兎神伝
紅兎〜追想編〜
(26)同衾
今宵はどうも調子に乗らない…
二人は同じ事を思っていた。
愛の赤子の誕生と床上げを祝う賑やかな夕食会が終わって半刻…
いつもなら、もう三回は励み、四回目に突入するところである。
だのに今宵は、まだ一度も励めていない。
その気にならないわけではない。
いつも通り、部屋に入った途端、粗雑に着物を脱ぎ捨てて、絡み合い始めた二人である。
政樹は、彼と当人だけは豊乳だと信じて疑わない茜の可愛い乳房にむしゃぶりつき…
茜は、彼女と当人だけは立派だと信じて疑わぬ政樹のそこそこな穂柱を受け入れ嬌声を上げていた。
しかし…
いざ、肝心なところに来ると、どうも上手く行かない。
今回も…
「ポヤポヤ~、どうしているポニョ~」
政樹が、いよいよ、茜の大きく広げられた股間の上で、激しく腰を動かそうとすると…
茜は、ぼんやり遠く目線を向けて呟き…
「どうしているだろう…」
政樹もまた、動かしかけた腰を止めて呟いた。
「里一さん、マサ兄ちゃんに似て、ウブだポニョ~。」
茜がしみじみ言えば…
「ユカ姉ちゃん、茜ちゃんに似て、奥手だからな~」
政樹は大きく溜息をつく。
「こう言う時って、やっぱり女のユカ姉ちゃんが頑張るポニョ~。」
茜がボヤくように言えば…
「いざと言う時は、やっぱり男の里一さんが踏ん張らないと…」
政樹が一人呟いて…
二人はそれぞれ、勝手に納得して、何度も頷いて見せ…
「私の時もそうだったポニョ~。いつまでも、イジイジして煮え切らないマサ兄ちゃんを、四の五の言わず、寝床に引きずり込んだポニョ~。」
「俺の時もそうだった!身を固くして、なかなか次に進めない茜ちゃんを、強引に押し倒してモノにしてやったんだ!」
と、思わず声を上げると、二人は…
「ポヤポヤ~?」
「えっ?」
と、互いに顔を見合わせて…
「そうじゃない、そうじゃない、あの時は、私がマサ兄ちゃんを…」
「そうじゃない、そうじゃない、あの時は、俺が茜ちゃんを…」
思わず、言い合いになりかけると…
「ポヤポヤ、待つポニョ~。こんな事言ってる場合じゃないポニョ~。」
「そうとも、こんな事言ってる場合じゃない!」
また、顔を見合わせて…
「行くポニョ~、マサ兄ちゃん!」
「行こう、茜ちゃん!」
ガッチリ手を握りあい、着物を羽織るのも忘れて、部屋を飛び出して行った。
月影照らす薄暗い部屋の中…
由香里は、切なそうに正座して、寝間着の襟元を弄りながら、寝床を見つめていた。
本当なら、今宵こそ、里一と二人同衾する筈であった。
出会って四年…
寝ても覚めても、瞼に浮かぶ里一の顔。連日、穂供(そなえ)に訪れる数多の男達の相手をする度に、今、自分を愛撫してるのが、身体(からだ)の中に入ってくるのが、あの盲目の優しげな男であったらどんなに良いだろうと思い続けていた。
由香里は、過去、三度妊娠し、流産している。
いずれも、お腹を空かせた年下の兎神子(とみこ)達に、食べ物を調達しようとして、酷い仕置をされたのが原因であった。
『赤ちゃん、ごめんね…ごめんね…私のせいで…』
三度目の流産の時…
熱にうなされた自分の為に一杯の粥を盗もうとして仕置された事を知り、いつまでも由香里の腹に抱きついて泣いていた早苗を思い出す。
そして、もう、二度と妊娠はできないだろうと思われ、事実、以来、未だに妊娠した事がない。
『ユカ姉ちゃん、一緒に拾里に行こう…』
早苗にも智子にも、随分誘われた。
早苗の時は、早苗自身が拾里に行く日を迎える事なく逝ってしまったのもあるが…
智子には、結局、行かない事を告げた。
理由は、漸く手に入れた厨房を手放してしまったら、歳下の兎神子(とみこ)達が、また、お腹を空かせてしまうのではないか…
