さるぶつGOO

宗派や宗教団体の壁をガン無視して、自由な「信仰のある生活」を楽しみたいと思います。

【阿弥陀如来を考える その1】サルブツ通信再録

2020-06-15 14:33:44 | 仏教講座
阿弥陀様について考えてみたいと思います。
これ、実は、考えると怒られます。


私は、偉い先生方に、
「結局、阿弥陀さんって、何なんですか?」
と、質問しまくって、随分と切れられました。
「言葉で説明できるようなことではないんだ!」
いや、説明してよ。
「頭で考えてわかるようなことではないんだ!」
頭以外で考えられる?ブルース・リーかよ。
「親鸞聖人だって、不可称、不可説、不可思議だと仰ってるんだから、君ごときにわかるわけがないだろ!」
わからないから聞いてるの。わかりたくないの?


東本願寺を代表するような先生方に詰め寄っては、盛大に叱られました。
懐かしく、微笑ましい思い出です。
別に、ほろ苦くはないですよ。


親鸞聖人だけを見ていると、わからないものなんですね。
わからなくても困らないのかもしれません。


だが、私は困った。
阿弥陀如来さまは、私の信仰対象です。
得体のしれないものを信仰できますか?


そう迫ったこともありました。
「君ねえ、信仰は理屈じゃないんだよ!」
と、叱られました。
行の無い真宗から、理屈を取ったら空っぽです。
「お前、頭大丈夫か?自分の言ってること、わかってるのか?」
と、思いました。
「せめて、なぜわからないのか、ということくらいは、わかりたくねぇか?」
と、切実に思い、そこに拘ることにしました。


繰り返しますが、これ、親鸞聖人だけを見ているとわかりません。
最終的には、わからなくても困らないし、わかる必要もないのですが、その理由もわかりません。
しかし、親鸞聖人から遡り、お釈迦様にたどり着いて、お釈迦様から、親鸞聖人へと、また戻ってくるとわかります。


前回までの話で、いくらかは理解していただけていると思います。
そういうことなんですよ。
そういうことなので、結論だけ言います。


阿弥陀如来とは、この世界のすべての事象の存在の原因である。
ちなみに、それは「無限」であるために、私たち人間の能力では、捕捉・認識できない。
と、まあ、こういうことです。


「この世界のすべての事象の存在の原因」が信仰の対象として、象徴化・擬人化され、その「無限」であるという特質に基き、「阿弥陀如来」と名付けられた、とも言えますね。


余談ですが、この「阿弥陀如来」というお名前は仏教のオリジナルではなく、よそにちょうど良い神様がいたので、名前だけパクってきたのだという説もあります。
どっちでもいいよね、そんなことは。


ほぼ前置きで終わりますが、本日はここまで。


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また、ご質問いただきました。


Q 「そのものの外部」が成り立つなら「そのもの」も成り立つ訳で、つまりそれは「我」ではないかと思ったのですがご教授ください。
A 「我(アートマン)」は存在しませんが、「我(自self)」は仮定として存在します。


これ、素晴らしいご質問です。
何かと思わせぶりな私ですが、悩んでいただきたいポイントです。


「内部・外部」や「自・他」という区別は、本質的にはナンセンスな分別です。
しかし、私たちが、「我(自self)」だと認識できる肉体と精神をもって生まれてきてしまったこと、その「我(自self)」を「個」として、社会的存在であり続けなければならないこと、それが悲劇のはじまりです。
「そのもの」と「外部」は、実際には切り離し不可能です。
だから、「我(自self)」は仮定でしかないのです。
「一切のものは縁起によって生じる」と考えるのが仏教ですが、縁起によって生じたものが「単独の存在」になるわけではありません。
つながったままなのです。
だから、外部と切り離された「我(自self)」は仮定であり、妄想です。
そこに、「絶対他力」という発想が開かれるわけですが、悩ましいですね。

(見真塾サルブツ通信Vol.0004より)


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