今回は、人間側の都合から、「成仏」を考えてみたいと思います。
そもそも、死んだ後のことがわかる人間などいません。
臨死体験だとか言う人もいますが、臨死は生の一形態であって、死ではありません。
同じ系列で付け加えるなら、仮死も生であって、死ではありません。
死んだ後のことは、生きている人間には確かめようのないことなのです。
当たり前か?・・・・・だね。
どうなるかわからない。
どうなったかわからない。
そんな状況は不安ではないですか?
だから、「死」に思いを馳せる時、人は不安を感じます。
人間は不安に弱い生き物なんだと、今回のコロナ騒動を見ていても思います。
なぜ、デマ一つで、街からトイレットペーパーが消えてしまったのでしょうか?
「死後」についても、様々なデマゴーグが溢れています。
「地獄に堕ちる」
「この世で迷っている」
「どこかで生まれ変わっている」
理性が否定しても、煩悩がそれに囚われてしまうのです。
大切な人が死んでしまった後でも、その人を大切に思う気持ちは変わりません。
失ってしまったものに思いを募らせるのは執着ですが、人間は執着するものです。
大切な人は、大切なまま。
その大切な人が、
「地獄に堕ちて苦しんでいる」
「あの世に行けずに苦しんでいる」
なんてことを言われたら、どう思いますか?
理性で否定することは簡単です。
でも、気持ちが邪魔しませんか?
気にしないつもりでも、どっかに引っかかりませんか?
嘯く必要はありません。
素直に考えてください。
引っかかるんですよ、当然。
ですよね?
体験的に否定することができないんですから。
死んだことが無い、という弱みを、どんな人間も持っています。
「あんた、死んだら地獄に堕ちるよ。」
と、言われたらどう思いますか?
そんなわけないと思っても、気持ち悪くないですか?
その気持ち悪さが、理性が貫徹していない証拠です。
「おみくじなんてくだらない。」
と、思っていても、「大吉」が出たら、なんとなく嬉しくないですか?
その気持ち良さが、理性が貫徹していない証拠です。
私は引きますよ、おみくじ。
コレクター気質の私は、レアアイテムの「大凶」一点狙いですけど。
虚勢を張る必要はありません。
人間は弱くて良いのです。
体験したことのない問題をぶつけられれば、揺さぶられるようにできているのです。
それもこれも、煩悩があるからです。
だから、絶対に未体験である「死」を考えると、必ず不安になるのです。
他人の死、自分の死、死はワンダーランドです。
死んだ人の安否(安否というのもおかしな話ですが)は気になるし、自分の死(行先)を思うと不安になります。
そんな不安には「成仏」をぶつけましょう。
理性が相手ではないので、理屈はガン無視でかまいません。
「成仏するから大丈夫!心配ない!」
と、「成仏」をカウンターで叩き込みましょう!
そうすれば、少しは不安がなくなるのではないか?
というのが、「死(死後)の不安を解消したい」という需要に対する「対処療法」だったりもするわけです。
「死んだらどうなるの?」
「(きっぱりと)成仏する(仏に成る、でも可)。」
理性を育てることが根治療法だとすれば、対処療法は「刷り込み(洗脳とも言う)」です。
根治療法はシンプルに論理ですが、対処療法はドンキの品揃え並みにバラエティーに富んでいます。
それらが、ごっちゃごちゃに混在しているのが、「仏教」です。
だから、「信仰は理屈じゃないんだ!」と切れる教学者が後を絶たないわけですが、そこは、切れるところではありません。
楽しむべきところです。
対処療法だけを学んでいると、最終的に切れなくてはならなくなります。
矢吹丈vs力石徹です。
つまり、ノーガードの殴り合い。
体力(HP)が落ちていた力石徹は死にました。(わからない人はググってね)
逆に、根治療法に拘り対処療法を否定すると、誰にも相手にされない「原理主義者(嫌われ者」になってしまいます。
私は、たぶん、原理主義者だと思われていそうなのですが、そんな私でもわかります。
対処療法は大切です。
対処療法のことを「方便」と言います。
「真実(根治療法)」と「方便(対処療法)」が両立してこその医療、じゃなくて「仏教」です。
「方便」は「真実」を隠してしまうほど、度が過ぎることも、間々あります。
でも、真実を無視しちゃだめだよねえ、ふふふ。
嫌味な私ですが、今後も引き続き嫌味です。
というわけで、本日は、「成仏」の方便性を考えたわけですが、次回からは、いよいよ、「往生・浄土」ということについて考えていきたいと思います。
実は浄土も・・・・・・ふふふ!
