NPO法人 三千里鐵道 

NPO法人 三千里鐵道のブログです。記事下のコメントをクリックしていただくとコメント記入欄が出ます。

国家情報院の罪を問う

2015年07月27日 | 三千里コラム

国家情報院の庁舎



国家情報院(以下、国情院)は周知のように、韓国情報機関の中枢です。軍や警察の公安部門にも情報機関がありますが、その規模と能力において、国情院に匹敵するものではありません。その前身は、朴正熙の軍事クーデター(1961.5.16)翌月に設立された中央情報部です。米国CIAに倣ってKCIAと呼ばれました。民主化運動や平和統一運動を苛酷に弾圧することで朴正熙政権は18年もの長期間に及びましたが、それを可能にした要因の一つはKCIAの存在です。

国情院はまた、朴槿恵政権を誕生させた第一功臣でもありました。2012年の大統領選挙における世論操作です。最近、国情院が民間人の携帯電話やパソコンをハッキングしているとの疑惑が浮上しています。国情院は2012年2月、イタリアのソフトウェア会社から強力なハッキング・プログラムを購入し、対象者のコンピュータやスマートフォンによるインターネット活動を監視してきました。言うまでもなく、明白な違法行為です。

国情院は否定していますが、国民の多数はその釈明を信用していません。というのも7月6日、肝心のソフトウェア会社がハッキングされて顧客情報が流出し、国情院との詳細な契約内容が暴露されてしまったからです。領収証の宛先住所が国情院の私書箱だったいう、笑えないエピソードまでありました。国情院はこのハッキング・プログラムが“北朝鮮の情報収集が目的だった”と、苦しい弁明に終始しています。国会でも論議されていますが、当事者の一人が自殺したこともあって、ウヤムヤに終わらせるようです。

国情院は大統領直属の機関で、予算の規模や用途すら明確ではありません。南北分断の現状がもたらした、最大の既得権勢力とも言えるでしょう。「国家」を標榜していますが、「国民」ではなく「権力」に仕える情報機関として、国情院は昔も今も忠実に機能しているのです。その国情院の実態を指摘した記事がありましたので、翻訳して紹介します(JHK)。
参照記事=http://www.ohmynews.com/NWS_Web/View/at_pg.aspx?CNTN_CD=A0002123333


恥を知らぬ国家情報院-捏造事件の自画自賛


とんでもない事実を初めて知ったのは去る2月のことだった。私は当時、仕事の関係でソウル市瑞草区内谷洞に位置する国家情報院を訪問した。その時、担当職員の案内を受けて入った国情院の広報館で、思いがけない記録を見ることになったのだ。目にしたのは、国情院の母体であるKCIAから今日に至るまでの「主要沿革資料」だった。

1961年6月、中央情報部(以下、KCIAと略す)が創設される。初代部長は、国会議員9選後に政界引退したキム・ジョンピル。沿革資料では、多くの人々を恐怖に陥れた「我らは日陰で活動し陽地を目指す」という中情の部訓が制定されたのが、同年9月だと広報パネルに記されていた。そして年表を読み進むうちに、とんでもない記録を見ることになった。それは、悪名高いKCIA時代の「対共功績」を記録した内容だった。

国情院が自ら認めた捏造-「東ベルリン・スパイ団事件」 

悪名高かったKCIAが、朴正熙独裁権力下で摘発した公安事件は枚挙にいとまがない。代表的な事件の一つが「人民革命党事件」だ。1964年に一次人民革命党事件があり、10年後の1974年には、二次人民革命党再建委事件が大々的に発表された。二度の事件で多くの人が拘束されたし、特に二次の人民革命党再建委事件では、8名が死刑を執行されている。だが、この事件は後日、全員に無罪が宣告された。再審の結果、KCIAが拷問捜査によって捏造した事件だと明らかになったのだ。

「人民革命党事件」の他にも、KCIAによる代表的な捏造事件として、以下の三件を挙げることができる。先ず、1967年7月に発表された「東ベルリン・スパイ団事件」だ。

