風景居酒屋 ごじゃ満開

2011年03月11日14時46分、東日本大震災発生
(since 2007/8/15)。

1606)私的岩手通史の旅 第160回(南北朝時代の岩手 第5幕)

2013年03月31日 | 私的岩手通史の旅
 今年の3月末は、妙に5年前を思い出します。5年前の3月31日は荷解きの1日、夜には荷解きの疲れと共に翌日からの新しい奉公先への期待と不安を感じていました。5年後の3月31日も時間の経過と共に翌日から始まる新年度の奉公へ思いを馳せることでしょうが、期待より不安が増していく気がします。それでも当店は変わらず営業していきたいので、引き続きご来店をお待ちしています。



第160回 南北朝時代の岩手 第5幕(金ヶ崎町 永徳寺)

 「私的岩手通史の旅」、今回は前回に引き続き南北朝時代に創建されたお寺です。ご覧いただくのは金ヶ崎町の南端、奥州市との境近くに建つ永徳寺(えいとくじ)です。「岩手県の歴史散歩(山川出版)」に載っていたので以前から知っていましたが、訪れたのは江戸へ国替えとなった後です。この時は「私的岩手通史の旅」に出てくる予定で未訪問の箇所を巡るドライブでした。

 永徳寺は前回の正法寺と同じく曹洞宗のお寺で、1356(延文元)年に正法寺の3代道叟道愛(どうそうどうあい)によって開かれた、金ヶ崎町で最古のお寺です。

 道愛は教えを広めるために観音様に祈ったところ、「東北に行き、この剣のある所に寺を建てれば教えが広まる」と夢の中でお告げがあったので来奥したところ、胆沢川の川上にお告げの剣があったので、そこに建てたと伝えられています。

 創建後の1372(応安5)年には北朝の後円融天皇から曹洞宗の本寺としての許しを得、正法寺と共に奥州地域の曹洞宗布教の中心となって栄えたそうです。


(3時前なのに薄暗い永徳寺境内 -金ヶ崎町永栄 2011/12/23-)

 雪降る中訪れた境内にはお地蔵様が並んでいたのですが、その中の1体は顔がつぶれているように見えました。永徳寺自体よりこちらの方が印象に残りました。


(見ていて痛々しいお地蔵様 -同-)

 永徳寺が建立してから36年後の1392(明徳3・元中9)年、北朝が南朝を吸収合併し、南北朝時代が終わりました。にわか勉強かつ自転車操業状態での岩手の史跡巡りでしたがいかがたったでしょうか?

 日本の歴史は室町時代から戦国時代へと続き、岩手でも多くの戦いが起こります。仕込みをしっかりしてから、この後の史跡巡りをご覧いただきたいと思います。

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2012/03/31の一品・・・1276)釜石市の今
2011/03/31の一品・・・915)震災と地デジ
2010/03/31の一品・・・689)盛岡散歩 春が来る前に・・・(繋大橋)
2009/03/31の一品・・・お休みでした
2008/03/31の一品・・・221)引っ越しをしたよ!2
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1602)私的岩手通史の旅 第159回(南北朝時代の岩手 第5幕)

2013年03月24日 | 私的岩手通史の旅
 いつの間にか始まっていた春の選抜高校野球、昨日盛岡大付属高校が第4試合に登場し、春夏通産10度目の出場での初勝利を挙げました。県内出身・県外出身選手が半々のようですが、岩手日報では電子号外も出ましたから、地元はそれなりに盛り上っていることでしょう。



第159回 南北朝時代の岩手 第4幕(奥州市 正法寺)

 ちょっと間が空きましたが、「私的岩手通史の旅」を再開します。南北朝時代となり、岩手県内でもその代理戦争とでも言うべく戦いは散発しました。権力者の犠牲となった名も無き兵たちには申し訳ありませんが、戦の舞台を巡るのもキリがないのでちょっと戦いから離れ、今回はこの時期に建立されたお寺を巡ります。

