阿弥陀さんの話が続きます。
しつこいですか?
当然です。
信仰の対象を知らずして、どうして信仰が語れるのでしょう?
「阿弥陀さん?知ってるよ。キンキラでパンチパーマの、チョロ髭生やしたおっさんでしょ。」
という程度の理解?から一歩も出ていないくせに、
「阿弥陀さんを信じて、おまかせするんです。」
とか言ってるやつ、多いですね。
詐欺師以下のクズですね。
阿弥陀さんのこと知らないのに、「歎異抄」読んで、
「親鸞聖人は弟子一人ももたずと仰ったんです。」
とか言って気触れてる人、多いですね。
他の表現が見つからないので言いますが、アホですね。
親鸞聖人がどんな表現をされたのか、なんてことは、どうでもいいんです。
我々の関心事は、親鸞聖人が何を表現されたかったのか、ということなのです。
親鸞聖人が、
「何をどのように信じたのか?」
それを明らかにするのが、真宗学の目的です。
そのための手掛かりが、親鸞聖人の御著書や経典類なのです。
ですから、「どのように」を考える前に、「何を」を掴んでおかなければなりません。
とはいうものの、「何を」の答は「阿弥陀如来」と決まっています。
そうですね。
それでは、阿弥陀さんは、海のものですか?山のものですか?
例文
「私は水を一息に飲んだ」
この場合、「何を」は水ですね。
ところが、水の代わりに砂だったらどうでしょう?
例文は、おかしな文だということになります。
仮に水だったとしても、それが沸騰水だったとしたら、どうなりますか?
大やけど、へたすれば死にますね。
「何を」をはっきりとさせることは、行為としても、思考としても、とても重要なのです。
だから、「どのように」を考える前に、目的である「何を」をはっきりと理解しなければなりません。
つまり、阿弥陀如来という仏様の性質を詳らかに理解しておかなければならないのです。
親鸞聖人が「わからない」と仰っているんだから、わからくていいんだ。
だとか、わからないことを考えるのは無駄なことだと、その大切なところを捨て置き、先に進もうとするなどは、まさに、愚の骨頂だと言わなければなりません。
出発から間違っているのだから、何も組み立つわけがありません。
このことは、肝に銘じておいてください。
学んだすべてが、使った時間が、無意味ということになります。
そんなわけですから、ごめんなさいね、阿弥陀様にこだわります。
「阿弥陀様が造物主だとして、何が悪い?」
というのが、前回の結論でしたが、そうでないと、阿弥陀さんが阿弥陀さんでなくなってしまいます。
阿弥陀様が、存在の原因である「縁起」という働きそのものであるならば、それは無限に連鎖する働きであり、すべての事象が阿弥陀様を原因として存在することになります。
つまり、「造物主」です。
「主」という言葉に人格を感じてしまうというのであれば、「造物システム」だと言っても構いません。
ところで、阿弥陀如来は、「すべての人間を救いたいと願い」「すべての人間を救うことができる」仏様です。
それが可能であるためには、すべての人間を包摂できる存在でなければなりません。
したがって、有限である人間に対して、阿弥陀如来は無限です。
無限であることによって、有限(すべての人間)をすっぽりと、外側から、逃すことなく、包み込むことが担保されるのです。
また、その無限の働きは、有限(すべての人間)の存在原因となる働き(縁起)です。
私たちが、それによって生みだされた、そんな無限です。
私たちを生み出し、育み、存在させている無限、そんな無限だからこそ、私たちを「救済」することができるのです。
生み、育てたから「救うことができる」と、言明することができるのです。
親は、子供を産み、育てますが、救うことはできません。
それは、親ではあっても、子供が生まれ育つ原因の、ほんのわずかな一部分でしかないからです。
阿弥陀様は、原因のすべてです。
だからこそ、救うことができるのです。
阿弥陀如来が「造物主」=「無限」でなければならない理由が、そこにあります。
「救済」「救う」「救われる」ということについては、いずれ、まとめて考えてみたいと思います。
いや、これを抜きにして「阿弥陀如来」は語れませんね。
次回か?
ちなみに、江戸時代後期(琢如上人時代ごろ)の東本願寺製の阿弥陀さんは、頬がこけ気味の小顔に、怪しげな目をしていて、チョロ髭の具合も絶妙で、良い感じにヤクザなおっさん風で、私は好きです。
(見真塾サルブツ通信Vol.0006より)
しつこいですか?