KCIAは当時、“ドイツとフランスに留学した学生と海外同胞など194人が、東ベルリンの北朝鮮大使館で、更にはそこを経由しピョンヤンに行ってスパイ教育を受けた”と発表した。世界的な作曲家であるユン・イサン先生やイ・ウンノ画伯などが、この事件で「スパイ」に仕立てられた。また、チョン・サンビョン詩人も捜査過程で受けた拷問の後遺症に、死ぬまで苦しんだという。 

だが、国情院がKCIA時期に達成した「対共功績」と自慢するこの事件は後日、KCIAによる捏造だったと明らかになる。注目すべきは、捏造を糾明した機関が他でもない国情院自身だったという事実だ。2006年1月26日、「国情院・過去事件の真実糾明による発展委員会」は記者会見を開き、“内部調査の結果、KCIAが発表した「東ベルリン・スパイ団事件」は、それ自体が捏造だった”と告白した。 

真相は次のとおりである。1967年に実施された国会議員総選挙で、執権与党・共和党は大規模な不正選挙を行う。連日、大学生の激しい抗議デモが続くので、それを鎮めるために事実を歪曲・誇張してでっち上げたのが「東ベルリン・スパイ団事件」だった。真相が明らかになったとして「国情院発展委員会」は、政府が被害者に謝罪することを勧告した。

ところが、このように自ら告白した「東ベルリン・スパイ団事件」に関して国情院広報室は、訪問客を相手にKCIA当時の「対共功績」として宣伝しているわけだ。‘呆れて物が言えない’とは、こんな場合に使うのだろう。だが、これはまだ‘手始め’に過ぎなかった。国情院は1974年2月当時、KCIAが発表した「鬱陵島(ウルルンド)スパイ団事件」も、「対共功績」と宣伝していたからだ。第二の捏造事件だが、果たしてこの事件の真相はどうだったのか? 

再審で無罪判決の「鬱陵島スパイ団事件」

1974年3月15日、KCIAは緊急記者会見で「鬱陵島スパイ団事件」を大々的に発表する。鬱陵島を拠点とするスパイ組織が、一網打尽されたとのことだった。夫と妻、息子など家族と親戚まで網羅したスパイ組織として、47人が検挙された事件だ。

国民は当然ながら驚愕した。“一家族が鬱陵島・ソウル・釜山・大邱・全北の地域で暗躍しながら北朝鮮を往来するスパイ活動をしていた”というのだから、社会的にどれくらい大きな衝撃を与えたことだろうか。この事件で3人には死刑判決が確定し、死刑が執行された。また、拘束者のうち相当数が、懲役10年以上の厳重な処罰を受けた。起訴内容が事実であったなら、“スパイを捕らえる公安機関としては自慢すべき成果”と言えるだろう。 

だが、驚くべきことにこの事件も、KCIAによる代表的な捏造公安事件だったことが明らかになった。事件後に拘束者と家族たちは、死んでも死に切れない悔しさを抱きながら生き延びた。自分たちがしてもいないのにKCIAが捏造し、スパイの汚名を着せられたからだ。

転機が訪れたのは2006年7月26日だった。この事件の1審で死刑、2審で無期懲役を宣告された全北大学獣医学科のイ・ソンヒ元教授が、「真実・和解のための過去事件整理委員会(以下、真実和解委)」に自身の無実を訴えたのだ。それから4年が過ぎ去た2010年6月30日、「真実和解委」は元教授の陳情に対する調査結果を発表した。この事件を“KCIAによる捏造事件”と判断した「真実和解委」は、“不法拘禁および苛酷な拷問により捏造した事件の被害者に対し、国家が謝罪し再審の措置を取るよう”に勧告した。

2010年12月に再審を請求したイ・ソンヒ元教授に、大韓民国の裁判所は2013年6月、再審開始の決定を下す。そしてついに2014年12月11日、大法院(最高裁)はイ・ソンヒ元教授に無罪を宣告した。何と、40年ぶりに真実が糾明されたのだ。大法院はこれ以後、再審を請求した「鬱陵島スパイ団事件」の関連者に相次いで無罪判決を出している。以上が、朴正熙政権が鳴り物入りで宣伝した「鬱陵島スパイ団事件」の実体である。 