自分がいなくなり、みんなちゃんとやって行けるのか心配でならない事であった。
殊に、あの頃はまだ、愛はいつも全裸で人目に晒されていた。
社(やしろ)の仲間内だけの時は、着物を着る事を認められるようにはなっていたが…
それでも、日中は御贄倉の土間で、穂供(そなえ)を待たねばならなかった。
太郎達神饌組に守られながらとは言え、全裸で学舎(まなびのいえ)に通わされ、晒し物になってる事に変わりなかった。
『心配なさらんでもええ。』
胸を張って言ってくれたのは、中小商工座衆笑点会の歌丸であった。
『親社(おやしろ)様も、兎神子(とみこ)の皆さんにも、下町の連中が、随分世話になった。特に、愛ちゃんや、愛ちゃんのお父さんに、どれだけ良くして頂いた事か。今度は、みんなで愛ちゃん守る番さね。』
歌丸は、両脇に辛うじて毛を残しながらも、一段と磨きの掛かった禿頭を撫で回しながら、いつもそう言っていた。
実際…
『おうおう、お勉強は終わったかい?』
太郎達神饌組に守られて学舎(まなびのいえ)から出てくると、待っていたように、河曽根上町の男連中が、門前をぐるり取り囲んで待ち構えていた。
『愛、今日こそは、おじさん達と遊んでくれるよな。』
取り囲む男連中の一人が、愛に近寄ろうとすれば…
『てやんでぇ!愛ちゃんには先客があんでぇ!』
太郎が、例によって捲し立てる。
すると…
『先客だと?』
『そいつは誰でぇ!』
『何処にいるんでぇ!言ってみな?』
『まさか、太郎、お前じゃあねえよな。』
『そうか、太郎、おめえか!そうか、そうか、おめえも、とうとう色気づいか、偉ぇこった。』
『そいじゃあ、一つ、俺達の前で愛を抱いて貰おうじゃねえかよ。』
河曽根上町の男達は、口々にそう言うと、一切に爆笑した。
『兄貴…』
『どうするよ、兄貴…』
神饌組の悪ガキ達が心配そうに太郎を見つめる最中…
『どうした?抱かねえのか?』
『まあまあ、まだ恥ずかしい盛りのガキだぜ、人前でやるってのも酷ってもんだ。』
『それもそうだ。そいじゃあ、太郎、おめえも着物脱いで裸になれ。素っ裸になって、アレ丸出しで、愛と一緒に社(やしろ)に行ってみろ。そーしたら、おめえが先客だって認めてやらあ。』
河曽根上町の男達は、そう言って、更にゲラゲラ笑いだした。
『良いよ、太郎君。私、おじさん達とゆく。』
拳を握りしめ、歯軋りする太郎の手を握ると、愛はにっこり笑いかけて言った。
『駄目だ、愛ちゃん!行かせねえ!』
太郎はそう言い放つと、決心を固めたように、太郎は着物を脱ぎに掛かった。
その時…
『先客は、アチキでありんすよ。』
黄色い着物着て、なよなよして歩きながら、一人の初老の男が近づいてきた。
『その子は、これからアチキのお家で、良い事するでありんすよ。』
男はそう言うなり…
『さあ、愛ちゃん、一緒に行くでありんすよ。』
愛に手を差しのべ笑いかけた。
『オォーッ!』
忽ち、神饌組の間から歓声が上がった。
『ありがとう…木久蔵おじさん、ありがとう…』
愛が、それまで堪えていた涙を溢れさせると…
『おじさんちで、ウチのラーメンでも食べよっか。』
歌丸の親友で、笑点会の一人であり、河曽根下町でラーメン屋を営む林屋の木久蔵は、愛の手をそっと握りしめ、一段と優しく笑いかけた。
『おい、待てや!』
『オカマ野郎のおめえが、いつから女に興味持つようになったんだよ。』
河曽根上町の男達は、今度は愛を連れてゆこうとする木久蔵に絡み始めた。
『おめえが穂供(そなえ)たあ、笑わせるにも程があるぜ。』
『どーせ、穂供(そなえ)するにも、穂供(そなえ)するモン、おめえについてねーんじゃねえのか?』
『さあ、愛を寄越しな!こっちに寄越すんだよ!』
