京都のlivehouse「磔磔」のホームページには、
かなり昔のスケジュールまで掲載されてるから、思い出にひたるにちょうどいい。
今あらためて見たら、無名時代の、今や、かの有名人と対バンしてたりしてビックりしたり・・・。
「どりばんな」の浅原さんが、最近、復帰されたと「エデンno東」さんに聞いた。
浅原さんは、「あさはらかずなり」さん
「かずなりばんど」で「なりばんど」、「ど」と「な」が入れ代わって「どりばんな」
命名したのは、「おかげさまブラザーズ」のキンタさん
浅原さん率いる、息の長いバンド「どりばんな」に私が在籍してたのは昭和の終わり頃。
ボーカルが浅原さんで、ライトギターが、のちの“荒くれバンド”「マザーファッカー」の有馬のアリヤン、
ベースが“超絶”角田のツノッチさんで、ドラムが、ちょっと?年上イイダさん
で、私がレフトギターの5人組。
ストーンズで言えば、“エモーショナルレスキュウ”ぐらいまで?、みたいな感じ?の頃。
10代で京都に来て、始めてlivehouseに出れたのが、この「どりばんな」やった。
一番最初に出たのが、まだ今みたいにステージになってなかった頃の「拾得」、
出れた時は、それはもう嬉して嬉しくて
当時は、今と違って、livehouseも少なかったから、
出れたこと自体、ちょっとしたステータスみたいな感じがした。
京都、大阪、神戸、色んな所のlivehouseに最初に出れたのもこのバンドやし、最初に音源プレスしたのもそう、
年齢的にも、やって来たバンドの中で、「どりばんな」が、やっぱり、一番感慨深い。
その「どりばんな」のレパートリーは、作詞作曲、全部浅原さんが書いて、
その曲をそれぞれがセッション的に音を回しながら、固めていく感じで作ってた。
今聞いても、浅原さんの詞は、ほろ苦くて情緒的、聞いてる人のハートをつかむもんやったし、
楽曲としてもレベルもかなり高いものやったと思う。
練習は、週に二~三回、一度に四時間以上やって、隔週でliveしながら、頻繁にレコーディングもして、
色んなイベントや、ラジオとかにも出たり、
(テレビに出てたのは、私が抜けたあと。私も、ちょっぴり出たかった。)
生活そのものがバンド一色な、そんな毎日が、結構、長い間続いてた。
ホームページも携帯電話もない時代、出演交渉から、スタジオの手配、ポスター製作、
情報誌の取材応対に、ギャラの管理・・・、そんなこんなの段取りは、全部浅原さんが担ってた。
後になって、自分がそういう部分を多少なりとも担うようになってから、
浅原さんのことが、すごくよく解るようになったりして。
二十歳前の“うぶ”な私に、ロックミュージシャンとして?、バンドマンとして?の心構え?、
あんなこと、こんなこと、はたまた、そんなこと、とんだところ・・まで、教えてくれたのも浅原さん。
今、こうして?ギターが弾けて、バンド出来たりしてるのも、ある種、浅原さんのおかげやとすごく感謝している。
浅原さんとアリヤンと三人、よく連なってたのがナツかしい・・・。
浅原さんの“女たち”がナツかしい・・・。
アリヤンが連れてた“モデルの美人”がナツかしい・・・。
知らない女の部屋で、三人“川の字”になって寝てたのがナツかしい・・・。
ギャラを全部“飲んだ”アリヤンのせいで、ご飯が食べれなかったのがナツかしい・・・。
浅原さんが買ってくれたパンを三人で食べたのがナツかしい・・・。
う~ん、思い出したら、かなり懐かしい。
サトキやから“サック”、
浅原さんがつけた私の愛称
夜の自動販売機やないんやから、あれは、ちょっと勘弁してほしかったけど
そう言えば、かれこれ長いこと会ってない・・・。
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わかりますわ。
どりばんな……カッコいい。