「無戒」は困るんです。
特に、私のような、やんちゃ坊主には、何か戒めがないとダメなんです。
無意識に、とんでもないことをしでかしたりもします。
「破れない」のは困るのです。
最初からルール無しだと、獣以下なんです、私。
破った時には、破ったんだとわかる、そんなルールが必要なのです。
すっかり忘れて、破ってしまうとは思いますが、思い出した時に、
「うわっ!しまった!やっちゃった!」
と、思えるように、ルールが必要なのです。
忘れてなくても、破る時は破ると思いますが、
「しょうがない、やるしかない」
「それでも、俺は、やる」
という、覚悟ができないと、後で困るんです。
反省できないんですよ。
どうか、私を縛ってください!
と、こんな風に思うことないですか?
私だけ?そんなことないよね?
いや、あるかもしれません。
何も「戒律」がなくたって、色んなものに縛られているというご意見もあるかもしれませんね。
法律があるでしょ?
それは、もっとも危険な考え方ですよ。
法律だけが問題だということになると、
「捕まらなければ、何したってかまわない」
という社会になることは、某国などで実証済みです。
そういう社会、お好きですか?
大人なんだから、常識というものがあるでしょ?
「盗んだ奴が悪い」と考える国と、「盗まれた奴が馬鹿だ」と考える国と、常識が同じだと思いますか?
平和ボケが標準装備の常識と、日々サバイバルを生き残る常識と、同じだと思いますか?
処変われば常識も変わりますが、それどころではありません。
今、あなたの隣にいる人と、あなたと、同じ常識を生きていると断言できますか?
常識というものは、実は存在していません。
自分の常識に従ったせいで死んじゃう人、少なくありません。
それでも、人間なんだから、悪いことくらいわかるでしょ?
と、考える人道主義者がいらっしゃるなら、聞いてください。
そんなこともわからないから、仏教を学んでいるんです。
全人類に共通する倫理観なんて、存在しませんよ。
常識と同じです。
A「人を殺しちゃいけないよね?」
B「うん、いけない。」
A「じゃあ、何で殺したの?」
B「異教徒は人じゃないから。」
これ、実話ですよ。
通じ合えてますか、これ?
自分が思ってるんだから、皆も思ってるはず。
これ、ありがちですが、あり得ません。
皆、バラバラです。
倫理観も、道徳観も、学習しなければ育ちません。
だから、多くの場合、倫理と宗教が直結しているのです。
人間側からは育ちようがないので、神様からルールブックを与えられるのです。
その、神様から与えられたルールブックが、そのまま「法」となっていることも珍しくはありません。
だからこそ、信仰を持つことの重要性が認識されているのです。
このあたり、日本人は無頓着というか、ほとんどのお坊さんは、まったくわかってないと思います。
宗教が必要かどうかはわからないけれど、宗教嫌いが増えると収入が減るから困る。
と、言う程度の認識しかないんじゃないですかねえ、だいたいは。
信教の自由、信教の自由と言うけれど、「信教の自由」の中に「信仰を持たない自由」は含まれていない社会が多いということは御存知ですか?
わかり易いのはインドネシアなので、それを例に説明します。
インドネシアは世界最多のイスラム教徒を擁する国ですが、世俗主義を採っているため、「信教の自由」が憲法で保障されています。
しかし、憲法より上位の「国是(パンチャシラ)」に定められた五つの原則の筆頭に挙げられているのは、次の一文です。
「唯一神への信仰(KeTuhanan yang Berkebudayaan)」
これ、「Tuhanan」を翻訳者がイスラム教の神「Tuhan」を意識して「唯一神」とか「唯一絶対神」とか翻訳してるんだと思いますが、「特定の神性」と訳した方が良いと思うんですけどね。
仏教、道教、ヒンドゥー教等が含まれてますからね。
それはどうでもいいですね。
ここで確認していただきたいのは、インドネシアには「信教の自由」はあるが、「信仰を持たない自由」は無い、という事実です。
「無宗教」「無神論」は逮捕されます。
なぜそうなるのか?
簡単なことです。
「神(仏も可)を信じていない人」=「倫理観がない・野蛮人」→「人間とは認められない」
と、彼らは考えるからです。
インドネシアの法律がわかり易いので例に挙げましたが、こういう感覚の社会、国外では普通にありますよ。
先進国ならそんなことないなんて、考えが甘いですよ。
保守的な人はどこにでもいます。
アメリカ合衆国大統領は「神」に宣誓しなければ就任できない、ということを忘れないようにしてください。
こういうことを知らずに、非常に得意気に「私は無宗教です」と答えるインテリぶった日本人、けっこういるんですけど、危ないですからね。
まともに相手にしてもらえなくなる可能性が、かなり高いです。
宗教に対して無頓着だと「アホ」だと思われますよ。
「宗教団体に帰属していない」=「無宗教(無信仰)」ではないのに、勘違いしている人が多いんだよね。
危険はそれだけではありません。
神に守られている人を騙すのと、神に守られていない人を騙すのと、どちらが、より罪の意識を感じると思いますか?