国情院が自慢する「功績」は全て捏造事件

国家情報院がKCIAの時期に達成した“3大対共功績”の最後は、1975年11月に発表した「学園浸透スパイ団事件」である。最後の事件もやはり、恥ずべき内容だった。事件を簡単に整理すると次の通りだ。1975年11月22日、KCIAはキム・ドンフィ氏をはじめ在日同胞留学生12人と国内大学生9人など、21人をスパイ容疑で逮捕する。後日、「在日同胞学園浸透スパイ団事件」と呼ばれることになった事件の開始だった。

この事件で拘束された人たちのうち、4人は死刑宣告を受けた。他の拘束者にも重い懲役刑が宣告された。死刑判決を受けた4人はその後、赦免で減刑され「人民革命党再建委事件」のように死刑場で最後を迎える悲劇だけは免れた。事件発表初期からこの事件には、捏造だとの指摘が繰り返されていた。

その後、歳月が流れた。事件当時、懲役4年を受けて服役したキム・ドンフィ氏が無罪を主張して「真実和解委」に陳情したのは。2006年のことだった。そして2010年5月18日、「真実和解委」は4年ぶりにその結果を発表する。結論は‘やはり’だった。「真実和解委」は事件当時、“KCIAが逮捕令状もなしにキム・ドンフィ氏らを不法連行し、20日間もの不法拘禁状態で、殴打などの苛酷行為と拷問により虚偽の自白をさせた”ことを明らかにした。 

その後、キム・ドンフィ氏は「真実和解委」の決定を根拠として裁判所に再審を請求する。そして2012年5月24日、大法院はついに無罪判決を確定した。結局、国情院が自慢してきたKCIA時代の誇らしい「3大功績」は全て、“拷問と強圧捜査がもたらした典型的な公安捏造事件”だったわけだ。 

国情院がKCIA時期の「対共功績」として誤った広報を続けている事実を確認した私は、日程の最後に国情院の高位責任者に問題を提起した。“広報館に設置された「国家情報院の主要沿革」にあるKCIA時期の功績は、その事件が全て再審で無罪になったことをご存じか?”と尋ねたのだ。 

特に、2006年に国情院自ら捏造を認めた「東ベルリン・スパイ団事件」を、9年が過ぎた今でも「功績」として広報するのはいかがなものかと問い詰めた。すると関係者は“広報館にそのような内容があるのか?”と聞き返した。“確認して事実なら修正する”と答えた。

関係者の明確な答弁に安心した私は、それ以上の問題提起をしなかった。すぐにでも修正されるだろうと思ったからだ。しかし、そうではなかった。驚くべきことに、事実を確認したはずの国情院には、何の変化もなかったのだ。

国情院のホームページには、捏造無罪事件が相変らず記載

今年2月にこの問題を提起した後、私はすっかり忘れていた。明確に指摘したので、国情院が速やかに修正するだろうと信じたのだ。そうこうするうちに最近、‘ひょっとして’と疑念が浮かび始めた。それで国情院のホームページに入って「国家情報院歴史」のメニューから「主要沿革」をクリックした。結果は‘失望’だった。 

国情院の公式インターネット・ホームページのうち、関連内容は去る2月当時と全く変化がなかった。相変らず「1967年東ベルリン事件」と「1974年鬱陵島スパイ団事件」、そして「1975年学園浸透スパイ団事件」は、国情院がKCIA時期に達成した「偉大な対共功績」として堂々と記載されていた。

こんなことが許されていいのだろうか。大韓民国の法律により再審で無罪が宣告された事件に対して、しかも国情院が自ら捏造を認めた「東ベルリン事件」が、相変らず彼らの重要な「対共功績」の成果として堂々と記載されているとは、驚愕を禁じ得ない。国情院はいつまでこの問題を放置するのか訊ねたい。

怠惰のせいなのか、でなければ‘自分たちの捏造を認定できない’小心な抵抗なのか、正確な理由は分からない。前者なら反省しなければならないし、後者ならば、国家機関として有り得ないことだ。 