河曽根上町の男達は、口々にそう言うと、木久蔵を突き飛ばし、愛を横取りしようとした。
『何すんのさ、やだねー、この人達…人の楽しみじゃましようってのかい!』
木久蔵も、負けじと愛を渡すまいとする。
『おらっ!早く愛を渡せっての!』
河曽根上町の男達の一人が、また、木久蔵を押し退けようとすれば…
『イヤん!バカん!そこはお尻だよー!』
と、その男の手を叩き…
『しょうがないわねー、そんなに見たいってなら、アチキが男である証拠、見せてやろうじゃないのさ。』
木久蔵は着物の裾を捲り上げ始めた。
『オォッ!木久蔵、おめえの男を見せるってか?』
『よせよせ、あるって言っても、糸杉みてぇに萎びたモンだろうに。』
『そんなんで、穂供(そなえ)なんて出来ねえって。』
河曽根上町の男連中は、またゲラゲラと笑い出した。
次の刹那…
『がーたがた抜かしてるんじゃねえぞ、このクソガキャーッ!』
木久蔵は、それまでのなよなよぶりと打ってかわって、ドスンと片膝つくなり、男の一人の顎に、ドスの切っ先を突きつけた。
『き…木久蔵…おまえ…』
『フン!アチキを誰だと思ってやがるんだよ、コラーッ!』
木久蔵は喚くなり、パチンと指を鳴らした。
同時に…
『おめえら、親父さんが唾けたもんに手ぇ出すたあ良い度胸じゃねえかよ、コラッ!』
『こいつは、先々日から親父さんと俺達とで、当面貸し切るって約束を、親社(おやしろ)様に取り付けてるぜ。』
『おめえ達の親玉が大好きな多額の賂…失礼、別途玉串を納めてな。』
『それでも掻っ攫って行きたけりゃーな、俺達をぶちのめしてからにしなー。』
と…
何処に潜んでいたのか、熊のような巨体をした大男達十数人が、河曽根上町の男連中を取り囲んで言った。
彼らは皆、日頃、木久蔵の世話を受けている、鱶見本社領(ふかみのもとつやしろのかなめ)で土工職に就く男達であった。
『さあ、愛ちゃん、安心しな。』
『当面、愛ちゃんは俺達交代で貸し切ってやるからよ。』
『俺達の愛ちゃんは、俺達が目の黒いうちはぜってぇ汚させやしねえぜ!ずっと綺麗なまんまにしといてやるぜ!』
土工の男達は口々に言うと…
『おじさん、駄目…私、汚いよ、白穂臭いよ…』
愛が慌てふためくのも待たず、土工の一人がひょいと愛を抱き上げると…
『何言ってやがる。俺達の愛ちゃん、良い匂いしてるぜ。こんな可愛い子を、あんな連中に汚されてたまるかっての!』
そう言って、頬擦りをした。
『さあ、みんな、アチキについて来るでありんすよ。アチキのラーメンと一杯ご馳走するよ。』
木久蔵が土工達に向かって言うと…
『おいおい、親父さんのラーメンだってよ!』
『うっへぇ!また、一週間は下痢が止まんねぇ!』
『いっぱいだけにしてくんねぇかな~。』
と、土工達が言い…
『何だって!』
木久蔵が凄むと…
『すんません!』
『ゴチになりやす!』
木久蔵の軽く倍はある熊のような大男連中が、一様に身を小さく縮めて、ノコノコ後について行った。
『見なせえ、ユカさん。愛さんには、心強え味方がたくさんついてなさる。』
あの日…
いつの間にそこに来ていたのであろう…
愛の事が心配で、迎えに出向いていた由香里の肩を抱き、里一は、そっと耳元近く囁いて言った。
『他の子達だって、そうでござんす。親父さんが奉職されて今日までの間、それぞれ新しい味方も友達もできて、何よりあいつら自身が逞しく育ちやした。もう、何も心配する事はござんせんよ。』
『里一さん…』
『ユカさん、これからは、ユカさんご自身の将来、幸せを考えなせえ。』
『うん。』
里一の胸に顔を擦り寄り頷きながら…
しかし、此処を去ってゆけないもう一つの理由は話せずにいた…
