朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

主は私の砦、私の歌、私の救い

2014-01-16 23:37:06 | 聖書から
主は

私の砦、



私の歌。





主は

私の救いと

なってくださった。

詩篇118:14
 





御父は、

私たちを

闇の力から救い出して、



その

愛する御子の

支配下に

移してくださいました。

コロサイ書1:13
 



 (ローズンゲン日々の聖句1/17;金)






あの方が、

私を守って下さる方、

私の喜びの歌、

救いと

なって下さっているのだそうです。





闇の力の支配下にあって、

ただ、

滅びの死に向かって進んでいた、

望みのない者を、



御子キリストの愛の支配のもとに

移して下さっているのだそうです。




でも、

そのためには、

あの方は、

御子である方を

人として私たちの世に
遣わし





この世の最も残酷で一番苦しい処刑、

十字架刑で

処刑されたのだそうですね。...




イエスを十字架につけた側の者たちも、

イエスの弟子たちも、

イエスの死で

全部終わった、

終了したと

思ったようですが、





実は、

これは始まりだったのだそうです。


あの方は、

イエスを

墓から、

新しいからだ、霊のからだに

よみがえらせ、



私たちにも

復活の希望、

新しい霊のからだをいただける希望を

与えて下さり、



やがて実現する御国を受け継ぐ者と

して下さったのだそうですね。




そればかりではなく、

この方を

ご自分の許に呼び戻し、



代わって、

「聖である霊」と呼ばれる方を

私たちの内に派遣して下さって、



この方によって、

御思いが

私たちの心に思われるようにして下さり、



心の底から

御思いに従う、

新しい生き方を

生きさせて下さっているのだそうです。




それで、

私たちも、

この詩篇の作者と心を合わせて、



「主は私の砦、

私の歌、

私の救い 」

と声をあげて

あの方をたたえるのですね。



今日も。




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「聖である霊」と呼ばれる方が来られる道となって下さったのかしら

2014-01-16 00:01:17 | 聖書から
彼が

担ったのは

私たちの病、



彼が

負ったのは

私たちの痛み

であったのに、



私たちは思っていた、

神の手にかかり、

打たれたから、



彼は

苦しんでいるのだ、

と。

イザヤ書53:4






 この方こそ、

私たちの罪、



いや、

私たちの罪ばかりでなく、

全世界の罪を償う

いけにえです。

Ⅰヨハネ2:2
 



 (ローズンゲン日々の聖句1/16;木)






イエスが受けた

むち打ち刑と十字架刑による処刑、



それを眺めている人々の心境を、

その時よりも700年ほど前の

イザヤが

書きしるしているのですね。



「彼は、

神の手にかかり打たれ、

苦しんでいるのだ」と。



その時から2000年を経た、

今日でも、

多くの人が

そう思っているのでしょうね。





けれども、

イエスが

痛めつけられ、苦しんだのは、

私の罪、

私の病を

背負ってのこと

だったのだそうです。



まさしく

私たちの、

全人類の

罪を償ういけにえとなって、

痛めつけられ、

命をささげて下さったのだそうですね。




まことに、

彼は

私たちの病を負い、

私たちの痛みを

になった。



彼は

私たちのそむきの罪のために

刺し通され、



私たちの咎のために

砕かれた。



彼への懲らしめが

私たちに平安をもたらし、



彼の打ち傷によって、

私たちはい

やされた

(イザヤ53;4~6)。





あの方は、

私たちのすべての咎を

イエスに負わせたのだそうです。




私たちの、

「生まれた時からの霊」は、

改良の余地のない、

死ぬしかないものと

見極めて、



「聖である霊」と呼ばれる方を

派遣されるにあたって、



その「聖さ」に触れて

私たちが滅びないように、



まず、

御子である方によって、

私たちの罪、咎の処分を

して下さったようですね。




今、

私たちは

、「きれいに掃除がされた空家」

(マタイ12:43~45)

にならないよう、



いよいよ、

「聖である霊」と呼ばれる方を

お迎えして、



その方の

指示を

仰いでいきたいものです。



今日も。



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「聖である霊」と呼ばれる方が来て下さっているのだそうです