公安捏造事件の被害者たちが凄惨な法廷闘争を経て勝ち取った無罪が、国情院の広報館とインターネット・ホームページでは相変らず「有罪」として残っている現実は、悲しい。国情院の反省を促すとともに、早急な是正措置を強く要求する。それが、捏造された公安事件によって犠牲となった方たちに対し、国家情報院ができる最小限の道理であることを自覚すべきであろう。

*追記

紹介した上記の記事は7月1日付で『オーマイ・ニュース』に掲載されました。反響を恐れたのか、国情院は数日後にホームページ上で関連事件を削除しています。しかし、国情院が削除した経緯や自らの立場を明らかにしていないので、正確な削除の日付は確認できていません。無罪が確定した捏造事件に関して誤報を続けたにも拘らず、国情院が一言の謝罪もしていないことは責任の回避と言わざるを得ないでしょう。国情院は被害当事者に対し、真摯な謝罪を行うべきです。

朴槿恵大統領の「6.25クーデター」(続)

2015年07月16日 | 三千里コラム

辞任記者会見に臨むセヌリ党のユ・スンミン院内代表(7.8)



7月8日、セヌリ党は議員総会を開催しました。「非朴」派と「親朴」派の議員たちが激論を交わしましたが、朴槿恵大統領の威光には背けず、ユ・スンミン院内代表(院内総務)の辞任を勧告することで落着しました。ただ、票決の手続きを踏まずに“所属議員の総意”として引導を渡したところに、セヌリ党内部の複雑な事情がうかがえます。同日午後、ユ・スンミン院内代表は記者会見を開き、辞任を表明しました。

6月25日の国務会議で朴大統領は、ユ・スンミン院内代表を“背信者として裁かれるべき対象”と罵倒し、その粛清を指示しました。2週間後にようやく指令が完遂され、大統領は党内の“反乱”を制圧して「親衛体制」を敷いたことになります。朴槿恵大統領の権威は一時的に強化されたように見えますが、韓国の政党政治は軍事政権当時に後退しました。結局はその時代錯誤的な横暴がブーメランとなり、朴槿恵政権の「レームダック化」を促進することになるでしょう。

朴槿恵大統領の「意識時計」は、1970年代で止まったままのようです。「維新体制」と呼ばれた朴正熙政権の時代、三権の上に大統領が君臨し、反対勢力を容赦なく弾圧していた「統治」の時代です。1972年10月17日、朴正熙は戒厳令を宣布して主要施設と大学に軍を投入しました。国会を解散し大学を封鎖した状況で、終身大統領制を保障する「維新憲法」が導入されます。1961年に続く、朴正熙2度目のクーデターです。

帝王的大統領を志向するDNAは、そのまま長女に受け継がれたようです。朴槿恵大統領も政敵や権力内部の反対勢力を除去することに余念がありません。統合進歩党を強制解散させ、検察総長ですら指示に従わなかったことで地位を追われました。今回も、与党議員の総意で選出された院内代表を、大統領の“鶴の一声”で粛清したのです。軍事的手段の行使を除けば、絶対権力の確立を目指す「親衛クーデター」の本質は同じだと言えます。

“成功したクーデターは革命だ”と権力の簒奪者たちは正当化しますが、黙過できない憲法違反であり民主主義の破壊行為に他なりません。では、今回の朴槿恵「6.25クーデター」を憲法に照らして検証してみましょう。

大統領制は本来、行政府(首班は大統領)と立法府を厳格に分離し、相互に対等な関係を維持する「牽制と均衡の原理」を特徴とします。1987年6月の民主抗争によって改正された現行憲法も、この原理に立脚しており、大統領が立法府と執権党を支配下に置いた軍事政権期とは、明らかに区別されるものです。政治学者のパク・サンフン氏は次のように述べています。

「民主化以降、韓国では立法府の自律性と政党の責任性を強化してきました。与党が政府の運営において、大統領とともに実質的な責任を担う方向に進むべきです。朴槿恵大統領がユ・スンミン院内代表を辞退させたことは、わが国が民主化以降に進んできた方向とは明白に逆行するものです。」