『でも…私は此処で里一さんを待ちたい。たまにで良い…こうして、里一さんに寄り添っていたい…』
と…
里一と夫婦になれるとは思っていない。
なれても、彼の子を産んでやる事が出来ないのだ。
でも、戯れで良いから、抱かれたかった。
まだ、女を知らないと言う里一に、女を教えてやりたかった。
目が見えないなら、尚更に、手取り足取り教えてやりたかった。
『由香里さん、申し訳ねえ。』
部屋の前まできて、里一が寂しげに残した言葉を思い出す。
『謝らないで、里一さん。わかってるわ…数え切れない程の男に汚された挙句、子供ができない身体(からだ)なんですもの…わかってる。謝るのは、私の方…こんな私が、里一さんみたいな方に抱かれたいなんて…』
『そうじゃねえんでござんす。あっしには、どうしてもやらなきゃならねえ事が、あるんでござんす。』
『やらなきゃいけない事?』
『申し訳ねけ、それ以上、言うわけにはいかねえんでござんすが…
あっしは、どうしても、親父さんに恩を返さなきゃならねえんで。親父さんに頂いた命、この身体(からだ)を張って返さなきゃならねえんで、ござんすよ。』
『そう、爺じの為に…』
『産まれて来た時から、生きる事を否定されたあっしを、命張って生かそうとしてくれた親父さんに、どうしても恩を返してえんでござんす。』
『わかるわ、よくわかるわ…私だって、私だって、料理の事、何も知らなかった私に、あの子達に美味しいものを食べさせてあげられるようにしてくれた里一さんに、どれだけ感謝してるか。
あの子達に、一杯の粥すらこの手で食べさせてあげる事が出来なかった。
女なのに、お米の炊き方すら分からなかった。
男達の玩具にされる事しか教えられなかった。
女として生きる事を否定されてるのと同じだった。
その私に、里一さんは、優しく料理を教えくれた。あの子達にお腹いっぱい食べさせてあげられるようにしてくれた。私をもう一度、女にしてくれた。里一さんの為なら、私だって…』
『ありがとう、由香里さん。
いつの日にか、親父さんに恩を返し、この命がありゃしたら、その時は、喜んで由香里さんを抱かせて頂きやす。』
『待ってるわ。でも、できるだけ早くね。でないと、私、すぐに歳をとって、顔も身体(からだ)も綺麗でなくなってしまうからね。』
『その事ならご安心を…あっしは、めくらでござんす。外見など、何一つ見えはいたしやせん。あっしに見えるのは、心だけでござんす。由香里さんの心は、永遠に光輝いてござんす。』
由香里は、去り際に残した、頬に傷のある顔いっぱいに浮かべた、里一の涼しげな笑顔を思い出しながら、布団を撫でた。
本当なら、そこで裸の自分の肩を抱いて、共に天井を見上げていたであろう、里一を思いながら、撫で続けた。
「里一さん、何をしようとしてるんだろう…」
一年に、何度か社(やしろ)に顔を出す里一が、普段何をしているか、由香里は知らない。興味をもった事もない。
ただ、かなり命がけの仕事をしてるのだな…とは、よく思っていた。
抱かれた事こそないが、いつも一緒に湯に入る。今宵も、夕食会が終わった後、共に湯に入り、身体(からだ)を洗ってやった。
湯に入る度に、身体(からだ)中に帯びた傷が増えている。
どの傷も、ただの傷ではない。どう見ても、刀で斬られたか、槍で貫かれたか…
一番古い傷は、銃弾を受けた傷跡であった。
今宵もまた、増えていた。しかも、あと数寸間違えれば、致命傷となり得たであろう傷であった。
「お願い…死なないで…里一さんが死んだら、私も…」
由香里は、枕を抱きしめ涙を流しかけた時、はたと後ろに人の気配を感じた。
「あの子達ったら…」
由香里は、枕を置いて涙を拭うと、クスクス笑い出した。
「マサちゃん、茜ちゃん、入っておいで。」
