あなたは私たちの罪を御前に、
隠れた罪を御顔の光の中に置かれます。詩編90:8
隠れているもので、
あらわにならないものはなく、
秘められたもので、人に知られず、
公にならないものはない。ルカ8:17
ルカ19:1~10
ルカ9:46~50(通読箇所))
(ローズンゲン日々の聖句2/13:月)
隠れているもの、秘められているものも、すべてが天の神、主には明らかなのだそうですが、そればかりではなく、人にも知られ、公にされるときが来るようですね。
人に知られないように隠し通せたことも。
また、心の内にしまいこんでいることも。
それで、イエスは、兄弟に向かって腹を立てる者は、殺人罪で裁判にかけられる、「能なし」と言うような者は、最高裁判所に引き渡される、「ばか者」と言うような者は燃えるゲヘナ(地獄)に投げ込まれると言われたのでしょうか。
また、情欲を抱いて異性を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです、とも(マタイ5:21~28)。
そして、自分は他人よりも偉い者だ(ルカ9:46)とひそかに思う思い、
「これは自分の力で得たものだ」と自分を誇りたい思い、
それが、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」となっている(創世記3:5、22)〔生まれたときからの私〕という霊から心に湧きあがって来るのですね。止めようもなく。
それらが、すべて、明らかになり、人に知られる、公のものになる、そういう日が来ると。
エリコの取税人のかしら、ザアカイという人物。金を貯め込むことを人生の目的にし、町の人から罪人と評価され、イエスが彼の家に泊まると、人々は、「イエスは罪人のところに行き、客となった」と批判されるような人だったのだそうです。
けれども、イエスの愛にふれ、自分から「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、4倍にして返します」と申し出て、イエスから、「きょう、救いがこの家に来ました」と言っていただけるほどに心が替えられたのだそうです(ルカ19:1~10)。
〔父である神〕は、〔御子である神」を人間イエスとして人の世に派遣し、すべての人の身代わりとし、神に背く者として十字架刑で処刑されたのだそうです。
そして、そのイエスの死を、私たち自身の〔生まれたときからの私〕という霊の処刑とみなしてくださり、私たちの処刑が終わったことにしてくださるのだそうです。
それで、これを受け入れた者は、何が出て来ても、すべて、処罰済みの大判を押していただけるのだそうです。
さらに、イエスは、受け入れる者に、もう一人の助け主、〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださり、この方によって、受け入れる者の心に、〔父である神〕がひとり一人に思っておられる御思いを置き、書きしるしてくださるのだそうです。
それで、受け入れる者は、心が一新され(ロマ12:2)、この部分において、〔父である神〕と同じ思いを思い、同じ願いを願う者としていただき、〔父である神〕と一つ心に、一つ行動をとる者にしていただけるのだそうです。
私たちの心から、どんな思いが出て来ても、訴える者、サタンが、何を告訴しても、その一つ一つが処罰済みであるとしてくださっているので、受け入れる者は、はばかることなく、「父よ」と呼びかけて(ロマ8:14~17)、御前に出て行けるのだそうです(ヘブル4:16)。
今日も。
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隠れた罪を御顔の光の中に置かれます。詩編90:8
隠れているもので、
あらわにならないものはなく、
秘められたもので、人に知られず、
公にならないものはない。ルカ8:17
ルカ19:1~10
ルカ9:46~50(通読箇所))
(ローズンゲン日々の聖句2/13:月)
隠れているもの、秘められているものも、すべてが天の神、主には明らかなのだそうですが、そればかりではなく、人にも知られ、公にされるときが来るようですね。
人に知られないように隠し通せたことも。
また、心の内にしまいこんでいることも。
それで、イエスは、兄弟に向かって腹を立てる者は、殺人罪で裁判にかけられる、「能なし」と言うような者は、最高裁判所に引き渡される、「ばか者」と言うような者は燃えるゲヘナ(地獄)に投げ込まれると言われたのでしょうか。
また、情欲を抱いて異性を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです、とも(マタイ5:21~28)。
そして、自分は他人よりも偉い者だ(ルカ9:46)とひそかに思う思い、
「これは自分の力で得たものだ」と自分を誇りたい思い、
それが、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」となっている(創世記3:5、22)〔生まれたときからの私〕という霊から心に湧きあがって来るのですね。止めようもなく。
それらが、すべて、明らかになり、人に知られる、公のものになる、そういう日が来ると。
エリコの取税人のかしら、ザアカイという人物。金を貯め込むことを人生の目的にし、町の人から罪人と評価され、イエスが彼の家に泊まると、人々は、「イエスは罪人のところに行き、客となった」と批判されるような人だったのだそうです。
けれども、イエスの愛にふれ、自分から「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、4倍にして返します」と申し出て、イエスから、「きょう、救いがこの家に来ました」と言っていただけるほどに心が替えられたのだそうです(ルカ19:1~10)。
〔父である神〕は、〔御子である神」を人間イエスとして人の世に派遣し、すべての人の身代わりとし、神に背く者として十字架刑で処刑されたのだそうです。
そして、そのイエスの死を、私たち自身の〔生まれたときからの私〕という霊の処刑とみなしてくださり、私たちの処刑が終わったことにしてくださるのだそうです。
それで、これを受け入れた者は、何が出て来ても、すべて、処罰済みの大判を押していただけるのだそうです。
さらに、イエスは、受け入れる者に、もう一人の助け主、〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださり、この方によって、受け入れる者の心に、〔父である神〕がひとり一人に思っておられる御思いを置き、書きしるしてくださるのだそうです。
それで、受け入れる者は、心が一新され(ロマ12:2)、この部分において、〔父である神〕と同じ思いを思い、同じ願いを願う者としていただき、〔父である神〕と一つ心に、一つ行動をとる者にしていただけるのだそうです。
私たちの心から、どんな思いが出て来ても、訴える者、サタンが、何を告訴しても、その一つ一つが処罰済みであるとしてくださっているので、受け入れる者は、はばかることなく、「父よ」と呼びかけて(ロマ8:14~17)、御前に出て行けるのだそうです(ヘブル4:16)。
今日も。
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