朴槿恵氏は、大統領制の最も基本的な概念である「大統領と議会の分離」、「牽制と均衡」の原理を無視しています。しかし2015年の韓国社会は、大統領が与党幹部の生殺与奪権を行使した「維新体制」でもなければ、“気に入らない”臣下の首をすげ替えた「王政時代」でもありません。民衆が勝ち取った「民主共和制」の社会です。

セヌリ党の若手議員たちも、期待外れでした。“来年の総選挙を朴槿恵ブランドで戦うしか勝算がない”との脅しに屈し、大統領にひれ伏しました。自ら選出した院内代表が大統領の指令で追放される事態に対し、票決もせずに拍手で通過させてしまいました。彼らこそ「国民の審判」を恐れるべきでしょう。

一方、ユ・スンミン氏は初心を貫き、堂々と院内代表の職を降りました。以下に辞任記者会見の一節を紹介します。

「尊敬する国民の皆さん、党員の皆さん。私はきょう、セヌリ党議員総会の意を受け、院内代表の職を降ります。...国会議事堂に来る道すがら、この16年間に毎日くり返してきた問いを、きょうも自分に投げかけました。“私は何のために政治をするのか?”。

政治とは、現実に足を踏み入れ、開かれた心で崇高な価値を追求する仕事です。泥土に蓮を咲かせるように、いくら悪口を言われても世の中を変えるのは政治だとの信念で、私は政治家として活動してきました。

平素ならとっくに辞めていただろう院内代表に最後までこだわったのは、どうしても守りたい価値があったからです。それは法と原則、そして正義です。私の政治生命をかけて、“大韓民国は民主共和国である”と闡明した、憲法第1条1項の厳粛な価値を守りたかったからです。

いささか混乱を引き起こし不都合な事態になっても、誰かがその価値にしがみつき守りぬいてこそ、大韓民国は前進するのだと判断しました。過ぐる2週間、私の至らぬ固執によって国民の皆様にはご心配をお掛けしました。しかし、法と原則、そして正義の具現において少しでも寄与できたのなら、私はいかなる批難も甘んじて受けるつもりです。

...4月の就任演説で、“苦痛にあえぐ国民の立場で改革を進める。私が夢見る温かい保守、正義の保守の道を進む”と約束しました。その約束も果たせずに職を降りることは残念です。しかし、もはや院内代表ではありませんが、より切実な心で、私たちの夢をかなえる道を邁進していきます」。

ユ・スンミン議員の記者会見を聞きながら、一つの疑問が頭をもたげてきました。
「はたして、大韓民国は民主共和国なのか?」...(JHK)。

朴槿恵大統領の「6.25クーデター」

2015年07月04日 | 三千里コラム

国務会議で冒頭発言する朴槿恵大統領(6.25,青瓦台)



日本の国会では安全保障関連法案の審議が続いている。のらりくらりと野党の追及をかわしてきた安倍首相だが、ここに来て、盟友ともいうべき某作家の妄言(猛言?)で窮地に立たされることになった。

7月3日、衆院平和安全法制特別委員会で首相は「国民の皆様に申し訳ない気持ちだ。...大変残念で、沖縄の皆様の気持ちを傷つけるとすれば申し訳ない」と、珍しく謝罪している。アジア太平洋戦争に関して“反省はするが謝罪しない”安倍氏も、対米約束である安保関連法案の通過に向け、国民に謝罪するしか道がないと判断したのだろう。

一方、韓国の国会では、与野党の対立よりも与党内部の対決が、刻一刻と緊張の度を高めている。曲がりなりにも“謝罪のポーズ”を取った安倍首相に比べ朴槿恵大統領は、その辞書に“謝罪という文字が無い”ことで知られた政治家だ。多数の犠牲者を出した船舶事故や急性伝染病が発生しても、彼女は自身の責任を省みることがない。その代わりに担当者を厳しく叱責し、その担当者が平身低頭して自らの怠慢を大統領に詫びるのだ。