 1348(貞和4・正平3)年、現在の奥州市水沢区に曹洞宗の正法寺が建立されました。開いたのは無底良詔(むていりょうしょう)という人で、東北地方の曹洞宗の中心寺院として発展してきました。最盛期には1200もの末寺を有したとも伝えられています。

(見応えのある正法寺本堂 -奥州市水沢区黒石町 2008/04/06-)

 それもさることながら、同寺といえば日本一の大きさを誇る本堂の萱葺き屋根でしょう。現在の本堂は火災で焼失後の1811(文化8)年に再建され、2006(平成18)年に大改修を経たものですが、高さ26メートルの高さの萱葺き屋根は圧巻です。

(吹き替えにはどれくらい手数がかかるのでしょう? -同-)

 写真を撮った日付を見ると、盛岡に転居して最初の休日に訪れたようです。恐らく岩手県最南端の地(一関市花泉町)を目指した時に経由したのだと思いますが、県内彷徨の初陣で寄ってみようと思った魅力を感じたのでしょう。

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2012/03/24の一品・・・1269)下野ワンデイハイク 旧足尾町(17景目 足尾から日光へ)
2011/03/24の一品・・・911)私的岩手通史の旅 第78回(前九年合戦 第23幕)
2010/03/24の一品・・・682)春が来る前に・・・(花巻市 中堤)
2009/03/24の一品・・・お休みでした
2008/03/24の一品・・・217)引越しをするよ!(休業ごあいさつ)
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1588)私的岩手通史の旅 第158回(南北朝時代の岩手 第4幕)

2013年03月03日 | 私的岩手通史の旅
 先日手帳を見えなくしました。カバンの中も家じゅう探しても見つからず、諦めて新しい手帳を準備したのですが、その翌日に奉公先の机の奥から出てきました。何故そんなところに入っていたのか謎ですが、井上陽水氏の「夢の中へ」を地でいく話でした(ほぼ1年前にも似たようなコトを書いていました)。



第158回 南北朝時代の岩手 第3幕(平泉町 中尊寺)

 私的岩手通史の旅、今回はこの通史で15回目の登場となる平泉町です。藤原清衡が整備した中尊寺は、奥州藤原氏滅亡後も源頼朝によって堂宇の復旧が命じられたり鎌倉幕府の支援により金色堂に覆堂が設けられたりと、支配者が代わっても大切にされてきました。それは北畠顕家が陸奥守となってからも同じで、その保護に努めたそうです。

 しかしその甲斐もなく1337(建武4)年、野火により多くの堂宇が灰となってしまいました。本堂もその時に焼失し、現在の本堂は1909(明治42)年に再建されました。


(再建後の中尊寺本堂 -平泉町平泉 2008/11/23-)

 あちこちの名所旧跡を訪れたり案内本を読むと、火事によって多くの史跡が失われたことを実感させられます。火事の原因は失火・戦火等様々ですが、往時の姿を見ることができないのは残念でなりません。

 歴史に「れば」「たら」を申しても仕方ありませんが、現在の通説が覆る事実が炎の中に消えてしまっているのかもしれません。

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2012/03/03の一品・・・1248)下野ワンデイハイク 旧足尾町(3景目 下間藤)
2011/03/03の一品・・・896)千葉散歩 春のおすそ分け(続・勝浦ビッグひなまつり)
2010/03/03の一品・・・661)栃木散歩 益子町(七井駅)
2009/03/03の一品・・・461)盛岡散歩 銭形平次
2008/03/03の一品・・・196)宮脇氏の見た栃木県2 間藤(時刻表2万キロ)
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1584)私的岩手通史の旅 第157回(南北朝時代の岩手 第3幕)

2013年02月24日 | 私的岩手通史の旅
 1年前の昨日の前菜を見返したら「ひときわ新しい気持ちでいざ参内!」と記していました。あの朝の気持ちは今でも覚えていますが、ラジオ体操が流れる前には家を発ち午前様の日が多い最近では、あの新鮮な気持ちは彼方に行ってしまいましたね。-「辞めてやる!」会社に「いいねー」と返される(サラリーマン川柳)-



