱きながら、今もそのことを信じている方たちもおられるであろう。
歴史上の大事件が、そのままに認定され万人に支持されることは、哀しいかな極まれである。特に朝半島情勢では、いつも理念に左右され事実が歪曲、脚色されることが多い。直近では昨年の天安艦沈没事件…。
7.4共同声明のあった1970年代、突然の声明に驚き、狂喜したのも束の間、南は維新体制に、北は首領体制(金日成神格化など4大原則)に急カーブした。ぼくの今日は、その時に芽生えたのかも知れない。このままだと南北の壁は途方もなく高く強固に築かれる、と。そして、当時韓国の学生たちの中ではやったマダン劇から、日本でもなにか出来ないかと、仲間たちとマダン企画をはじめた。境界線のないマダン劇の舞台で、南も北も日本人も心を通じ合えば、この途轍もない壁に針の一穴を開けることができるのでは、と。
余りにも純真?で世間を知らないこの行為は、東京脱出・故郷豊橋での新生活の開始で幕を閉じた。
組織と、これまでの人間関係を断ち、20数年が過ぎた。そして出会った三千里鐡道。都相太理事長とは、通った朝鮮学校も同じ。同じ風景を見ながら、同じ空気を吸いながら育ったが、その後それぞれの人生を歩んだ。ぼくにとっては彷徨の末の宿命的な出会いでは、と勝手に思っている。今更ながら70を目前にして、三千里鐡道に会えたことを幸運に思っている。
昨年念願の韓国長期滞在を果たした。世宗文化会館裏通りビル6F統一ニュース事務所の書庫から、50年代に北から派遣されたスパイ、非転向者とのインタビュー記事が書籍になっていた。金編集局長の選んでくれたこの本、相当読まれたのか表紙がボロボロだ。それにカバーを被せた。
インタビュアーが問う。
6.25動乱はどちらが起こしたのか?
答ーいつ、誰が銃を最初に撃ったのかは、そんなに問題にならない。4.3事件、麗水暴動、それを封じるための米・李の血の弾圧, そして各地で小さな戦争(小競り合い)が頻発していた。北進も度々あった。…
この回答に、ぼくのわだかまりが少し解れた。あの戦争を祖国解放戦争、正義の戦争とする見方も、戦争の元凶を糾弾し韓国の正統性・北との対決を主張する見方もすべて包括して、6.25の記念日を対話と協商、融和と統一の機会にすべきであろう。
昨日MBが6.25有功者の前で演説した。ペク将軍の例を挙げ、祖国を守る大切さを訴えた。この現在92歳の戦争英雄は、満州で独立志士たちを掃蕩虐殺した親日派、解放後知里山パルチザンをも掃蕩、虐殺した。そのペク将軍を6.25の英雄として今日からKBSで2回に分けて放送するという。当然放送中止を求める抗議がKBSに集中したが、どうなることやら…。
今後ぼくのできることは、そんなに多くはない。ぼくの人生の中で、まだ消えずに残っている微かな残り火を、大切に燃やし続けようと6.25の朝に思う。N
しかしこの事実を、北はアメリカと李スンマン傀儡政権の挑発だ、と今も言っている。
ぼくは小学校2年の時、当時通っていた地元の朝鮮学校閉鎖のあおりで 日本学校に強制編入された。4年間日本学校に在籍した後は、大学卒業まで民族教育を受けて来た。
この期間、アメリカがどの様に戦争を画策してきたか、一時北を占領したときにどのような良民虐殺の蛮行を働いたのかを、繰り返し習ってきた。
恐らく今でもそう教えているであろう。在日の一部では疑念を抱きながら、今もそのことを信じている方たちもおられるであろう。
歴史上の大事件が、そのままに認定され万人に支持されることは、哀しいかな極まれである。特に朝半島情勢では、いつも理念に左右され事実が歪曲、脚色されることが多い。直近では昨年の天安艦沈没事件…。
7.4共同声明のあった1970年代、突然の声明に驚き、狂喜したのも束の間、南は維新体制に、北は首領体制(金日成神格化など4大原則)に急カーブした。ぼくの今日は、その時に芽生えたのかも知れない。このままだと南北の壁は途方もなく高く強固に築かれる、と。そして、当時韓国の学生たちの中ではやったマダン劇から、日本でもなにか出来ないかと、仲間たちとマダン企画をはじめた。境界線のないマダン劇の舞台で、南も北も日本人も心を通じ合えば、この途轍もない壁に針の一穴を開けることができるのでは、と。
余りにも純真?で世間を知らないこの行為は、東京脱出・故郷豊橋での新生活の開始で幕を閉じた。
組織と、これまでの人間関係を断ち、20数年が過ぎた。そして出会った三千里鐡道。都相太理事長とは、通った朝鮮学校も同じ。同じ風景を見ながら、同じ空気を吸いながら育ったが、その後それぞれの人生を歩んだ。ぼくにとっては彷徨の末の宿命的な出会いでは、と勝手に思っている。今更ながら70を目前にして、三千里鐡道に会えたことを幸運に思っている。
昨年念願の韓国長期滞在を果たした。世宗文化会館裏通りビル6F統一ニュース事務所の書庫から、50年代に北から派遣されたスパイ、非転向者とのインタビュー記事が書籍になっていた。金編集局長の選んでくれたこの本、相当読まれたのか表紙がボロボロだ。それにカバーを被せた。
インタビュアーが問う。
6.25動乱はどちらが起こしたのか?
答ーいつ、誰が銃を最初に撃ったのかは、そんなに問題にならない。4.3事件、麗水暴動、それを封じるための米・李の血の弾圧, そして各地で小さな戦争(小競り合い)が頻発していた。北進も度々あった。…
この回答に、ぼくのわだかまりが少し解れた。あの戦争を祖国解放戦争、正義の戦争とする見方も、戦争の元凶を糾弾し韓国の正統性・北との対決を主張する見方もすべて包括して、6.25の記念日を対話と協商、融和と統一の機会にすべきであろう。
昨日MBが6.25有功者の前で演説した。ペク将軍の例を挙げ、祖国を守る大切さを訴えた。この現在92歳の戦争英雄は、満州で独立志士たちを掃蕩虐殺した親日派、解放後知里山パルチザンをも掃蕩、虐殺した。そのペク将軍を6.25の英雄として今日からKBSで2回に分けて放送するという。当然放送中止を求める抗議がKBSに集中したが、どうなることやら…。
今後ぼくのできることは、そんなに多くはない。ぼくの人生の中で、まだ消えずに残っている微かな残り火を、大切に燃やし続けようと6.25の朝に思う。N
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