由香里が、振り向きもせずに言うと、真後ろの障子が開いて、着物も着ず、露わな格好した政樹と茜が、拍子抜けした顔をして、入ってきた。
「ポヤー?里一さんは?」
「何だ、ユカ姉。今夜は一晩中励んでるんじゃなかったのか?」
二人は、部屋中、キョロキョロ見回して言った。
「色々あるのよ、大人にはね。それより、あんた達、何て格好してんのよ。」
由香里は、一糸纏わぬ露わな格好で、しかも髪がぼさぼさな二人を見て、クスクス笑いながら言った。
「ポヤー!」
「あっちゃー!」
二人が、慌てて大事なところを手で隠す仕草すると、由香里は、益々可笑しそうに笑った。
「何を今更隠してるのよ。散々、人の寝床に入ってはオネショして後始末させたくせに。」
由香里に言われると、二人は益々赤面した。
「それに…」
由香里は、押入れから取り出す寝間着を手渡しながら、二人の股間に目を止めると、口をへの字に曲げた。
「人には、やたらと励め励めと騒ぐくせに、お二人さん、まだ一度もできてないみたいじゃない。」
「それは…」
「ポニョ~」
「なあ…」
「ポニョポニョ…」
二人が顔を見合わせて口ごもらせると、由香里は大きく鼻から息を吐き出した。
「私と里一さんは、見ての通りだから…
お二人さんは、さっさと自分達の部屋に戻って、続きをやりなさいな。
明日から、また穂供(そなえ)参拝が来るから、その余力は残す程度にね…」
「あのさ、ユカ姉ちゃん…」
政樹と茜は、互いに顔を見合わせてニコッと笑って言った。
「今夜、ここで寝て良いかな?」
「ここで?私と?」
由香里が、また口をへの字にすると…
「ダメ?」
「今夜、このまま二人だけで寝るの、怖いポニョ~。お化けが出そうで…」
二人は、いかにも情けない顔をして言った。
「しょうがないわね…」
由香里は、先に布団に潜り込むと…
「さあ、おいで、おチビさん達。」
掛け布団を開けて、二人を呼んだ。
「わーい!」
「ポニャー!」
政樹と茜は、忽ち、由香里の両隣に飛び込むと、仔猫のように身体を丸めた。
「あんた達、人の布団の中で、オネショすんじゃないよ。したら、お尻の皮が剥けるほど、ペンペンするからね。」
「はーい。」
「ポニョ~。」
由香里は、呆れたように、また口をへの字に曲げた。
「なあ、ユカ姉。」
「なあに?」
「そーめん、美味かったよ。」
「本当?」
「ああ、ユカ姉の作ってくれるそーめんが一番うまい。なあ、茜ちゃん。」
「うん、美味しかった。それと、天麩羅も美味しかった。また、こしらえてね。」
「そっか…また、美味いもん、こしらえてやるよ。でも、次はお鍋にしようかね…まだ、冬だもの…」
と、両脇を振り向くと、既に二人とも由香里の腕を枕に、スヤスヤ寝息を立てていた。
「まーったく…いつまでたっても、子供なんだからねー。」
由香里は言いながら、二人の肩を抱くと、愛しそうに頬ずりを始めた。
『ポヤポヤ…ポニョポニョ…』
見れば、茜がまた、指をしゃぶりながら、意味不明の声を発していた。
とっくに治った筈の癖なのに、眠るとたまに戻る時がある。
初めて出会った頃…
まだ、十歳だった茜は、全く言葉が話せなかった。
元々、一之摂社(いちのせっつやしろ)で赤兎だった茜は、七歳を待たずに皮剥され、虐め抜かれて話せなくなった。
不具になり、使い物にならんと判断されて捨てられそうになったのを、眞吾宮司(しんごのみやつかさ)が白兎として引き取った。
鋭太郎が、話せない茜を玩具に欲しがったからである。
本社(もとつやしろ)に兎幣され、更に虐め抜かれ、話せないだけでなく、幼児化して夜尿を繰り返すようにもなった。
それが、更に虐めの理由にされていた。
『ポニョポニョ…ポニョポニョ…』