 南北朝時代の岩手県の続きです。南北朝時代は1335年に始まり、1392年の南北朝合体により終わりとなるのですが、その間は元号もそれぞれにあり、素人には非常にややこしいです。

 しかし作家の故宮脇俊三氏に言わせれば「2つの元号の並立が1392(明徳3・元中9)年まで続く。しかも南朝、北朝それぞれの事情で改元を繰り返すので非常にわずらわしい。しかし、そのわずらわしさこそ南北朝時代なのだろう。物差しの目盛のような「西暦」だけで済ますわけにはいかない」と述べています(「室町戦国史紀行」講談社)。

 それはさておき、この時代は岩手県内でも南朝方・北朝方分かれての戦いが多く繰り広げられました。その中には和賀氏のように南北両朝に分かれて血を流し合うこともありました。

(初冬の和賀川 -西和賀町沢内大野 2008/12/21-)

 歴史ドラマではよく河原での戦いのシーンが登場します。この地がその舞台となったかは分かりませんが、和賀氏が南北両朝に分かれて戦ったのは1340(暦応2・延元4)年のことです。まだ直接刃を交わす時代でしたから、相手には知った顔もあったことでしょう。

2012/02/24の一品・・・1240)自転車に乗って きどうみち跡(4)
2011/02/24の一品・・・889)私的岩手通史の旅 第68回(前九年合戦 第13幕)
2010/02/24の一品・・・654)隣県の冬景色 秋田県仙北市(雪の桜並木)
2009/02/24の一品・・・457)盛岡散歩 冬の四十四田ダム
2008/02/24の一品・・・188)春一番の翌日

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1579)私的岩手通史の旅 第156回(南北朝時代の岩手 第2幕)

2013年02月17日 | 私的岩手通史の旅
 昨朝地元紙に載っていた「JRが周遊きっぷを廃止する」という記事を読み始めた時、ラジオからも同じニュースが流れてきたのですが、活字とラジオからの文言がまったく一緒でした。誰かが朗読している文章を目で追っているような状態で、国語の授業を思い出し懐かしくなりました。



第156回 南北朝時代の岩手 第2幕(青森県八戸市 根城跡)

 南北朝時代の続きです。岩手県の南朝方をけん制するために、北朝方だった足利尊氏によって奥州管領に任じられた斯波家長(しわいえなが)が居としたのが高水寺城(紫波町)でしたが、南朝方である八戸南部氏が居としたのが、青森県八戸市の「根城(ねじょう)」です。根城は1334(建武元)年に南部師行(なんぶもろゆき)が築いたとされています。


(300余年、八戸南部氏の拠点となった根城跡 -八戸市根城 2010/07/16―)

 根城は八戸市街地西部にあった平城で、北を馬淵川が流れています。城とはいえ天守閣のある城ではありません。1941(昭和16)年に国の史跡に指定され、1978(昭和53)年から11年かけて発掘調査が行なわれ、1994(平成6)年には「史跡 根城の広場」として整備されました。 

(賓客をもてなした主殿 -八戸市根城 2010/07/16-)

 根城には本丸の他に中館・岡前館等がありましたが、史跡全体図を見るとそれぞれの館跡が堀によって細かく仕切られています。敵の侵入を防ぐためでもあったのでしょうか。

(史跡全体図)

 ひとことで南部氏と言っても始祖の光行から下るにつれいくつかに分かれていきます。根城を拠点としたのは八戸南部氏(根城南部氏)と呼ばれ、約300年に渡ってこの地に君臨し続けます。

2012/02/17の一品・・・1233)福島の冬 4景目(下郷町 大内宿へ)
2011/02/17の一品・・・882)私的岩手通史の旅 第63回(前九年合戦 第8幕)
2010/02/17の一品・・・647)隣県の冬景色 秋田名物内陸線!
2009/02/17の一品・・・453)双子たまご
2008/02/17の一品・・・182)栃木散歩 下野市(蛇骨塚)

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