「騙す」「盗む」くらいで済めば良いんですけど、どこの国でも、組織犯罪者の皆様とか、スラムの方々、わりと信心深い方が多いんですよ。
やんちゃな彼らも、死ぬのは怖いんでしょうね。
なんだか「地球の歩き方」みたいになってきましたが、そういうことなんですよ「無戒」って。
あ、今、?ってなりましたか?
説明します!
「信仰を持つ」ということは、取りも直さず、「神仏に縛られる」ということなんですよ。
だから、「無戒」であるということは、「信仰を持たない」のと同じことなんです。
「破戒」は違います。
信仰を持っていなければ、その戒めを破ることもできないからです。
信仰があるからこその「破戒」です。
だから「破戒」は痛いのです。
ところが、仏教が育んできた倫理観が「戒律」となっているとしたら、その知恵を放棄するのが「無戒」です。
放棄するというよりは、存在そのものに触れない、知りもしない、と言うのが適切かもしれません。
「破戒」と違って、破るものがありません。
「破った」という自覚が生まれなければ、「痛み」も感じません。
痛くないので、反省することもありません。
それでは、「信仰を持つ」利点が何もないのではないか?
信仰を持っていない、つまりは「無宗教」であることと、何も変わらないのではないか?
と、私は思うのです。
ま、「無戒」で「宗教者」が気取れることに甘えていたいだけの人たちには、それでいいのかもしれませんが、そんなの意味ないよね?
それはそうとして、浄土真宗の僧侶が「受戒」していない問題については、形式的なことも含めて、改めて考えたみた方が良いと思いますよ。
そういう業務上の問題は別として、実は、阿弥陀様は、私たちに、「戒律を守る」なんてことよりも、ずっと重い、非常に厳しい縛りをかけておられます。
「戒律」なんて、そのほんの一部に過ぎない、と、言っても過言ではないかもしれません。
それはもう、「戒律」というよりは、「呪い」とでも言うべき、恐るべき「拘束」です。
それでは、皆様、ゆっくりとお考え下さい。
特に、私のような、やんちゃ坊主には、何か戒めがないとダメなんです。
無意識に、とんでもないことをしでかしたりもします。
「破れない」のは困るのです。
最初からルール無しだと、獣以下なんです、私。
破った時には、破ったんだとわかる、そんなルールが必要なのです。
すっかり忘れて、破ってしまうとは思いますが、思い出した時に、
「うわっ!しまった!やっちゃった!」
と、思えるように、ルールが必要なのです。
忘れてなくても、破る時は破ると思いますが、
「しょうがない、やるしかない」
「それでも、俺は、やる」
という、覚悟ができないと、後で困るんです。
反省できないんですよ。
どうか、私を縛ってください!
と、こんな風に思うことないですか?
私だけ?そんなことないよね?
いや、あるかもしれません。
何も「戒律」がなくたって、色んなものに縛られているというご意見もあるかもしれませんね。
法律があるでしょ?
それは、もっとも危険な考え方ですよ。
法律だけが問題だということになると、
「捕まらなければ、何したってかまわない」
という社会になることは、某国などで実証済みです。
そういう社会、お好きですか?
大人なんだから、常識というものがあるでしょ?
「盗んだ奴が悪い」と考える国と、「盗まれた奴が馬鹿だ」と考える国と、常識が同じだと思いますか?
平和ボケが標準装備の常識と、日々サバイバルを生き残る常識と、同じだと思いますか?
処変われば常識も変わりますが、それどころではありません。
今、あなたの隣にいる人と、あなたと、同じ常識を生きていると断言できますか?
常識というものは、実は存在していません。
自分の常識に従ったせいで死んじゃう人、少なくありません。
それでも、人間なんだから、悪いことくらいわかるでしょ?
と、考える人道主義者がいらっしゃるなら、聞いてください。
そんなこともわからないから、仏教を学んでいるんです。
全人類に共通する倫理観なんて、存在しませんよ。
常識と同じです。
A「人を殺しちゃいけないよね?」
B「うん、いけない。」
A「じゃあ、何で殺したの?」
B「異教徒は人じゃないから。」
これ、実話ですよ。
通じ合えてますか、これ?
