阿弥陀様について考えてみたいと思います。
これ、実は、考えると怒られます。
私は、偉い先生方に、
「結局、阿弥陀さんって、何なんですか?」
と、質問しまくって、随分と切れられました。
「言葉で説明できるようなことではないんだ!」
いや、説明してよ。
「頭で考えてわかるようなことではないんだ!」
頭以外で考えられる?ブルース・リーかよ。
「親鸞聖人だって、不可称、不可説、不可思議だと仰ってるんだから、君ごときにわかるわけがないだろ!」
わからないから聞いてるの。わかりたくないの?
東本願寺を代表するような先生方に詰め寄っては、盛大に叱られました。
懐かしく、微笑ましい思い出です。
別に、ほろ苦くはないですよ。
親鸞聖人だけを見ていると、わからないものなんですね。
わからなくても困らないのかもしれません。
だが、私は困った。
阿弥陀如来さまは、私の信仰対象です。
得体のしれないものを信仰できますか?
そう迫ったこともありました。
「君ねえ、信仰は理屈じゃないんだよ!」
と、叱られました。
行の無い真宗から、理屈を取ったら空っぽです。
「お前、頭大丈夫か?自分の言ってること、わかってるのか?」
と、思いました。
「せめて、なぜわからないのか、ということくらいは、わかりたくねぇか?」
と、切実に思い、そこに拘ることにしました。
繰り返しますが、これ、親鸞聖人だけを見ているとわかりません。
最終的には、わからなくても困らないし、わかる必要もないのですが、その理由もわかりません。
しかし、親鸞聖人から遡り、お釈迦様にたどり着いて、お釈迦様から、親鸞聖人へと、また戻ってくるとわかります。
前回までの話で、いくらかは理解していただけていると思います。
そういうことなんですよ。
そういうことなので、結論だけ言います。
阿弥陀如来とは、この世界のすべての事象の存在の原因である。
ちなみに、それは「無限」であるために、私たち人間の能力では、捕捉・認識できない。
と、まあ、こういうことです。
「この世界のすべての事象の存在の原因」が信仰の対象として、象徴化・擬人化され、その「無限」であるという特質に基き、「阿弥陀如来」と名付けられた、とも言えますね。
余談ですが、この「阿弥陀如来」というお名前は仏教のオリジナルではなく、よそにちょうど良い神様がいたので、名前だけパクってきたのだという説もあります。
どっちでもいいよね、そんなことは。
ほぼ前置きで終わりますが、本日はここまで。
卍卍卍卍卍卍卍卍卍卍卍卍
また、ご質問いただきました。
Q 「そのものの外部」が成り立つなら「そのもの」も成り立つ訳で、つまりそれは「我」ではないかと思ったのですがご教授ください。
A 「我(アートマン)」は存在しませんが、「我(自self)」は仮定として存在します。
これ、素晴らしいご質問です。
何かと思わせぶりな私ですが、悩んでいただきたいポイントです。
「内部・外部」や「自・他」という区別は、本質的にはナンセンスな分別です。
しかし、私たちが、「我(自self)」だと認識できる肉体と精神をもって生まれてきてしまったこと、その「我(自self)」を「個」として、社会的存在であり続けなければならないこと、それが悲劇のはじまりです。
「そのもの」と「外部」は、実際には切り離し不可能です。
だから、「我(自self)」は仮定でしかないのです。
「一切のものは縁起によって生じる」と考えるのが仏教ですが、縁起によって生じたものが「単独の存在」になるわけではありません。
つながったままなのです。
だから、外部と切り離された「我(自self)」は仮定であり、妄想です。
そこに、「絶対他力」という発想が開かれるわけですが、悩ましいですね。
これ、実は、考えると怒られます。
私は、偉い先生方に、
「結局、阿弥陀さんって、何なんですか?」
と、質問しまくって、随分と切れられました。
「言葉で説明できるようなことではないんだ!」
いや、説明してよ。
「頭で考えてわかるようなことではないんだ!」
頭以外で考えられる?ブルース・リーかよ。
「親鸞聖人だって、不可称、不可説、不可思議だと仰ってるんだから、君ごときにわかるわけがないだろ!」
わからないから聞いてるの。わかりたくないの?
東本願寺を代表するような先生方に詰め寄っては、盛大に叱られました。
懐かしく、微笑ましい思い出です。
別に、ほろ苦くはないですよ。
親鸞聖人だけを見ていると、わからないものなんですね。
わからなくても困らないのかもしれません。
だが、私は困った。
阿弥陀如来さまは、私の信仰対象です。
得体のしれないものを信仰できますか?
そう迫ったこともありました。
「君ねえ、信仰は理屈じゃないんだよ!」
と、叱られました。
行の無い真宗から、理屈を取ったら空っぽです。
「お前、頭大丈夫か?自分の言ってること、わかってるのか?」
と、思いました。
「せめて、なぜわからないのか、ということくらいは、わかりたくねぇか?」
と、切実に思い、そこに拘ることにしました。
繰り返しますが、これ、親鸞聖人だけを見ているとわかりません。
最終的には、わからなくても困らないし、わかる必要もないのですが、その理由もわかりません。
しかし、親鸞聖人から遡り、お釈迦様にたどり着いて、お釈迦様から、親鸞聖人へと、また戻ってくるとわかります。
前回までの話で、いくらかは理解していただけていると思います。
そういうことなんですよ。
そういうことなので、結論だけ言います。
阿弥陀如来とは、この世界のすべての事象の存在の原因である。
ちなみに、それは「無限」であるために、私たち人間の能力では、捕捉・認識できない。
と、まあ、こういうことです。
「この世界のすべての事象の存在の原因」が信仰の対象として、象徴化・擬人化され、その「無限」であるという特質に基き、「阿弥陀如来」と名付けられた、とも言えますね。
余談ですが、この「阿弥陀如来」というお名前は仏教のオリジナルではなく、よそにちょうど良い神様がいたので、名前だけパクってきたのだという説もあります。
どっちでもいいよね、そんなことは。
ほぼ前置きで終わりますが、本日はここまで。
卍卍卍卍卍卍卍卍卍卍卍卍
また、ご質問いただきました。
Q 「そのものの外部」が成り立つなら「そのもの」も成り立つ訳で、つまりそれは「我」ではないかと思ったのですがご教授ください。
A 「我(アートマン)」は存在しませんが、「我(自self)」は仮定として存在します。
これ、素晴らしいご質問です。
何かと思わせぶりな私ですが、悩んでいただきたいポイントです。
「内部・外部」や「自・他」という区別は、本質的にはナンセンスな分別です。
しかし、私たちが、「我(自self)」だと認識できる肉体と精神をもって生まれてきてしまったこと、その「我(自self)」を「個」として、社会的存在であり続けなければならないこと、それが悲劇のはじまりです。
「そのもの」と「外部」は、実際には切り離し不可能です。
だから、「我(自self)」は仮定でしかないのです。
「一切のものは縁起によって生じる」と考えるのが仏教ですが、縁起によって生じたものが「単独の存在」になるわけではありません。
つながったままなのです。
だから、外部と切り離された「我(自self)」は仮定であり、妄想です。
そこに、「絶対他力」という発想が開かれるわけですが、悩ましいですね。
(見真塾サルブツ通信Vol.0004より)