朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

自由があるのだそうです。主の御霊がおられるところに

2015-01-27 00:25:00 | 聖書から
私の魂を枷(かせ)から引き出してください。
 あなたの御名に感謝することができますように。詩編142:8







主の霊のおられるところに
 自由があります。Ⅱコリント3:17
...

      (ローズンゲン日々の聖句1/27;火)

 
 心に思ったことに制限がかかると不自由を感じる。
心のままをやっていければ自由を謳歌する。



 あの方との一つを嫌って、自分の理性だけで善悪を決定する者となった、生れたときからの私という霊から来る思いは、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものなのですね(ガラテヤ5:19~21)。


 だから、このような心のままを行っていったら、まさしく、地は暴虐で満ちていくことになるのでしょうね。

ノアの洪水の前の世界のように(創世記6:11)。



 けれども、イエスの十字架刑による処刑に合わせていただいて、処刑済みの手続きを受け取った人に派遣されて来る聖である霊と呼ばれる方から私たちの心に来る思いは、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制(ガラテヤ5:22~23)なのですね。



 思うべき限度を超えて思いあがることなく、神が各々に分け与えて下さった信仰のはかりに応じて、慎み深い考えをし、与えられた恵みのプレゼントに応じて行動していきたい思いなのだそうです。

 悪を憎み、善に親しみ、兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりもまさっている者と思い、勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕え、望みを抱いて喜び、患難に耐え、自分一人の考えでことを決めないで絶えず天の父と相談しながらことを進め、旅人をもてなし、迫害する者を祝福し、喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣き、自分こそ知者だと思うような高ぶった思いを持たず、悪に悪を報いることをせず、全ての人が良いと思うことを図り、自分に関する限り、全ての人と平和でありたいと思う思いなのですね。

 復讐は神の怒りに任せ、敵が飢えたなら、彼に食べさせ、渇いたなら、飲ませ、善をもって悪に勝って行きたいと思う思いなのだそうです(ロマ12:3~21)。





 それで、イエスは、このような御父の思いのままに、自由にやって行かれたわけなのでしょうけれど、聖である霊と呼ばれる方は、私たちの心にも、このような思いを書き付けて下さるのだそうですから、これらの思いのままにやっていくとき、私たちは自由と解放を感じるのでしょうね。



 まさしく、「キリストは、自由を得させるために私たちを解放して下さっているのですね(ガラテヤ5:1)。
今日も。



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御霊の思いについて行けば生きるのだそうですね。私たち

2015-01-25 23:00:34 | 聖書から
諸国民の王なる主よ、
 あなたを恐れないものはありません。
  それはあなたにふさわしいことです。エレミヤ書10:7





人間に従うよりも
 神に従わなくてはなりません。使徒5:29




         (ローズンゲン日々の聖句1/26;月)





 世界中の全ての支配者の中にも、
知恵ある者たちの中にも、
この方に並ぶ者はいないのですね。
全ての者が御前にひざまずくのだそうです。





 この世の支配者たちは、しばしば、この方よりも自分を拝むよう強制し、この方のことを伝えるのを阻止しようとして来たのですね。
そして、多くの信仰の先輩たちが命をかけて、この方に従ってきた。
日本においても多くの殉教者の血が流されて来たのだそうです。





 そして、この対立は、私たちの内側においても起こるのですね。
私たち人間、この方との一つを捨てて、この方に対抗し、自分がこの方の一人のようになろうとし、自分の理性を神とし、自分一人で善悪を判断し、決定する者となっているのですから(創世記3:22)。



その私という人間に従うよりも、
神に従うことこそ生きる道なのだそうです。







「ですから、兄弟たち。私たちは、肉(生まれたときからの私という霊)に従って歩む責任を、肉(生まれたときからの私という霊)に対して負ってはいません。もし肉(生まれたときからの私という霊)に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊(イエスが十字架刑で処刑されて下さったことによって、私たちのうちに派遣されて来られる方)によって、からだの行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。」ロマ8:12~13)





 イエスの十字架刑での処刑に合わしていただいて、処刑された者との手続きを済ませていただいた者は、御霊と呼ばれる方が私たちの心のうちに書き付けて下さる、父と呼ばれる方の御思いに従って生きる者にしていただけるのだそうですね(ガラテヤ5:24~25)。
今日も。



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富む、経済的にも、精神的にも、霊的にも

2015-01-24 21:46:03 | 聖書から
あなたの上には主が輝き出で、
 主の栄光があなたの上に現れる。イザヤ60:2(今週の聖句)





あなたたちは、
 心変わりして主を離れ、
  他の神々に仕え、それにひれ伏さないよう、
   注意しなさい。申命11:16






あなたがたは地上に富を積んではならない。
 そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、
  また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。
富は、天に積みなさい。
 そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、
  また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。
あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。マタイ6:19〜21

 

     (ローズンゲン日々の聖句1/25;日)