マーズが蔓延し支持率が急落していった6月16日、朴大統領は多数の患者を出した「サムソン・ソウル病院」の院長を巡視先に呼び出し、厳しく叱責した。責任者として防疫に専念すべき院長は忠清北道の保健所に出頭して、朴大統領に深々と腰を屈め「大統領と国民の皆様にご心配をかけ、誠に申しわけありません」と陳謝している。

こうした場面を演出することで、彼女は巧妙に“責任者から審判者に”すり替わる。セウォル号惨事の時もそうだった。全ての責任を船舶会社のオーナーと船長に押し付け、自身の責任を回避してきた。だが、国民が望むのは「謝罪する大統領」であって、「謝罪される大統領」ではない。

〈任期後半の政権が抱える宿命〉

頑なに謝罪を拒否する朴槿恵大統領だが、任期の中間点を過ぎた政権の実態は極めて深刻だ。危機の源泉は他でもない、大統領自身である。大統領の任期が5年1期の韓国では、3年目に入った政権に共通する一定のパターンがある。①大統領の支持率が30%台に低迷(朴大統領は29%まで低下)し、②国会議員総選挙が間近(来年4月)に迫り、③与党内部で主導権抗争が深化(非朴槿恵勢力の台頭)する、といった状況である。

次回総選挙での再選を目指す与党議員にとって、支持率の低下した大統領ほど厄介な存在はない。それで、現職議員たちは大統領に離党を迫り与党のイメージ刷新を図ることになる。盧泰愚-金泳三-金大中-盧武鉉といった各大統領は皆、任期末に離党を余儀なくされた。抵抗すれば、親族や側近が不正事件で拘束される。検察は退任を控えた現政権ではなく、次期政権の中枢勢力に忠誠を誓うものだ。韓国政治は実に生々しい。

朴槿恵大統領も、こうした前例を知らないわけではない。ただ、独裁者・朴正熙の下で絶対権力を謳歌した彼女は、攻撃が最大の防御であることを熟知している。与党執行部が動く前に、彼女は党内反対派の制圧に乗り出したのだ。宣戦布告は6月25日、大統領官邸での国務会議だった。会議を主宰する大統領の冒頭発言が、全国にテレビ中継された。

朴大統領は、5月29日に与野党合意で採択された国会法改正案に対し、“憲法違反”と断定して拒否権を発動した。改正案の骨子は、「国会が採択した法律を基にして政府が施行令(大統領令や国務総理令など)を制定する場合、基本法の範囲を超えたり趣旨に反する施行令に対しては、国会が是正を要求できる」というものだ。最終的に「要求」は「要請」に緩和されたが、朴槿恵氏はこれを“大統領の権威に挑戦する許し難い反乱”と見なしたのだろう。

与党・セヌリ党の院内総務は、三選の劉承旼(ユ・スンミン)議員だ。朴槿恵大統領は国務会議で、“野党に迎合して改正案を通過させた”院内総務を激しく罵倒した。「政府の施行令を国会が審査するのは越権であり、歴代政府も認めなかった改正案を敢えて採択した底意は何か。...与党の院内総務が、はたして政府と与党のために国会運営をしてきたのか甚だ疑わしい。こうした背信者たちは、次の選挙で有権者の審判を受けねばならない...」。

〈セヌリ党内部の勢力分布と主導権抗争〉

現職大統領が、野党ではなく与党の院内総務を攻撃するのだから、かなり複雑な事情がありそうだ。しかし、朴槿恵政権の脆弱な基盤と与党内の勢力分布を見れば、その背景が明確になる。朴槿恵候補は51%の支持で大統領選に辛勝したが、固定支持層は30~35%に過ぎない。残り15~20%は、李明博前政権を母体とする支持層だ。しかも、与党内では前者(「親朴」派と呼ぶ)よりも、後者(「非朴」派と呼ぶ)が数的な優位にある。議員総会の投票結果が、こうした与党の実状を端的に示しているだろう。

朴正熙独裁政権の頃は、党内の要職は大統領が任命した。しかし、民主化の進展は政党政治にも重大な変化をもたらし、現在は所属議員たちの投票によって選出される。昨年と今年、党代表と院内総務の選出投票で「親朴」派は「非朴」派に連敗した。国会議長も朴槿恵大統領が推す候補ではなく、「非朴」派のチョン・ウィファ氏が選ばれている。