茜は、必死に何か言おうとしてるが、口から出てくる声は、同じ声ばかりで、まともな言葉にならなかった。
『ポニョ~、ポニョ~、ポニョ~』
しかし、何故か、由香里には茜の言いたい事が全部分かった。
『お母さんに、会いたいんだね。』
由香里が言うと、茜は、ポカンとして由香里の顔を見上げた。
『わかるよ、おまえの言いたい事、ぜーんぶ、わかるよ。』
『ポヤポヤ~?』
『ええ、本当だともさ。だから、話したい事があったら、全部、姉ちゃんに話しとくれ。』
由香里がそう言うと…
『ポニャ~!ポニャ~!ポニャ~!』
茜は、由香里の胸に顔を埋めて声を上げて泣き出した。
それから、毎日、毎晩、一日中、鋭太郎に虐め抜かれた茜は、由香里の寝床に潜り込んでは、泣き泣き話し出した。
『そうかい、そうかい…こんな小さな子の手に、火をつけた煙管の先を当てる何て…酷い事するね、何て酷い事するんだろう。』
由香里は、そう言って、火傷だらけの小さな手に頬擦りしては、いつも一緒に泣いてやった。
そして…
『これね、あんたに食べさせようと思って、持ってきてやったよ。さあ、おあがり。』
いつものように、命がけで忍びこんだ、宮司(みやつかさ)屋敷の厨房から盗んできた食べ物を、茜に与えた。
『うまいだろう?たんと、お上がりよ。』
すると…
いつの頃からか、いつも一緒に由香里の布団に潜り込んでいた政樹も、由香里に貰った食べ物を半分残して、茜に与えるようになった。
『兄ちゃん、あんまり食欲ないからよ、これやるよ。』
『ポニョ、ポニョ…』
茜は、由香里の前では、いつも甘やかして欲しくて泣いていたが、政樹の前では逆にいつも笑っていた。
『へへっ、おまえ、可愛いな。』
政樹に言われると、今度は顔を赤くして笑い出した。
やがて…
政樹は、茜の笑う顔がもっと見たくて、鋭太郎の弟の美唯二郎に擦り寄るようになった。
眞吾宮司(しんごのみやつかさ)が和幸に懸想していたように、美唯二郎は政樹に強い関心を寄せていたのだ。
政樹は、和幸が眞吾宮司(しんごのみやつかさ)の女になるのを真似て、美唯二郎に擦り寄り、茜が喜びそうなものを手に入れようとしたのである。
また、思い切って、茜を虐めないよう、それとなく頼んでも見た。
すると、和幸の恋人である智子は、二人の仲を知られると、嫉妬に狂った眞吾宮司(しんごこみやつかさ)に更なる凄惨な虐めを受けたが…
茜に対する虐めはおさまった。
美唯二郎も男色であったが、眞吾宮司(しんごのみやつかさ)の和幸に対する思いは懸想であったが、美唯二郎の政樹に対して抱いた関心は、単なる玩具であった。
女の茜より、男の政樹の方が面白い玩具だったのである。
ある夜…
『どうだ、茜ちゃん?うまいか?うまいか?』
いつものように、政樹が、美唯二郎の元で傷だらけになりながら手に入れた戦利品を、茜が頬張るのを見ていると…
『ポニョ~…』
茜は、食べ終わった口を手で拭いながら、ニコーッと笑って、政樹を見つめた。
『そうか、そうか、うまかったか。よしよし。』
政樹は、そう言って、嬉しそうに茜の頭を撫でた。
すると…
『ポニョ、ポニョ…』
茜は、徐に着物を脱いで、産まれたままの姿になった。
そして、一層満面の笑みを浮かべると、政樹の手を膨らみ初めて三角形になり染めた乳房に押し当てた。
『良いのか?』
政樹が言うと…
『ポニョ、ポニョ…』
茜は、何度も頷いて見せた。
『そうか、そうか…それじゃあ、遠慮なく…』
政樹は、茜と唇を重ねると、そのまま肌も重ねた。
政樹十二歳、茜は十歳の時であった。
二人は、毎晩のように唇を重ね、肌を重ねて、一つになった。
政樹の方は、別に茜に惚れて抱いていると言うわけでもなかった。
欲しくなったら肌を重ねる…
