神はみ心をかえ、
その激しい怒りをやめて、
われわれを滅ぼされないかもしれない。
だれがそれを知るだろう。ヨナ書3:9口語訳)
自分の罪を公に言い表すなら、
神は真実で正しい方ですから、
罪を赦し、
あらゆる不義から私たちを清めてくださいます。Ⅰヨハネ1:9
イザヤ書26:1~6
マルコ8:27~33
(ローズンゲン日々の聖句8/13;土)
アッシリア帝国の首都ニネベ。
天の神、主、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と名乗られる方は、イスラエル人ヨナを預言者として立て、その町、ニネベに宣告されたのだそうです。
「もう40日すると、ニネベは滅ぼされる」と。
これを聞いたニネベの人々は、これを信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者から低い者まで荒布を着たのだそうです。
王は王座から立って王服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中に座り、布告したのだそうです。
「人も、獣も、牛も、羊もみな、何も味わってはならない。
草をはんだり、水を飲んだりしてはならない。
人も、家畜も、荒布を身にまとい、ひたすら神にお願いし、
おのおの悪の道と暴虐な行いから立ち返れ。
もしかすると、神が思い直してあわれみ、
その燃える怒りをおさめ、
私たちは滅びないで済むかもしれない」と。
天の神、主は、彼らが悪の道から立ち返るために努力していることをご覧になって、彼らに下すと言っておられたわざわいを思い直し、滅ぼすのをやめられたのだそうです(ヨナ3:1~10)。
そのように、天の神、主、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と名乗られる方は、私たちが、ひとりでも滅びることを望んでおられない方(Ⅱペテロ3:9)。
天の神、主は、単に、私たちに、罰を下すのを思い直されるだけではなく、永遠の初めから共におられ、人間の創造、この天地、宇宙、地球の自然環境を創造された方、「御子である神」と呼ばれる方を、「女の子孫」(創世記3:15)、人間イエスとして人の世に生まれさせ、およそ33歳の頃、この方の上に、すべての人間の、すべてのそむきの罪の責任を負わせ、この方を十字架刑で処刑され(マルコ8:27~33)、これを受け取る者の、「神のひとりのようになろう。善悪を知る者になろう」とし(創世記3:5、22)、天の神、主に対抗し、そむく者になっている「生まれたときからの霊」を処刑済みにし、死んだ者と手続きしてくださって、刑罰は残っていない者とみなしてくださるのだそうです。
それで、自分の罪を思い出したとき、それを天の神、主に言い表していくなら、その罪は、イエスが受けてくださった十字架刑で、もう、すでに処刑済みになっていることをわからせてくださるのだそうです。
そして、私たち、「生まれたときからの霊」から出て来る思いは、「死んでしまっている者から来た思いだ」と認めて(ロマ6:11)、その思いは放っておいて、
「聖である霊」と呼ばれる方が心に置いてくださる、「父である神」が私に対して思っていてくださる「御思い」を「私の思い」として生きていくようになるのだそうです。
その新しい生き方を生きるようにしていただいた者は、ユダの人々と共にうたうのだそうです。
「その日、ユダの国でこの歌が歌われる。
私たちには強い町がある。
神はその城壁と塁で私たちを救ってくださる。
城門をあけて、誠実を守る正しい民を入らせよ。
志の堅固な者を、
あなたは全き平安のうちに守られます。
その人があなたに信頼しているからです。
いつまでも主に信頼せよ。
ヤハ、主(わたしはある。わたしはあるという者」と名乗られる方)は、
とこしえの岩だから。
主は高いところ、そびえ立つ都に住む者を引き倒し、
これを下して地に倒し、
これを投げつけて、ちりにされる。
貧しい者の足、弱い者の歩みが、
これを踏みつける」(イザヤ26:1~6新改訳)と。
今日も。
イメージ 1
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その激しい怒りをやめて、
われわれを滅ぼされないかもしれない。
だれがそれを知るだろう。ヨナ書3:9口語訳)
自分の罪を公に言い表すなら、
神は真実で正しい方ですから、
罪を赦し、
あらゆる不義から私たちを清めてくださいます。Ⅰヨハネ1:9
イザヤ書26:1~6
マルコ8:27~33
(ローズンゲン日々の聖句8/13;土)
アッシリア帝国の首都ニネベ。
天の神、主、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と名乗られる方は、イスラエル人ヨナを預言者として立て、その町、ニネベに宣告されたのだそうです。
「もう40日すると、ニネベは滅ぼされる」と。
これを聞いたニネベの人々は、これを信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者から低い者まで荒布を着たのだそうです。
王は王座から立って王服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中に座り、布告したのだそうです。
「人も、獣も、牛も、羊もみな、何も味わってはならない。
草をはんだり、水を飲んだりしてはならない。
人も、家畜も、荒布を身にまとい、ひたすら神にお願いし、
おのおの悪の道と暴虐な行いから立ち返れ。
もしかすると、神が思い直してあわれみ、
その燃える怒りをおさめ、
私たちは滅びないで済むかもしれない」と。
天の神、主は、彼らが悪の道から立ち返るために努力していることをご覧になって、彼らに下すと言っておられたわざわいを思い直し、滅ぼすのをやめられたのだそうです(ヨナ3:1~10)。
そのように、天の神、主、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と名乗られる方は、私たちが、ひとりでも滅びることを望んでおられない方(Ⅱペテロ3:9)。
天の神、主は、単に、私たちに、罰を下すのを思い直されるだけではなく、永遠の初めから共におられ、人間の創造、この天地、宇宙、地球の自然環境を創造された方、「御子である神」と呼ばれる方を、「女の子孫」(創世記3:15)、人間イエスとして人の世に生まれさせ、およそ33歳の頃、この方の上に、すべての人間の、すべてのそむきの罪の責任を負わせ、この方を十字架刑で処刑され(マルコ8:27~33)、これを受け取る者の、「神のひとりのようになろう。善悪を知る者になろう」とし(創世記3:5、22)、天の神、主に対抗し、そむく者になっている「生まれたときからの霊」を処刑済みにし、死んだ者と手続きしてくださって、刑罰は残っていない者とみなしてくださるのだそうです。
それで、自分の罪を思い出したとき、それを天の神、主に言い表していくなら、その罪は、イエスが受けてくださった十字架刑で、もう、すでに処刑済みになっていることをわからせてくださるのだそうです。
そして、私たち、「生まれたときからの霊」から出て来る思いは、「死んでしまっている者から来た思いだ」と認めて(ロマ6:11)、その思いは放っておいて、
「聖である霊」と呼ばれる方が心に置いてくださる、「父である神」が私に対して思っていてくださる「御思い」を「私の思い」として生きていくようになるのだそうです。
その新しい生き方を生きるようにしていただいた者は、ユダの人々と共にうたうのだそうです。
「その日、ユダの国でこの歌が歌われる。
私たちには強い町がある。
神はその城壁と塁で私たちを救ってくださる。
城門をあけて、誠実を守る正しい民を入らせよ。
志の堅固な者を、
あなたは全き平安のうちに守られます。
その人があなたに信頼しているからです。
いつまでも主に信頼せよ。
ヤハ、主(わたしはある。わたしはあるという者」と名乗られる方)は、
とこしえの岩だから。
主は高いところ、そびえ立つ都に住む者を引き倒し、
これを下して地に倒し、
これを投げつけて、ちりにされる。
貧しい者の足、弱い者の歩みが、
これを踏みつける」(イザヤ26:1~6新改訳)と。
今日も。
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