(見真塾サルブツ通信Vol.0013)
そもそも、死んだ後のことがわかる人間などいません。
臨死体験だとか言う人もいますが、臨死は生の一形態であって、死ではありません。
同じ系列で付け加えるなら、仮死も生であって、死ではありません。
死んだ後のことは、生きている人間には確かめようのないことなのです。
当たり前か?・・・・・だね。
どうなるかわからない。
どうなったかわからない。
そんな状況は不安ではないですか?
だから、「死」に思いを馳せる時、人は不安を感じます。
人間は不安に弱い生き物なんだと、今回のコロナ騒動を見ていても思います。
なぜ、デマ一つで、街からトイレットペーパーが消えてしまったのでしょうか?
「死後」についても、様々なデマゴーグが溢れています。
「地獄に堕ちる」
「この世で迷っている」
「どこかで生まれ変わっている」
理性が否定しても、煩悩がそれに囚われてしまうのです。
大切な人が死んでしまった後でも、その人を大切に思う気持ちは変わりません。
失ってしまったものに思いを募らせるのは執着ですが、人間は執着するものです。
大切な人は、大切なまま。
その大切な人が、
「地獄に堕ちて苦しんでいる」
「あの世に行けずに苦しんでいる」
なんてことを言われたら、どう思いますか?
理性で否定することは簡単です。
でも、気持ちが邪魔しませんか?
気にしないつもりでも、どっかに引っかかりませんか?
嘯く必要はありません。
素直に考えてください。
引っかかるんですよ、当然。
ですよね?
体験的に否定することができないんですから。
死んだことが無い、という弱みを、どんな人間も持っています。
「あんた、死んだら地獄に堕ちるよ。」
と、言われたらどう思いますか?
そんなわけないと思っても、気持ち悪くないですか?
その気持ち悪さが、理性が貫徹していない証拠です。
「おみくじなんてくだらない。」
と、思っていても、「大吉」が出たら、なんとなく嬉しくないですか?
その気持ち良さが、理性が貫徹していない証拠です。
私は引きますよ、おみくじ。
コレクター気質の私は、レアアイテムの「大凶」一点狙いですけど。
虚勢を張る必要はありません。
人間は弱くて良いのです。
体験したことのない問題をぶつけられれば、揺さぶられるようにできているのです。
それもこれも、煩悩があるからです。
だから、絶対に未体験である「死」を考えると、必ず不安になるのです。
他人の死、自分の死、死はワンダーランドです。
死んだ人の安否(安否というのもおかしな話ですが)は気になるし、自分の死(行先)を思うと不安になります。
そんな不安には「成仏」をぶつけましょう。
理性が相手ではないので、理屈はガン無視でかまいません。
「成仏するから大丈夫!心配ない!」
と、「成仏」をカウンターで叩き込みましょう!
そうすれば、少しは不安がなくなるのではないか?
というのが、「死(死後)の不安を解消したい」という需要に対する「対処療法」だったりもするわけです。
「死んだらどうなるの?」
「(きっぱりと)成仏する(仏に成る、でも可)。」
理性を育てることが根治療法だとすれば、対処療法は「刷り込み(洗脳とも言う)」です。
根治療法はシンプルに論理ですが、対処療法はドンキの品揃え並みにバラエティーに富んでいます。
それらが、ごっちゃごちゃに混在しているのが、「仏教」です。
だから、「信仰は理屈じゃないんだ!」と切れる教学者が後を絶たないわけですが、そこは、切れるところではありません。
楽しむべきところです。
対処療法だけを学んでいると、最終的に切れなくてはならなくなります。
矢吹丈vs力石徹です。
つまり、ノーガードの殴り合い。
体力(HP)が落ちていた力石徹は死にました。(わからない人はググってね)
逆に、根治療法に拘り対処療法を否定すると、誰にも相手にされない「原理主義者(嫌われ者」になってしまいます。
私は、たぶん、原理主義者だと思われていそうなのですが、そんな私でもわかります。
対処療法は大切です。
対処療法のことを「方便」と言います。
「真実(根治療法)」と「方便(対処療法)」が両立してこその医療、じゃなくて「仏教」です。
「方便」は「真実」を隠してしまうほど、度が過ぎることも、間々あります。
でも、真実を無視しちゃだめだよねえ、ふふふ。
嫌味な私ですが、今後も引き続き嫌味です。
というわけで、本日は、「成仏」の方便性を考えたわけですが、次回からは、いよいよ、「往生・浄土」ということについて考えていきたいと思います。
実は浄土も・・・・・・ふふふ!
(見真塾サルブツ通信Vol.0013)