此処では、黒兎も白兎も、それが普通であった。
しかし、茜は違っていた。
政樹に抱かれるようになり、まず、指を咥える癖がなくなった。夜尿もしなくなった。何より、綺麗でいようと、いつも身なりを気にするようになった。
政樹に、『綺麗だ。』『可愛よ』と言われると、お日様のように明るい笑顔を浮かべるようになった。
『この子…恋してるんだ。』
由香里はそう思うと、まるで自分が誰かに恋してるように心がときめき、嬉しくなった。
しかし、茜の思いは、政樹にまるで伝わらなかった。
茜は、それでも政樹に抱かれていれば嬉しそうであったが、見ている由香里が辛く切なかった。
『茜ちゃん、抱かれるだけじゃ、心は伝わらないよ。』
ある夜明け近く…
裸のまま、茜の膝を枕にして眠る政樹の顔をながめて、ニコニコ笑う茜の肩に着物を掛けてやりながら、由香里が言った。
『マサちゃんに、気持ち、伝えたくない?』
『ポヤ、ポヤ…』
『マサちゃんに惚れてるんだろ?』
『ポニョ、ポニョ…』
そして、由香里は茜に言葉の練習をさせた。
茜は、言葉を理解してないわけではない。また、自分では、一生懸命、思いを口に出して言おうとしている。
しかし、一生懸命声に出して言おうとしても、口から出てくるのは、どうしても、『ポヤポヤ…』『ポニョポニョ…』になってしまうのである。
由香里は、短い時間を割いて、一生懸命に言葉を教えた。何とか、話ができるようにしたいと思った。
しかし、どうしても、口から出てくるのは、『ポヤポヤ』『ポニョポニョ…』であった。
由香里は、一計を講じた。言葉の語尾に、『~ポニョ』をつけてみたのである。
すると、少しずつ、茜は言葉を発するようになった。
そして、ある夜…
『お…兄…ちゃん…お…兄ちゃん…』
『茜ちゃん…話せるのか?』
驚き目を丸くする政樹に、茜は満面の笑みで言葉を続けた。
『好き…ポニョ…大好き…ポニョ…愛してる…ポニョ…』
『茜ちゃん…』
政樹は、思わず茜を抱きしめた。
『俺もだよ!俺も、茜ちゃんが大好きだよ!愛してる…愛してる…』
何度も何度も頬擦りして言う政樹は、いつの間にか涙を溢れさせていた。
そして、眞吾宮司(しんごのみやつかさ)が失踪し、新しい宮司(みやつかさ)に代わった。
前の宮司(みやてかさ)の時のような虐めはなくなり、社(やしろ)の雰囲気はガラリと変わった。
由香里が厨房を任されると、相変わらず、由香里の側にまとわりつく茜は、手伝うと称して、料理とは無関係なものを作り始めた。
『あらあ、なーんか美味しそうなもん作ってるじゃない。』
由香里が側で覗き見ると…
『マサ兄ちゃんに、あげるポニョ。』
『まあ、マサちゃんに。』
『喜んでくれるポニョ?』
『勿論よ。こんな可愛くて美味しそうな金団、誰だって喜ぶわ。』
『そうポニョ~?』
不安そうに首を傾げる茜に、由香里が大きく頷いて見せた。
『私、マサ兄ちゃん、好きポニョ。愛してるポニョ。』
『ええ、ええ、知ってるわよ。あんたが、どんなにマサちゃんを想ってるか、よーっく知ってるわよ。』
由香里が満面の笑顔で頷くと、茜も嬉しそうに笑った。
最近、雪絵は新人年下の竜也と良い中だし…
男嫌いの亜美も、秀行と出来上がりつつある。
漸く、こんな平和で無邪気な恋ができるようになった…
後は、和幸と智子が、元の鞘におさまれば….
由香里がそう思いかけていると…
『ねえ…マサ兄ちゃん、私をどう想ってるポニョ?』
『えっ?』
『マサ兄ちゃんも、私を好きポニョ?』
『私も好きかなって…茜ちゃん、今までだって、ずっと…』
『マサ兄ちゃん、私の事、嫌いポニョ?』
茜は、今更何を…と思う事を言い出し、由香里は思わず首を傾げた。
そして、更に数日後….
