結局、終わりませんでした。
やはり、この問題は込み入ってますね。
様々な角度から、複合的に論理を組み立てる必要がありますね。
完全に理解するために必要なパーツが多すぎるのです。
なので、骨格だけに絞ります。
少し方向性は変わるかもしれませんが、そのうち繋がります。
阿弥陀如来の御利益は、
1「おぎゃあ!と生み出してくださったこと」(過去)
2「今、生かしていただいていること」(現在)
3「死んだら成仏させていただけること」(未来)
という三つの普遍則(誰にでもあてはまる)で表現できると思います。
「生まれて、生きて、死ぬ」のが人間ですから、人生すべてが、阿弥陀様からの「いただきもの」と考えるのも間違いではありません。
そもそも、阿弥陀如来の定義に従えば、この世界のすべての事象が、阿弥陀様の御利益として存在するわけですからね。
しかし、すべての人に、例外なく共通する事象となると、「生まれて(過去)、生きて(現在)、死ぬ(未来)」ということになります。
よく、「生・老・病・死」と言いますが、「老・病」は無い場合もありますからね。
「誰でも老いる」や「誰でも病む」は、デリカシーに欠ける表現であるだけではなく、論理的には誤りです。
余談ですが、「浄土真宗は二益法門である(御利益が二つある)」ということを、特に伝統的教学を学んだ人が、よく仰るんですが、ご存じですか?
現代教学の人でも、けっこう仰るような気もしてきました。
「それでは一益しかないから、異安心(間違った教え)だ!」
だとか、
「真宗は二益だから、浄土宗とは違うんだ!」
みたいな使われ方をしています。
もはや、ナンセンスなので気にしないようにしてください。
そもそも「二益」というのは、
(WikiArcよりパクリ)
「現益げんやくと当益とうやくのこと。現生において受ける利益を現益、当来において受ける利益を当益という。浄土真宗では、現在世(此土)において正定聚の位に入る現益と未来世(彼土)において大般涅槃をさとるという当益を説く。」
ということなんですが、「過去・現在・未来」という時間軸で考えるなら「過去」または「過去世」を落としているので、阿弥陀如来の永遠性が損なわれます。
別に幾益あっても良いのですが、そういう意味なら「三益」です。
また、「阿弥陀様のおかげで」という視点で考えると、すべてが阿弥陀様のおかげで、細かく分別などできないので、「すべて」で括れば一益です。
さらに、上の解釈を日本語に翻訳すると、
現益「浄土往生が決定すること」
当益「往生して成仏すること」
と、なるのですが、「往生」=「成仏」なので、事象としては「往生」一つしかありません。
従って、有意味な解は「往生」という「一益」です。
細かいことを言って申し訳ありません。
私、皆様に、「おかしいことをおかしい」とお伝えできないのであれば、異安心でいいです。
話を戻します。
1「おぎゃあ!と生み出してくださったこと」(過去)
2「今、生かしていただいていること」(現在)
3「死んだら成仏させていただけること」(未来)
が、阿弥陀様の御利益(阿弥陀如来に救われることの表象)だと、申し上げてはおりますが、これ、本当に御利益でしょうか?
ありがたいですか?
3については、まだ判断できませんが、私は、1と2については、まあまあ、ありがたいと思っています。
皆様はいかがですか?
そうなんですよ。
これ、ありがたいとは限らないんですよ。
1「生まれて来なきゃ良かった」
2「早く殺せ」
3「地獄だって、今よりゃましだ」
などと、お思いの方は、少なからずいらっしゃるような気がします。
それが、実は、大問題なわけです。
「生きてる」ことが嫌でしょうがない人に、生きてる「原因」である阿弥陀様が「ありがたい」なんて思えるはずがありません。
まずもって、
「生きてることがありがたい」→「生かしてくれてる阿弥陀さんがありがたい」
というところまで、人々を誘導しなければ、何も始まらないのです。
自分の人生を好意的というか、ポジティブに受け入れるところまで連れて行き、そこからスタートしてもらえなければ、この世を生きる苦しさは、微塵も減らすことができないのです。
これが、浄土教(阿弥陀様にたすけていただこうという教え)が、出発の時点から抱え、そして、現在も抱え続けている、最大の課題なのであります。
しかも、これは、私たち僧侶に与えられた課題です。
さあ、どうしましょうか?
答を期待しないで下さいね。
永遠に出ませんから、これ。
体当たりで、試行錯誤を続けていくしかない、そんな課題です。
「念仏」だとか、「ありがたい」「もったいない」「おかげさま」の刷り込みも、そんな中で編み出された手法かもしれませんね。
調べてませんから、もしかすると、ですよ。
それでも、
「阿弥陀様に生かされて生きる私である」
という出発点に立つことさえできれば、その世界観で社会に向かうことができれば、分量は量れませんが、必ず、煩悩に負ける割合が減り、同時に、この世を人として生きる「苦」も減ります。
それは、論理で証明することができます。
問題は、出発点に立つことができるかどうか、それだけです。
まずは、自分がそこに立つ。
そして、人をそこに立たせるために、悪戦苦闘しましょう。
二千年も前に先輩方が始めた戦いです。
親鸞聖人も参戦され、江戸時代に甘え、忘れ去られた戦いです。
四百年ぶりに再開しましょう。
阿弥陀さん、ありがたいからね!
(見真塾サルブツ通信Vol.0010より)