 モーセを通して与えられた十戒。
その最初の部分には、
「わたしは、
あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、
あなたの神、主である。
あなたには、
わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
あなたは、
自分のために、偶像を造ってはならない。
上の天にあるものでも、
下の地にあるものでも、
地の下の水の中にあるものでも、
どんな形をも造ってはならない。
それらを拝んではならない。
それらに仕えてはならない。
あなたの神、主であるわたしは、妬む神、……。」
とあります。





 人の世には、神と呼ばれるものがたくさんありますが、
宗教の形をとっているそれらは、分かりやすいものですね。


宗教の形をとらないで私たちが神としているもの、
それが、さらに問題なのでしょうね。





 神でないものを神とする。
その最たるものは、自分の理性を神とすることなのでしょうか。





 天の神、主は、私たち人間を、
御自分といつも一緒にいて、
心の底まで明し合い、
お互いよく分かり合って、
思いを一つにしていくものとして
創造して下さったのだそうですね。





 けれども、私たち人間は、
これを嫌い、
天の神、主を呼ばれる方よりも
自分を上の位置に置いてしまったのだそうです。





 それで、私たち人間は生まれながらにして、
天の神、主には背を向け、
この方に相談したり、
意見を聞いたりすることをしないで、
自分一人の理性の判断で
ことを決めて行こうとする者になっているのだそうです。





 その結果、私たち人間は、
歯止めのきかない欲望を持つ者になり、
世界中の富を独り占めにしても
満足することを知らない者になっているのですね。



「このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」(コロサイ3:5)





 天の神、主との関わりを持とうとしないで、
富を負い求めていくこと、
それは他の神々に仕えることになるということでしょうか。



 富も、そのほかのすべてのものも、
天の神、主に相談し、
見ていただき、
知っていただきながら持っていく、
ということのようですね。





あなたがたのすることは、
言葉によると行いによるとを問わず、
すべて主イエスの名によってなし、
主によって父なる神に感謝しなさい。コロサイ3:17





 イエスが十字架刑で処刑されて下さったことを通して
私たちに来て下さる聖である霊と呼ばれる方は、
私たちの心の中に、
このような思いを置いて下さるのですね。
今日も。



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もし、子が自由にすれば

2015-01-23 23:29:54 | 聖書から
主に向かって私は歌おう。
 主は大いなる威光を現された。出エジプト記15:1





もし、子があなたたちを自由にすれば、
 あなたたちは本当に自由になる。ヨハネ8:36
...

        (ローズンゲン日々の聖句1/24;土)





 罪を犯す者は罪の奴隷(ヨハネ8:34)。
しかし子が自由を与えるなら、自由な者となる(36)。



 私たちを自由なものとするために、
御子である方が、私たちの罪の全てを負われて、
十字架刑で処刑されて下さって、
私たちを、処刑が完了した者として下さっているのだそうです。



 そして、聖である霊、あるいは真理の御霊と呼ばれる方を
私たちのうちに派遣して下さり、
この方によって、父である方の御思いを私たちの心に置いて下さるのだそうです。
その思いについて行くとき、
私たちも、孔子70の境地、
「心の欲するところに従えども、矩(のり)を超えず」ということにしていただけるのだそうです。





御子である方が与えて下さる自由。
感謝し、主に向かって歌うのですね。
私たち、今日も。



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和解を受け取って欲しいのだそうです。あの方、私たちに

2015-01-22 22:40:26 | 聖書から
どうか主が、
 激しく怒られることなく、
  いつまでも悪に心を留められることなく、
   あなたの民である私たちすべてに、
    目を留めてくださるように。イザヤ書64:8



キリストはおいでになり、
 遠く離れているあなたがたにも、
  また、近くにいる人々にも、
   平和の福音を告げ知らせられました。エフェソ書2:17

          (ローズンゲン日々の聖句1/23;金)





 私たちはみな、
汚れた者のようになり、
私たちの義はみな、不潔な着物のよう、なのだそうです。

 それでも、
救いを求めて天の神、主の御名を呼ぶ者もなく、
奮い立って、この方にすがる者も見当たらないと
あの方はおっしゃっておられるのですね。



 預言者イザヤの
「主よ。どうかひどく怒らないでください。
いつまでも、咎を覚えないでください。
どうか今、
私たちがみな、あなたによって造られた者、
あなたが私たちの造り主であることに目を留めてください」
との叫びに心を合わせて行きたいですね。
私たちも。



 私たちは求めなかったのに、
憐れみにすがろうともしなかったのに、
天の神、主は、
御子である方を救い主、キリストとして人の世にお遣わしくださり、
この方が私たちに代わって十字架刑を受けて下さったことで、
天の神、主と私たち人類との関係が
怒りの関係、処罰する関係から、
和解し、一つ家族になり、心通じ合い、思いを一つにしあう関係に入る道を
開いて下さったのだそうです。



 天の神、主は、私たち一人一人に、
この和解を受け取り、
聖である霊と呼ばれる方をお迎えして、
子としての身分を受け取り、
この方によって御父の御思いを心に置いていただいて、
御父と心通じ合い、思いを一つにしあう関係に入るよう、
私たちに提案し、懇願しておられるのだそうです(Ⅱコリント5:20)。
今日も。








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