神はソロモンに言われた。
「あなたは自分のために長寿を求めず、
富を求めず、
また敵の命も求めることなく、
訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。
わたしはあなたの言葉に従って与える。」列王記上3:11~12
イエスの言葉:
わたしのこれらのことばを聞いて行う者は皆、
岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。マタイ7:24
ヘブル書2:11~18
レビ記16:1~22(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句3/10:金)
イスラエルにあって、さばきつかさとか王は、民の間の紛争をさばく、今の最高裁判所の長官のような立場にあったようです。
それで、若いソロモンは、ダビデのあとを継いでイスラエルの王となって、天の神、主から「あなたに何を与えようか。願え」と言われたとき、自分のために長寿を求めず、富を求めず、敵の命を求めるのでもなく、「善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください」と願ったのだそうです。
天の神、主は、これを喜ばれ、ソロモンの願ったとおりに、知恵の心と判断する心とを与え、加えて、願わなかった富と誉れと長寿も与えてくださったのだそうです(列王上3:4~14)。
それで、ソロモンは、「ソロモンの知恵」とか、「ソロモンの栄華」とか言われる、イスラエルで最も知恵に満ち、栄華を極めた王となったようです。
「神のひとりのようになり、善悪を知る者になろう」(創世記3:5、22)とした、私たちの〔生まれたときからの私〕という霊。
その霊から出て来る思いは、天の神、主を無視し、天の神、主に対抗し、「的はずれ」になっていて、自分勝手な判断しかできなくなっているものであることを認め、
この〔生まれたときからの私〕と呼ばれる自分自身を、イエスの十字架刑での処刑に合わせていただいて、処刑されたもの、死んだものとしていただき、
新しく、〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えして、
この方から心に来る〔父である神」の御思いによって生きるようになった者は、
生き方の土台を神の御思いに置いている者なので、
その人生は、岩盤を土台として家を建てている者のよう、なのだそうです。
また、天の神、主は、イスラエルに、年に一度、民をすべての罪から贖(あがな)うために、若い雄牛と雄羊、雄やぎ、1頭ずつをほふり、その血を至聖所の「贖いのふた」に振りかけ、そのからだを全焼のいけにえとしてささげるように、また、他の1頭の雄やぎの上に、民のすべての咎(とが)とそむき、すべての罪を告白し、その頭に置いて、荒野に放つよう命じておられます(レビ16:1~22)。
モーセから始まって、紀元70年のローマ軍による神殿崩壊までの、およそ、1500年の間、これが年ごとに行われていたようです。
神の御子であられる方が、その天の御座を後にして、人となり、私たちと同じように血と肉を持つ者となって、人の世に来てくださり、人々を贖う(あがなう、代価を払って買い戻す)ために、イスラエルで年ごとに行われていたこの「贖いのささげもの」のように、十字架に架かって、その血をささげてくださったのだそうです。
そして、これを受け入れる者を、ご自分の民、家族としてこの世から取り分けてくださるのだそうです(ヘブル2:11~18)。
私たちも、墓に葬られ、三日目に新しい霊のからだに復活し、天の〔父である神〕の右の座に帰られた、このイエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えして、この方の民、相続権を持つ子、家族としていただき、ソロモンのように、この方が心に置いてくださる御思い、その知恵によって生きる、岩を土台として人生という家を建てていく人のように、生きられるのだそうです。
今日も。
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「あなたは自分のために長寿を求めず、
富を求めず、
また敵の命も求めることなく、
訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。
わたしはあなたの言葉に従って与える。」列王記上3:11~12
イエスの言葉:
わたしのこれらのことばを聞いて行う者は皆、
岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。マタイ7:24
ヘブル書2:11~18
レビ記16:1~22(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句3/10:金)
イスラエルにあって、さばきつかさとか王は、民の間の紛争をさばく、今の最高裁判所の長官のような立場にあったようです。
それで、若いソロモンは、ダビデのあとを継いでイスラエルの王となって、天の神、主から「あなたに何を与えようか。願え」と言われたとき、自分のために長寿を求めず、富を求めず、敵の命を求めるのでもなく、「善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください」と願ったのだそうです。
天の神、主は、これを喜ばれ、ソロモンの願ったとおりに、知恵の心と判断する心とを与え、加えて、願わなかった富と誉れと長寿も与えてくださったのだそうです(列王上3:4~14)。
それで、ソロモンは、「ソロモンの知恵」とか、「ソロモンの栄華」とか言われる、イスラエルで最も知恵に満ち、栄華を極めた王となったようです。
「神のひとりのようになり、善悪を知る者になろう」(創世記3:5、22)とした、私たちの〔生まれたときからの私〕という霊。
その霊から出て来る思いは、天の神、主を無視し、天の神、主に対抗し、「的はずれ」になっていて、自分勝手な判断しかできなくなっているものであることを認め、
この〔生まれたときからの私〕と呼ばれる自分自身を、イエスの十字架刑での処刑に合わせていただいて、処刑されたもの、死んだものとしていただき、
新しく、〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えして、
この方から心に来る〔父である神」の御思いによって生きるようになった者は、
生き方の土台を神の御思いに置いている者なので、
その人生は、岩盤を土台として家を建てている者のよう、なのだそうです。
また、天の神、主は、イスラエルに、年に一度、民をすべての罪から贖(あがな)うために、若い雄牛と雄羊、雄やぎ、1頭ずつをほふり、その血を至聖所の「贖いのふた」に振りかけ、そのからだを全焼のいけにえとしてささげるように、また、他の1頭の雄やぎの上に、民のすべての咎(とが)とそむき、すべての罪を告白し、その頭に置いて、荒野に放つよう命じておられます(レビ16:1~22)。
モーセから始まって、紀元70年のローマ軍による神殿崩壊までの、およそ、1500年の間、これが年ごとに行われていたようです。
神の御子であられる方が、その天の御座を後にして、人となり、私たちと同じように血と肉を持つ者となって、人の世に来てくださり、人々を贖う(あがなう、代価を払って買い戻す)ために、イスラエルで年ごとに行われていたこの「贖いのささげもの」のように、十字架に架かって、その血をささげてくださったのだそうです。
そして、これを受け入れる者を、ご自分の民、家族としてこの世から取り分けてくださるのだそうです(ヘブル2:11~18)。
私たちも、墓に葬られ、三日目に新しい霊のからだに復活し、天の〔父である神〕の右の座に帰られた、このイエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えして、この方の民、相続権を持つ子、家族としていただき、ソロモンのように、この方が心に置いてくださる御思い、その知恵によって生きる、岩を土台として人生という家を建てていく人のように、生きられるのだそうです。
今日も。
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