任期後半に入った朴槿恵大統領にとって、決して好ましい勢力分布ではないだろう。与党内の少数派が政局の主導権を掌握するためには、大統領が自ら「親朴クーデター」を敢行するしかない。それで国会法改正案の“不当性”を国民にアピールし、その採択に関わった院内総務の更迭を企図したわけだ。

6月29日、大統領の意を受けてセヌリ党の最高委員会が招集された。「親朴」派の最高委員たちは院内総務の辞任を強く求めたが、「非朴」派の最高委員たちは抵抗した。ユ・スンミン院内総務も大統領に謝罪したが、辞任の勧告(圧力)には屈しなかった。何よりも、20数人の再選議員たちが連名で声明を発表し、「親朴」派の最高委員たちを牽制したのは衝撃だった。声明の要旨は以下のとおりである。

「院内総務は党の綱領と規約に則って、議員総会で選出された。民主的な手続きにより決定された人事を、議員の総意を問うことなく最高委員会で一方的に変更することがあってはならない。...議会民主主義と政党民主主義は、我々が守るべき最高の価値だ。最高委員会がこの価値を損傷してはならず、党内の和合に向け尽力すべきである」。

正直なところ、筆者はセヌリ党を過小評価していたようだ。この声明を読んで、野党がなぜ、総選挙や地方自治選挙で与党に負け続けるのか、原因の一端が見えたような気がする。朴槿恵大統領とセヌリ党(とりわけ「非朴」派の新進議員)を混同すると、韓国保守勢力の底力を見誤ることになる。

〈政局の行方〉

朴槿恵大統領の陣頭指揮にもかかわらず、「親朴」派は院内総務の更迭に失敗した。かと言って、議員総会を再招集するのは逆効果だろう。6月25日の議員総会で、125人の議員がユ・スンミン院内総務を再信任しているからだ。それで最高委員会を7月2日に再開したが、やはりユ・スンミン院内総務は粘り腰を発揮して踏みとどまった。朴槿恵大統領のレームダック現象は、あろうことか与党内から発生しているのだ。

大統領が拒否権を発動した国会法改正案は7月6日、国会で再度の議決に付せられる。セヌリ党は朴槿恵大統領の体面を重んじ、評決には応じず退場するそうだ。改正案は自動的に廃案となる。だが、賛成211票、反対22票、棄権11票という圧倒的多数で通過した改正案を、大統領の強権により審議もせずに廃案とするなら、民主主義と議会政治の後退は否めないだろう。ユ・スンミン院内総務も、その時点で辞任せざるを得ないとの予測すら出ている。

朴槿恵大統領の「親衛クーデター」は、果たして成功するのだろうか。大統領がなりふり構わず強引な手法に訴えたのも、来年4月の総選挙を見据えてのことだ。「親朴」派が党内の主導権を握り議員候補の公認権を行使しない限り、大統領と政権のレームダック化は凄まじい勢いで進行するからだ。「親朴」派の議員が多数を占めてこそ、与党に対する大統領の権威が保障される。

しかし実態は、既に見たとおりである。大統領官邸の主は朴槿恵氏だが、国会も与党も「非朴」派が主流となっている。加えて、世論調査では過半数がユ・スンミン院内総務の辞任を望んでいない。国民世論を反映してか、政権の代弁紙と揶揄されてきた『朝鮮日報』や『東亜日報』ですら、ユ・スンミン院内総務ではなく、朴槿恵大統領を批判している。中でも、『朝鮮日報』論説主幹の「女王陛下と共和国の不和」と題したコラムは、タイトルからして象徴的だった。

現状では、たとえ「クーデター」で党代表と院内総務を「親朴」派に交替しても、有権者の信頼を失った状態で総選挙に臨めるだろうか。また、「クーデター」が成果なく収束すれば、朴槿恵大統領も前任者たちの例に漏れず、離党と新党結成に進まざるをえない。いずれにしても、朴槿恵政権にとっては衰退の道となるだろう(JHK)。