自分が思ってるんだから、皆も思ってるはず。
これ、ありがちですが、あり得ません。
皆、バラバラです。
倫理観も、道徳観も、学習しなければ育ちません。
だから、多くの場合、倫理と宗教が直結しているのです。
人間側からは育ちようがないので、神様からルールブックを与えられるのです。
その、神様から与えられたルールブックが、そのまま「法」となっていることも珍しくはありません。
だからこそ、信仰を持つことの重要性が認識されているのです。
このあたり、日本人は無頓着というか、ほとんどのお坊さんは、まったくわかってないと思います。
宗教が必要かどうかはわからないけれど、宗教嫌いが増えると収入が減るから困る。
と、言う程度の認識しかないんじゃないですかねえ、だいたいは。
信教の自由、信教の自由と言うけれど、「信教の自由」の中に「信仰を持たない自由」は含まれていない社会が多いということは御存知ですか?
わかり易いのはインドネシアなので、それを例に説明します。
インドネシアは世界最多のイスラム教徒を擁する国ですが、世俗主義を採っているため、「信教の自由」が憲法で保障されています。
しかし、憲法より上位の「国是(パンチャシラ)」に定められた五つの原則の筆頭に挙げられているのは、次の一文です。
「唯一神への信仰(KeTuhanan yang Berkebudayaan)」
これ、「Tuhanan」を翻訳者がイスラム教の神「Tuhan」を意識して「唯一神」とか「唯一絶対神」とか翻訳してるんだと思いますが、「特定の神性」と訳した方が良いと思うんですけどね。
仏教、道教、ヒンドゥー教等が含まれてますからね。
それはどうでもいいですね。
ここで確認していただきたいのは、インドネシアには「信教の自由」はあるが、「信仰を持たない自由」は無い、という事実です。
「無宗教」「無神論」は逮捕されます。
なぜそうなるのか?
簡単なことです。
「神(仏も可)を信じていない人」=「倫理観がない・野蛮人」→「人間とは認められない」
と、彼らは考えるからです。
インドネシアの法律がわかり易いので例に挙げましたが、こういう感覚の社会、国外では普通にありますよ。
先進国ならそんなことないなんて、考えが甘いですよ。
保守的な人はどこにでもいます。
アメリカ合衆国大統領は「神」に宣誓しなければ就任できない、ということを忘れないようにしてください。
こういうことを知らずに、非常に得意気に「私は無宗教です」と答えるインテリぶった日本人、けっこういるんですけど、危ないですからね。
まともに相手にしてもらえなくなる可能性が、かなり高いです。
宗教に対して無頓着だと「アホ」だと思われますよ。
「宗教団体に帰属していない」=「無宗教(無信仰)」ではないのに、勘違いしている人が多いんだよね。
危険はそれだけではありません。
神に守られている人を騙すのと、神に守られていない人を騙すのと、どちらが、より罪の意識を感じると思いますか?
「騙す」「盗む」くらいで済めば良いんですけど、どこの国でも、組織犯罪者の皆様とか、スラムの方々、わりと信心深い方が多いんですよ。
やんちゃな彼らも、死ぬのは怖いんでしょうね。
なんだか「地球の歩き方」みたいになってきましたが、そういうことなんですよ「無戒」って。
あ、今、?ってなりましたか?
説明します!
「信仰を持つ」ということは、取りも直さず、「神仏に縛られる」ということなんですよ。
だから、「無戒」であるということは、「信仰を持たない」のと同じことなんです。
「破戒」は違います。
信仰を持っていなければ、その戒めを破ることもできないからです。
信仰があるからこその「破戒」です。
だから「破戒」は痛いのです。
ところが、仏教が育んできた倫理観が「戒律」となっているとしたら、その知恵を放棄するのが「無戒」です。
放棄するというよりは、存在そのものに触れない、知りもしない、と言うのが適切かもしれません。
「破戒」と違って、破るものがありません。
「破った」という自覚が生まれなければ、「痛み」も感じません。
痛くないので、反省することもありません。
それでは、「信仰を持つ」利点が何もないのではないか?
信仰を持っていない、つまりは「無宗教」であることと、何も変わらないのではないか?
と、私は思うのです。
ま、「無戒」で「宗教者」が気取れることに甘えていたいだけの人たちには、それでいいのかもしれませんが、そんなの意味ないよね?
それはそうとして、浄土真宗の僧侶が「受戒」していない問題については、形式的なことも含めて、改めて考えたみた方が良いと思いますよ。
そういう業務上の問題は別として、実は、阿弥陀様は、私たちに、「戒律を守る」なんてことよりも、ずっと重い、非常に厳しい縛りをかけておられます。
「戒律」なんて、そのほんの一部に過ぎない、と、言っても過言ではないかもしれません。
それはもう、「戒律」というよりは、「呪い」とでも言うべき、恐るべき「拘束」です。
それでは、皆様、ゆっくりとお考え下さい。
(見真塾サルブツ通信Vol.0033より)