さるぶつGOO

宗派や宗教団体の壁をガン無視して、自由な「信仰のある生活」を楽しみたいと思います。

【阿弥陀如来を考える その2】サルブツ通信再録

2020-06-15 19:31:59 | 仏教講座
阿弥陀さまには、謎が多い。
まあ、それは確かです。
私にとっての一番の謎は、生きてる人間を幸せにしてくださるための阿弥陀さんが、何故、一般的には、冥府の主というか、死後の世界担当の仏様になってしまったのか?と、いうことです。
もしかすると、パクリ元の阿弥陀如来は、冥府の主だったりするのだろうか?
だとか、
もしかすると、阿弥陀さんに死後を担当していただくことによって、お釈迦様亡き後の輪廻問題に終止符を
打ったのではないか?
なんてことを考えたりもしております。


それはさておき、前回、
「阿弥陀如来とは、この世界のすべての事象の存在の原因である」
と、言いましたが、これ、表現を変えると、
「阿弥陀如来は造物主である」
と、言えなくもありません。
なので、私がこれを口にすると、
「それじゃあ、君は、阿弥陀如来とキリストの神が同じだと言うのかね?」
だとか、
「それじゃあ、キリスト教の神と同じになるじゃないか!」
と、御批判をいただくことが多いです。


ここで、問題は、そう批判する仏教の人たちが、根拠なく、良く知りもしないで、キリスト教を見下していそうなことです。
「仏教は理性的で優れた宗教だが、キリスト教は下劣で野蛮だ」
「仏教とキリスト教を同じところで語らないでくれないか、レベルが違うんだから」
なんて、無意味な優越感がダダ洩れしています。


そんな時には、静かに質問させていただきましょう。
「阿弥陀如来とキリスト教の神が同じだと、何かまずいことでもあるんですか?」と。
この質問に対する合理的回答は、これまで一度もいただいたことがありません。
だって、不味いことなど何もないんですから。
こんなところでジョン・ヒックなど持ち出すのは野暮ですから、持ち出しませんが、特に、浄土真宗の阿弥陀如来観による阿弥陀如来(まあ、親鸞聖人にとっての阿弥陀様と言ってもいいかも)は、キリスト教の神(ゴッド)と酷似しています。
だからこそ、その昔、イエズス会宣教師が真宗門徒を聞き取り調査して、
「一大事です!すでに日本には、プロテスタントが山ほどいます!」
という報告を、ローマにしているのです。


私も随分と実験させてもらいましたが、新約聖書中心のキリスト教と浄土真宗の教義は、翻訳を通すと区別がつかなくなります。
浄土真宗の教義を知らない宣教師が、翻訳を通してそれを聞いたとすれば、
「なに、それ、もうプロテスタントがいるんじゃん。」
と思ったとしても、何の不思議もないのです。


新約聖書の「神」と阿弥陀如来の働きと世界観は、酷似しています。
阿弥陀如来は「神」(これ、日本やヒンドゥーの神様とは、全く別物なので「」つけてます)である!と、言明しても差し支えないと思えるほど、同じです。
しかし、旧約聖書の「神」と阿弥陀如来は断絶しています。
まったくの別物で、共通項は皆無です。
と、いうことは、新約の「神」と旧約の「神」も、別物であり、接点は無い、はずなんです。
が、不思議なことに、新約の「神」と旧約の「神」は同一の「神」なんですよ。
この辺りが、キリスト教のジレンマというか、問題点になるのですが、我々の問題ではないので割愛します。


ところで、「神」と阿弥陀さまとの間には、非常に大きな違いもあります。
それは、「神」には「人格(神格)」があるっぽい、というところです。
阿弥陀さまは、非人格、完全に人格を解脱した存在ですからね。
つまりは、「働き」であり「システム」なわけです。
なのに!で、あるのに!
阿弥陀如来が擬人化されたりもしているものだから、つい、阿弥陀さまが人格をお持ちであるような錯覚に陥ってしまうというようなことが、まま、あるように思います。
迷惑ですね。
はい、迷惑でした。


そんなわけで、論理は屁理屈を許さない、というのが、本日の結論、ではありません。
本日の結論は、
「阿弥陀様が造物主だとして、何が悪い?」
でした。

(見真塾サルブツ通信Vol.0005より)


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