『ユカ姉ちゃん、私、マサ兄ちゃんに想いを伝えたポニョ~!お菓子あげて、伝えたポニョ~!』
茜は、由香里に飛びつくなり、声を上げてはしゃぎ出した。
『そう…なの…それで?マサちゃんは何て?』
『マサ兄ちゃんも、私が好きだポニョ~!愛してるポニョ~!』
『そう、良かったわね…』
『うん!それでね、口付けしたポニョ~。マサ兄ちゃんに抱かれたポニョ~。乳房を優しく揉まれて、乳首を吸われ…身体(からだ)中、撫でられ舐められて、最後にマサ兄ちゃんのが、私の中に入ってきたポニョ~。』
『そうなの…』
『凄く心地良かったポニョ~、凄く暖かかったポニョ~。』
由香里は、いつまでも夢見心地な茜を見て、すっかり当惑してしまった。
『今ままで、数え切れない程抱かれてきたポニョ~。でも、こんなの初めてポニョ~。愛する人と、愛し合ってするのは、違うポニョ~。』
すると…
有頂天な茜とは裏腹に、少し離れた所から茜を見つめる政樹が、涙を溢れさせていた。
『マサちゃん、茜ちゃん、どうしちゃったの?』
由香里が側に寄り、小声で尋ねると…
『茜ちゃん、今までの事、全部忘れちまってるんだ。』
『えっ?』
『俺達が出会った時の事、初めて抱き合った時の事、やっと覚えた言葉で、俺に想いを告げた事…何もかも忘れちまってるんだよ。』
政樹はそれだけ言うと、由香里の胸に顔を埋めて泣き出した。
『今の親社(おやしろ)様に代わって、社(やしろ)の環境が変わった事で、茜ちゃん、昔の事、無意識に自分の意思で記憶を消しちゃったんだって…義隆先生が仰ってた…』
『そんな…そんな事って…』
『俺の事は、お菓子を贈り合ったり、お菓子作りを一緒に覚えて、好きになったと思い込んでるんだ。
今まで虐め抜かれて、悲惨だった記憶を全部消去して、新たな楽しい思い出だけで、埋め尽くそうとしてるんだ。
今の親社(おやしろ)様が来られる以前の事は、何もかも忘れちまったんだ。』
由香里は、大きな溜息をついて、もう一度、政樹と茜の寝顔を見つめた。
「里一さん…ユカ姉の事…ユカ姉の事…」
政樹が、由香里の腕の中で寝言を呟き始めていた。
「ユカ姉の辛い思い出…全部消して…茜ちゃんのように…新しい楽しい思い出を…俺達の事、全部忘れて良いから…俺が覚えているから…茜ちゃんの事も…ユカ姉ちゃんの事も…」
どんな夢を見てるんだろう…
政樹は、涙を流していた。
「馬鹿言うんじゃないよ、ガキの癖にさ…」
気づけば、由香里も涙を溢れさせていた。
「忘れられるわけないじゃないか…マサちゃんの事、忘れられるわけないじゃないか…」
すると、今度は…
「ユカ姉ちゃん…頑張る…ポニョ…」
茜が寝言を呟き初めていた。
「お料理一緒に作る時、里一さん、押し倒すポニョ…私が、お菓子作りながら…マサ兄ちゃんにしたように…ユカ姉ちゃん…幸せになるポニョ…私みたいに…」
こちらは、どんな夢を見てるか、だいたい察しつく。
「お菓子…作るポニョ…ユカ姉ちゃんと里一さんに…お菓子作るポニョ…マサ…兄ちゃん…」
呟きながら、茜はこの世の幸せが一度に訪れたような笑みを浮かべていた。
「里一さん…やっぱり、当分、此処を出て行けそうにないや…」
由香里は、更に涙を溢れさせ、いつしか咽び泣きながら、天井を見上げて呟いた。
「里一さんが、爺じに恩返ししなきゃならないように、私はこの子達を大きくしなきゃならないからね…
まだ、こんなに幼いこの子達を置いて、何処にも行けやしないからね…」
ふと、また、里一の言葉が脳裏を過って行った。
『あっしは、めくらでござんす。外見など、何一つ見えはいたしやせん。あっしに見えるのは、心だけでござんす。由香里さんの心は、永遠に光輝いてござんす。』
「私も、めくらさ…男はもう、里一さんしか見えやしないよ。里一さんの心しか見えやしない…私の前を照らす、里一さんの心の光しか見えないよ…
だから、此処で里一さんを待つ。何年でも、何十年でも、この子達を大きくしながら…
いつか、里一さんの恩返しができて、私はこの子達を大きくできたら…
その時は…
その時は…」
由香里は、今も瞼に浮かぶ里一の面影に微笑みかけると、いつしか、静かな寝息を立て始めていた。