当然です。
信仰の対象を知らずして、どうして信仰が語れるのでしょう?
「阿弥陀さん?知ってるよ。キンキラでパンチパーマの、チョロ髭生やしたおっさんでしょ。」
という程度の理解?から一歩も出ていないくせに、
「阿弥陀さんを信じて、おまかせするんです。」
とか言ってるやつ、多いですね。
詐欺師以下のクズですね。
阿弥陀さんのこと知らないのに、「歎異抄」読んで、
「親鸞聖人は弟子一人ももたずと仰ったんです。」
とか言って気触れてる人、多いですね。
他の表現が見つからないので言いますが、アホですね。
親鸞聖人がどんな表現をされたのか、なんてことは、どうでもいいんです。
我々の関心事は、親鸞聖人が何を表現されたかったのか、ということなのです。
親鸞聖人が、
「何をどのように信じたのか?」
それを明らかにするのが、真宗学の目的です。
そのための手掛かりが、親鸞聖人の御著書や経典類なのです。
ですから、「どのように」を考える前に、「何を」を掴んでおかなければなりません。
とはいうものの、「何を」の答は「阿弥陀如来」と決まっています。
そうですね。
それでは、阿弥陀さんは、海のものですか?山のものですか?
例文
「私は水を一息に飲んだ」
この場合、「何を」は水ですね。
ところが、水の代わりに砂だったらどうでしょう?
例文は、おかしな文だということになります。
仮に水だったとしても、それが沸騰水だったとしたら、どうなりますか?
大やけど、へたすれば死にますね。
「何を」をはっきりとさせることは、行為としても、思考としても、とても重要なのです。
だから、「どのように」を考える前に、目的である「何を」をはっきりと理解しなければなりません。
つまり、阿弥陀如来という仏様の性質を詳らかに理解しておかなければならないのです。
親鸞聖人が「わからない」と仰っているんだから、わからくていいんだ。
だとか、わからないことを考えるのは無駄なことだと、その大切なところを捨て置き、先に進もうとするなどは、まさに、愚の骨頂だと言わなければなりません。
出発から間違っているのだから、何も組み立つわけがありません。
このことは、肝に銘じておいてください。
学んだすべてが、使った時間が、無意味ということになります。
そんなわけですから、ごめんなさいね、阿弥陀様にこだわります。
「阿弥陀様が造物主だとして、何が悪い?」
というのが、前回の結論でしたが、そうでないと、阿弥陀さんが阿弥陀さんでなくなってしまいます。
阿弥陀様が、存在の原因である「縁起」という働きそのものであるならば、それは無限に連鎖する働きであり、すべての事象が阿弥陀様を原因として存在することになります。
つまり、「造物主」です。
「主」という言葉に人格を感じてしまうというのであれば、「造物システム」だと言っても構いません。
ところで、阿弥陀如来は、「すべての人間を救いたいと願い」「すべての人間を救うことができる」仏様です。
それが可能であるためには、すべての人間を包摂できる存在でなければなりません。
したがって、有限である人間に対して、阿弥陀如来は無限です。
無限であることによって、有限(すべての人間)をすっぽりと、外側から、逃すことなく、包み込むことが担保されるのです。
また、その無限の働きは、有限(すべての人間)の存在原因となる働き(縁起)です。
私たちが、それによって生みだされた、そんな無限です。
私たちを生み出し、育み、存在させている無限、そんな無限だからこそ、私たちを「救済」することができるのです。
生み、育てたから「救うことができる」と、言明することができるのです。
親は、子供を産み、育てますが、救うことはできません。
それは、親ではあっても、子供が生まれ育つ原因の、ほんのわずかな一部分でしかないからです。
阿弥陀様は、原因のすべてです。
だからこそ、救うことができるのです。
阿弥陀如来が「造物主」=「無限」でなければならない理由が、そこにあります。
「救済」「救う」「救われる」ということについては、いずれ、まとめて考えてみたいと思います。
いや、これを抜きにして「阿弥陀如来」は語れませんね。
次回か?
ちなみに、江戸時代後期(琢如上人時代ごろ)の東本願寺製の阿弥陀さんは、頬がこけ気味の小顔に、怪しげな目をしていて、チョロ髭の具合も絶妙で、良い感じにヤクザなおっさん風で、私は好きです。
(見真塾サルブツ通信Vol.0006より)