朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

弱い者におもねり、強い者にへつらうばかりの者にも、公正な心を

2016-08-28 21:48:09 | 聖書から
あなたは弱い者を偏(かたよ)ってかばったり、

  力ある者におもねってはならない。レビ記19:15




 栄光に満ちた、私たちの主イエス・キリストを信じながら、

人を分け隔てしてはなりません。ヤコブ書2:1




 申命記26:1~11 

 エレミヤ書1:1~10

      (ローズンゲン日々の聖句8/29;月)




 私自身である、私の「生まれたときからの霊」から出て来る思いは、公正な思いではなく、人に気に入られようとする思いで、弱い者をかばい、おもねり、あるいは、力ある者にへつらう思いです。




 人をえこひいき、分け隔てし、金持ちや、力のある人、この世の立派な人を喜び、ていねいに接し、貧しい人や弱い人を冷たく、ぞんざいに扱う(ヤコブ2:1~9)。




 天の神、主、「わたしはある」という方は、この方が与えてくださった恵みを在留異国人、みなしご、やもめと分け合い、喜びを分け合ってほしいのだそうですが、その御思いが 「聖である霊」と呼ばれる方をとおして、受け入れる者の心に来るのだそうです(申命記26:11~12)。




 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方が、若い祭司であったエレミヤを預言者として召し出されたとき、言われた言葉は、

「わたしがあなたを遣わすどんなところにでも行き、

わたしがあなたに命じるすべての事を語れ」、

「今、わたしのことばをあなたの口に授けた」というものでした(エレミヤ1:7、9)。







 イエスは、「わたしはわたしを遣わした方(父である神)から聞いたことをそのまま世に告げるのです。

わたしはわたし自身からは何事もせず、ただ父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話しているのです」と言っておられます(ヨハネ8:26、28)。




 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、私たちひとりひとりを通しても、してほしいと思っておられることがあるのだそうです。




 その御思いを、イエスの十字架刑での処刑と復活を通して来てくださる「聖である霊」と呼ばれる方によって、受け入れる者の心に 置いてくださり、受け入れる者を同じ思い、一つ思いを思うようにしてくださるのだそうです(エゼキエル36:25~28、使徒2:1~4)。




 天の神、主は、私たちに、その御思いについていく者に、「わたしが行うわざを行う」者、同労者になってほしいのだそうです(ヨハネ14:12)。

今日も。


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主をたたえよ。御計らいのゆえに

2016-08-28 05:49:51 | 聖書から
私の魂よ、主をたたえよ。

主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。詩編103:2

      (8/28の週の聖句)




 あなたは私の盾、避けどころ、私の救い主、

不法から私を救ってくださる方。サムエル記下22:3




 私たちは、四方から苦しめられても行き詰らず、

途方にくれても失望せず、

虐(しいた)げられても見捨てられず、

打ち倒されても滅ぼされない。Ⅱコリント4:8~9




 ルカ17:11~19

 詩編146

      (ローズンゲン日々の聖句8/28;Ⅳ日)







 天の神、主、「わたしはあるという者だ」と名乗られる方は、より頼む者の盾、避けどころとなってくださり、不法から、暴虐から救ってくださる方なのだそうです。




 それで、この方により頼んでいけば、四方から苦しめられるのですが、行き詰ることはなく、途方にくれてしまうのですが、望みを失うことはなく、虐げられ、迫害されるのですが、見捨てられることはなく、打ち倒されるのですが、倒れきって滅びることはないのだそうです。




 君主たち、人間の中で力のある人たちは頼りになるように思えます。

しかし、どんなに力があるように見える人でも、霊が出ていくと、その人は土に帰り、その日のうちに彼のもろもろの計画は滅び失せます。




 だから、人に頼らず、天の神、主を自分の助け手とし、この方に望みを置く者は幸いな人なのだと言われるのですね。




 この方、天の神、主、「わたしはあるという者」と言われる方は、天と地と海とその中のいっさいを造った方。

とこしえまでも真実を守り、しいたげられる者のために正しいさばきを行い、

飢えた者にパンを与える方。

捕らわれ人を解放し、盲人の目をあけ、かがんでいる者を起こされる方。

正しい者を愛し、在留異国人を守り、みなしごとやもめをささえられる方(詩篇146新改訳)。




この方の恵みとあわれみを受けた者は言うのですね。

「私の魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない」(詩編103:2)と。







 ライと思われる病に冒された人が、「どうぞあわれんでください」とイエスにお願いし、イエスから「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい」と言われ、ユダヤでは、ライ病が治った者は、からだを祭司に見せて治ったことを証明してもらうことになっていたのですが、イエスからそう言われたので、まだ治っていないのに祭司のところに見せに行っていると、その行っている途中で治ってしまい、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏し、感謝したように。




この新しい一週間、

私たちも。


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