お前たちの周囲に残された国々も、
主であるわたしがこの破壊された所を建て直し、
荒れ果てていたところに植物を植えたことを
知るようになる。エゼキエル36:36
シメオンの祈り:
私はこの目であなたの救いを見ました。
これは万民のための救いで、
異邦人を照らす啓示の光、
あなたの民イスラエルの誉れです。ルカ2:30~32
マタイ19:16~26
ルカ20:9~19(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句3/23;木)
「われわれのかたちとして、われわれに似せて」人を造られた(創世記1:26)、天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、自分が「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっていて(創世記3:5、22)、神の民となる契約を結びながら(出エジプト19:3~8、24:3~8)、天の神、主と思いを一つにしようとせず、自分の理性による善悪の判断のままに、自分の好む神を拝み、これに仕える、ご自身の民に、何度も、預言者を送り、御自身に立ち返るよう説得されたのだそうです。
けれども、彼らは、この勧めを聞こうとせず、
いよいよ、自分の善いとする道を歩むばかりだったので、
このまま進んで行って、いよいよそむきが強くなり、
最終的に全部滅ぼしてしまうことにならないようにと、
バビロンの王、ネブカデネザルを用いてエルサレムを攻めさせ、
これを破壊し、荒れ果てたところとし、民をバビロンの捕囚とされたのだそうです。
けれども、それは、滅ぼすことが目的ではなく、民を建て直そうとしておられるのであって、
このようにエゼキエルをとうしても、民を打つことを伝えながら、同時に回復の預言を与え、希望を与えようとしておられるのですね。
そして、預言の言葉のとおりに70年の捕囚の時を経て、
天の神、主は、クロスをペルシャの王として立て、
彼によって民をエルサレムに帰還させ、これを再建されたのだそうです。
この時から、550年ほどの時を経た、エルサレム神殿において、
シメオンは、モーセの律法に従って神のものとしてささげられるために来たイエスを抱き上げ、
イエスはまだ生後40日ほどの赤ん坊であるにもかかわらず、
「私はこの目であなたの救いを見ました」と、神に感謝の祈りをささげたのだそうです。
〔父である神〕は、このイエスを、およそ33歳の頃、
すべての人の身代わりとして、すべてのそむきの責任を負わせて十字架刑で処刑し、
受け入れる者を、このイエスの十字架刑での処刑に合わせてくださって処刑されたもの、死んだものとしてくださって、
律法の罰則の要求から解放してくださるのだそうです。
そのうえで、受け入れる者に、もう一人の助け主、〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださって(ヨハネ14:16)、
エゼキエルに与えられた預言のとおりに、この方によって受け入れる者の心に、ご自身の御思いを置いてくださって、
受け入れる者がご自身と同じ思いを思い、一つ心になり、
御自身がその人を通してしようと思っておられることを自発的にしていく者にしてくださるのだそうです(エゼキエル36:25~28)。
ある金持ちの青年が、イエスに、「永遠の命を得るためには、どんな良いことをしたらいいのでしょうか。モーセの律法はみんな守っています」と問うた時、
イエスは、「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そのうえで、わたしについて来なさい」と答えられ、
この青年は悲しみながら去って行ったのだそうです(マタイ19:16~22)。
私たち、この青年のようにイエスのもとから去って行くのではなく、
永遠の命を受けるのにふさわしいほどの良いことができない者であることを認めて、
イエスの十字架刑での処刑に合わせていただいて死んだものとしていただきながら、
〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置いてくださる〔父である神〕の御思いについて行く者にしていただけるのだそうですね。
神からの使いを無視し、侮辱し、殺し、最後に遣わされて来た御子をさえ殺してしまう、あのぶどう園の農夫のようであったのに(ルカ20:9~18)。
今日も。
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主であるわたしがこの破壊された所を建て直し、
荒れ果てていたところに植物を植えたことを
知るようになる。エゼキエル36:36
シメオンの祈り:
私はこの目であなたの救いを見ました。
これは万民のための救いで、
異邦人を照らす啓示の光、
あなたの民イスラエルの誉れです。ルカ2:30~32
マタイ19:16~26
ルカ20:9~19(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句3/23;木)
「われわれのかたちとして、われわれに似せて」人を造られた(創世記1:26)、天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、自分が「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっていて(創世記3:5、22)、神の民となる契約を結びながら(出エジプト19:3~8、24:3~8)、天の神、主と思いを一つにしようとせず、自分の理性による善悪の判断のままに、自分の好む神を拝み、これに仕える、ご自身の民に、何度も、預言者を送り、御自身に立ち返るよう説得されたのだそうです。
けれども、彼らは、この勧めを聞こうとせず、
いよいよ、自分の善いとする道を歩むばかりだったので、
このまま進んで行って、いよいよそむきが強くなり、
最終的に全部滅ぼしてしまうことにならないようにと、
バビロンの王、ネブカデネザルを用いてエルサレムを攻めさせ、
これを破壊し、荒れ果てたところとし、民をバビロンの捕囚とされたのだそうです。
けれども、それは、滅ぼすことが目的ではなく、民を建て直そうとしておられるのであって、
このようにエゼキエルをとうしても、民を打つことを伝えながら、同時に回復の預言を与え、希望を与えようとしておられるのですね。
そして、預言の言葉のとおりに70年の捕囚の時を経て、
天の神、主は、クロスをペルシャの王として立て、
彼によって民をエルサレムに帰還させ、これを再建されたのだそうです。
この時から、550年ほどの時を経た、エルサレム神殿において、
シメオンは、モーセの律法に従って神のものとしてささげられるために来たイエスを抱き上げ、
イエスはまだ生後40日ほどの赤ん坊であるにもかかわらず、
「私はこの目であなたの救いを見ました」と、神に感謝の祈りをささげたのだそうです。
〔父である神〕は、このイエスを、およそ33歳の頃、
すべての人の身代わりとして、すべてのそむきの責任を負わせて十字架刑で処刑し、
受け入れる者を、このイエスの十字架刑での処刑に合わせてくださって処刑されたもの、死んだものとしてくださって、
律法の罰則の要求から解放してくださるのだそうです。
そのうえで、受け入れる者に、もう一人の助け主、〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださって(ヨハネ14:16)、
エゼキエルに与えられた預言のとおりに、この方によって受け入れる者の心に、ご自身の御思いを置いてくださって、
受け入れる者がご自身と同じ思いを思い、一つ心になり、
御自身がその人を通してしようと思っておられることを自発的にしていく者にしてくださるのだそうです(エゼキエル36:25~28)。
ある金持ちの青年が、イエスに、「永遠の命を得るためには、どんな良いことをしたらいいのでしょうか。モーセの律法はみんな守っています」と問うた時、
イエスは、「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そのうえで、わたしについて来なさい」と答えられ、
この青年は悲しみながら去って行ったのだそうです(マタイ19:16~22)。
私たち、この青年のようにイエスのもとから去って行くのではなく、
永遠の命を受けるのにふさわしいほどの良いことができない者であることを認めて、
イエスの十字架刑での処刑に合わせていただいて死んだものとしていただきながら、
〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置いてくださる〔父である神〕の御思いについて行く者にしていただけるのだそうですね。
神からの使いを無視し、侮辱し、殺し、最後に遣わされて来た御子をさえ殺してしまう、あのぶどう園の農夫のようであったのに(ルカ20:9~18)。
今日も。
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