2014-01-14 23:56:13 | 聖書から
私に

御顔を向け、

憐れんでください。



御力を

あなたの僕に

分け与えてください。

詩篇86:16
 



使徒たちが、

「私どもの

信仰を

増してください」

と言った。

ルカ17:5
  



(ローズンゲン日々の聖句1/15;水)






私たちは、

私たち自身の

信仰が増し、

力を得ることを

願います。





しかし、

イエスは

信仰は

あるかないかであり、



主人に対して

「役に立たない者」であることを

認め、

言い表していく

(ルカ17:10)

方向だと

言っていらっしゃるようですね。




自分を、

主人に対して

「役に立たない者」と

認めて行く方向は、



また、

自分を

マタイ5:3の

「心(霊)の貧しい者」と

認めて行く在り方に

通じ、





ロマ書7:24の

「私は、

ほんとうに

みじめな人間です。



だれが

この死の、

からだから、

私を

救い出してくれるのでしょう」

との、

パウロの叫びにも

通じているとも

思えます。...




「生まれたときからの私」

という

「霊」は、



何処まで行っても、

あの方にとって

「役に立たない」、

「霊が貧しい」もの

なのでしょうね。





だから、

首にされるしかない、

処刑されるしかないもの。




それゆえに、

その者を救い、

我が子とするために、

御子である方を

処刑することを

計画しておられたのでしょうね。

あの方は。




「生まれたときからの私」という「霊」の

信仰が増し、



力を得て行く

方向ではなく、



これを

「役に立たない者」、

「死んでしまっている者」と

認めて(計算して)、



これを見捨てて、



御子である方を通して、

新しく

派遣されて、

来て下さっている

「聖である霊」と呼ばれている方を

お迎えし、



この方が

私たちの心に思わせて下さる

「父である方」の御思いを

実行していく

新しい生き方が

始まっているのだそうですね。



今日も。










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一番いい時に、高めて下さるのだそうですから。あの方は

2014-01-13 23:02:47 | 聖書から
天の王の御業は

まこと、



その道は

正しく、



驕(おご)る者を

倒される。

ダニエル書4:34







神の力強い御手の下で

自分を

低くしなさい。



そうすれば、

かの時には

高めていだだけます。

Ⅰペテロ5:6
 



 (ローズンゲン日々の聖句1/14;火)






あの方によらないで、

自分の力だけで

何事かを為し得ると思う

驕りを、



理性さえも、

自分では

保ち得ないことを

体験させて、



アッシリアの王、ネブカデネザルの驕りを

正されたのだそうですね。

あの方は。





それで、

理性を戻していただいた時、

ネブカデネザル王は、

このように

あの方を

ほめたたえたのだそうです。




この世の人間関係の中で、

自分が低く扱われると、

ずっと

低くされ続けるかのように

思えて、



悩み、嘆き、

あるいは怒る者

ですけれど、



背中を低くし

踏まれるのに任せて、

そのことを受け取っていけば、



一番いい時に、

あの方が

高めて下さるのだそうですね。



あの方は

正しい裁きをして下さる方

なのだそうですから。



今日も。



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ぜひ、会いたいのだそうです

2014-01-12 22:35:35 | 聖書から
恐れることはない。



愛されている者よ。

平和を取り戻し、

しっかりしなさい。

ダニエル書10:19
 





パウロの手紙:

あなたがたに

ぜひ

会いたいのは、



“霊”の賜物を

いくらかでも

分け与えて

力になりたいからです。



あなたがたの所で、

あなたがたと私が

互いに持っている信仰によって、

励まし合いたいのです。

ロマ書1:11〜12
 



 (ローズンゲン日々の聖句1/13;月)






私たちは、

恐れ、心騒ぎ、

力を失うものですけれど、

あの方は

そのような私たちを、

平和な心にし、

力づけて下さるのだそうですね。



パウロも、

ローマに行きたいと願いながら

行けないでいたそうですが、



ローマに行って、

信仰の仲間の人たちと

会い、



力づけあい、

励まし合って、



「聖なる霊」と呼ばれる方の

働きの現れを

さらに大きくいただいていきたいと

願っていたようです。




私たちも、

会って、

集まって、

一緒にいること、



それが

平和な、

ほっとする心になり、



励ましになり、

「聖なる霊」と呼ばれる方の働きが

大きく現れていく出来事に

なりたいですね。



今日も。



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